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ACT.1  壊頽
 八月ももうすぐ終わろうかと言うある日。美奈子はいつものようにオフィスで仕事をしていた。大学を卒業後に就職した会社はそう大きくはなく、社内もアットホームで温かい雰囲気がある。そんな会社に就職できたのは、本当にラッキーだったと今でも思う。
 仕事も順調にこなせるようになった三年目。美奈子はこの仕事が大好きだった。
 もちろん、結婚しても仕事を続けるつもりだ。光俊も了承してくれている。

「江藤さん。この書類お願い」
 課長が書類の束を机の上に置いた。
「はい」
 課長が置いて行った書類の束を見やった。これまた大量の仕事をくれたものだ。
「がんばろ」
 まだ途中になっている書類に戻り、パソコンのディスプレイに向き直った。

 お昼を告げるチャイムが鳴った。美奈子と同じくパソコンに向かって仕事をしていた同僚たちは、それを聞くと席を立った。
「美奈ちゃん、お昼行こう」
 すぐ上の先輩である木下冴子が声をかけて来る。
「はい」
 二人は財布と携帯電話だけを持って、外に食べに出た。

 いつも昼食を取るのは、冴子が見つけた小さな洋食屋さん。ここの日替わりランチが安くて美味しい。お昼になってからすぐに出ないと長蛇の列に並ばなければいけなくなるほどの人気店だ。
 今日も早めに着いた美奈子と冴子は、少し並んだだけですぐに店内に入れた。
「今日の日替わりランチはこちらです」
 ウエイトレスがメニューを差し出しながら説明する。
「「じゃあそれで」」
 あまりに綺麗にハモったので、思わず笑ってしまった。

「美奈ちゃん、もうすぐだね。式」
「はい。冴子先輩、絶対来てくださいね」
 そう言うと、冴子は「もちろん」と頷いた。
 木下冴子は、仕事を教えてくれた先輩で、美奈子は彼女に憧れている。美人なのにそれを鼻にかけず、優しくて明るい性格。そんな素敵な女性になりたいと美奈子自身思っている。

 しばらくしてようやく日替わりランチがやって来た。今日のランチはチーズハンバーグにトマトソースがかかっている、ハンバーグ定食だ。それにライスとポテトサラダとオニオンスープがついて、九百八十円。
「美味しそう」
 運ばれてきた瞬間、甘いトマトソースの香りが鼻を抜けた。早速一口を頬張ると、トマトソースとチーズが程よく絡んで、口の中に広がる。
「美味しい」
 美奈子がそう言うと、冴子も頷く。
「やっぱりここのは何を食べても美味しいわね」
 二人はランチに幸せを感じながら完食した。

 食事が終わり、少し休んでいる時、美奈子の携帯電話が震え始めた。
「すいません」
 一応断わりを入れ、携帯電話を確かめる。知らない番号からだったが、市外局番が入っているから固定電話だろう。
「もしもし?」
『江藤美奈子さんでいらっしゃいますか?』
 相手は突然身元確認をしてきた。聞き覚えのない声に驚きながらも答える。
「はい。そうですが・・・・・・」
『北警察署の者ですが・・・・・・』
「・・・・・・警察?」
 思わぬ言葉に再び驚いた。どうして警察が携帯電話にかけてくるのだろう?
 美奈子の呟きに、冴子も驚いたようで、こちらをずっと見ている。
『はい。石川光俊さんをご存じでしょうか?』
 彼の名前が出たので、美奈子は頷いた。
「あ、はい。私の婚約者ですが・・・・・・」
『そうですか。・・・・・・こちらで携帯電話とお荷物をお預かりしているんですが、取りに来ていただけますか?』
「はい。それは結構なんですが、今すぐですか?」
『そうですね。出来れば早い方がいいかもしれません』
 腕時計で時刻を確かめた。昼休みはまだあと三十分ある。北警察署はここから近いので、三十分もあれば行って帰ってこれるだろう。
「分かりました。今から取りに伺います」
『よろしくお願いします』
 そうして電話は切れた。電話を切り、携帯電話を机の上に戻すと冴子が訊いてきた。
「何だったの?」
「何か『彼の荷物を預かってるから取りに来てくれ』って・・・・・・。携帯も一緒に預かってるみたいで・・・・・・」
 そう言うと、冴子の綺麗な顔が一瞬歪んだ。それを隠すように冴子が問う。
「荷物って忘れ物か何か?」
「そうだと思うんですけど・・・・・・。携帯を見て私にかけてきたのかなって」
 きっとそうだ。携帯電話も預かっていると言うことは、本人への連絡手段が何もないのだ。恐らく着信履歴か発信履歴を見て、かけて来たのだろう。
「仕事で必要なものだったら困るし、私、取りに行ってきますね。昼休み終わるまでには帰れると思うので」
 美奈子は時計を見ながらそう話した。しかし冴子の様子がおかしい。
「冴子先輩?」
 顔を覗き込むと、冴子はハッとし、顔を上げた。
「そうね。もし遅れるようなら、私が課長に言っておくわ」
「ありがとうございます」

 清算を終えると、美奈子は冴子と別れ、警察署に向かった。歩いて十分もかからないうちに到着する。
 建物の中に入ると、すぐ目の前に受付カウンターがあった。
「あの・・・・・・荷物を取りに来るように言われたんですが・・・・・・」
「失礼ですが、お名前は?」
「江藤美奈子です」
 そう言うと、受付の婦警さんの後ろにいた男性の制服警官がこちらにやって来た。
「あぁ、江藤さん。こちらへどうぞ」
「はい」

 警官に案内され、ある部屋に着く。そこはよく会議室にあるような机とパイプ椅子が置いてある狭い部屋だった。
「こちらでお待ちください」
 部屋に通され、椅子を勧められる。美奈子は素直に椅子に座り、言われたとおり待つことにした。

 数分後、二人の刑事らしき人が入って来た。先程の制服警官とは違い、スーツを着ている。後ろ側にいた若い刑事が荷物を手に持ってきた。
「江藤美奈子さんですか?」
 最初に入って来た中年の刑事に確認され、美奈子は「はい」と頷いた。
 すると、若い刑事が持っていた荷物を机に広げた。
「こちらの荷物は、石川光俊さんの物に間違いないですか?」
 そう確認され、美奈子は一つ一つをよく見てみた。
 まず鞄は確かに光俊のものだ。あれは誕生日に美奈子がプレゼントしたものなので間違いない。その他のものも恐らく光俊のものだろう。会社で使うものはよく分からない。
 次に無造作に置かれた携帯電話を手に取ってみた。光俊の機種だ。ストラップも美奈子とお揃いのもの。二つ折の携帯電話を開いてみる。待ち受け画面は光俊と美奈子のツーショット。間違いない。
「はい。彼の物です」
 そう言うと、二人の刑事は顔を見合わせた。何やら渋い顔をしている。
 もしかしてこういうのって、手続きとか面倒臭いのだろうか? ・・・・・・それよりも光俊は鞄ごとどこかに忘れたのだろうか? しっかり者の彼にしては間が抜けている。
 そんなことをぼんやりと考えていると、若い刑事がゆっくりと口を開いた。
「非常に・・・・・・言いづらいことなのですが・・・・・・」
 美奈子にはその次の言葉を予測することなどできなかった。
「石川光俊さんは、今朝・・・・・・ご遺体で発見されました」
 その刑事の言葉は、確かに美奈子の耳に届いていたのに、脳の情報処理が追いつかない。
「え? ・・・・・・どういうことですか?」
 一拍遅れて聞き返す。若い刑事は相変わらず神妙な面持ちで答えた。
「昨夜遅くに、石川さんは歩道橋から転落して、そのまま意識を失い、発見された時にはもう・・・・・・」
 何を言われたのか、分からない。
「何、言ってるんですか?」
 零れた呟きに、刑事も複雑な顔をしている。今度は中年の刑事が口を開いた。
「昨夜は雨がひどく降っていました。恐らく路面で足を滑らせたのでしょう」
 全身の力が抜ける。ただ呆然としてしまう。
「ご遺体の、確認をお願いできますか?」
 若い刑事に言われ、我に返る。
 そうだ。まだ光俊だと決まったわけじゃない。たまたま光俊の鞄と入れ替わってしまった赤の他人かもしれない。
「分かりました」
 そう返事すると、二人の刑事が立ち上がり、美奈子を案内した。

 案内された部屋は、よく刑事ドラマで見るような、無機質な部屋だった。その真ん中に真っ白な布をかけられた遺体が小さなベッドの上に横たわっており、奥にはお焼香が供えられていた。
「こちらへ」
 若い刑事に顔が見える位置まで誘導され、美奈子はそこに立った。
 顔の部分にかけられた白い布が外される。美奈子は思わず息を呑んだ。
「・・・・・・っ!」
 その顔を見た瞬間、全身が凍りついた。言葉を出そうにも何も出てこない。ただ、彼の顔を見つめることしかできない。
「石川さん、ご本人で間違いないですか?」
 そう訊かれ、美奈子はようやくゆっくりと頷いた。
「はい。・・・・・・間違いありません」
 胸の奥が締め付けられる。
 どうして彼が、こんなところで寝ているんだろう? 今、仕事の時間なのに・・・・・・。
 次の日曜には一緒に式場へ打ち合わせに行くって言っていたのに・・・・・・。
「み、み・・・・・・つくん」
 ようやく口から出た声は、喉の奥でつっかえて震えていた。
 ゆっくりと手を伸ばし、もう青白くなってしまった頬をそっと撫でる。
「何、やってるの? 今、仕事の・・・・・・時間、でしょ?」
 光俊はただ青白い顔をして、微動だにしない。温かかったはずの頬は、熱を失っている。
「次の日曜は・・・・・・打ち合わせ、するんじゃなかったっけ?」
 そう言った瞬間、美奈子の頬に涙が伝った。
 もうあの笑顔は見れない。あの優しい声を聞くことも、温かい腕を感じることもできない。
 そう実感せざるを得なかった。もうその瞼を開くことはないのだ。
 止めどなく溢れる涙を止めることなどできなかった。

 どれくらいその場にいたのか、正直覚えていない。
「美奈ちゃん」
 突然声をかけられ、美奈子はようやく顔を上げた。
「冴子・・・・・・先輩・・・・・・」
 そこには紛れもなく、冴子が立っていた。
「やっぱり・・・・・・嫌な予感が・・・・・・当たってたんだ」
 冴子はベッドに横たわる光俊を見て、そう呟く。
「美奈ちゃん、いつまでもここにいちゃいけないわ。彼を連れて帰ってあげなきゃ」
 冴子の言葉にようやく美奈子はその場を離れた。

 最初に通された部屋で、若い刑事に色々と説明されたが、何一つ頭に入って来ない。そんな美奈子の代わりに、冴子が刑事の話を聞いていた。美奈子は何の説明を受けていたのか、よく覚えてない。
 冴子が来てくれて良かった。自分一人では何もできない。
 今だってあれは何か悪い夢だった気がしてならない。
「石川さんのご両親はどちらにいらっしゃるんですか?」
 刑事に訊かれたのに答えない美奈子に、冴子が返事をするように促す。
「あ・・・・・・実家は大阪の方です」
「そうですか・・・・・・」
 刑事はどうするか悩んだようだった。
「連絡先、分かりますか?」
「あ、はい」
 刑事に訊かれ、美奈子は携帯電話を取り出した。電話帳を検索し、光俊の実家の電話番号を出す。
「ここです」
 携帯電話のディスプレイを見せると、刑事はその番号をメモに取った。それが終わると携帯電話を美奈子に返す。
「ありがとうございます。連絡してみますね」
 刑事はそう言って部屋を出て行った。
「・・・・・・冴子先輩は、どうしてここに?」
 ずっと気になっていた。どうして『嫌な予感』などと言ったのだろう?
「同じことがあったのよ。私の弟が事故に遭った時もね、警察からかかって来た時に『忘れ物を預かってるから取りに来てくれ』って言われたの」
 だから美奈子が警察から『荷物を取りに来てくれ』と言われた時に、様子がおかしかったのだとようやく気づく。
「警察の人はね、亡くなったことを先に伝えて、ここに来るまでに動揺してその人が事故に遭わないように、そうやって言うのよ」
 冴子の言葉に納得した。確かにそれを先に聞いていたら、ショックで自分が事故に遭いかねない。
「だからね、課長や社長に説明して追いかけてきたの。・・・・・・来て、正解だったわね」
 冴子が優しく微笑んだ。その優しい笑顔に、美奈子は思わず抱きついた。
「先輩!」
 涙がまた溢れて来る。どうしていいのか分からない。
「どうしたら、いいんですか? 私、どうしたら・・・・・・?」
 壊れた玩具のように呟く。光俊がもういないなんて、考えられない。この先、どうしたらいいのか全く分からない。
「美奈ちゃん・・・・・・」
 冴子もどう言葉をかければいいのか、分からなかった。ただそっと美奈子を抱きしめた。

 そうこうしているうちに、若い刑事が戻って来る。抱きついていた美奈子は冴子から少し離れた。
「石川さんのご両親は、夕方頃お見えになるそうです。その間、どうなさいますか?」
 そう訊かれ、冴子は少し考えた。
「じゃあ一旦会社に戻って、荷物を取ってきます」
「分かりました」
 そう言うと、若い刑事はそこに広げているままになっていた光俊の荷物を片付け始めた。
「先輩?」
「一旦戻りましょう。会社のみんなには私から説明してあげるから」
 その言葉に頷き、二人は会社に戻ることにした。

 本当に、冴子がいてくれてよかった。
 今も頭が正常に回転していない美奈子は、冴子に支えられながら会社に戻ってきた。
「美奈ちゃんは帰る準備しておいで。私が課長たちに話してくるから」
「はい」
 素直に冴子の言う通りにする。自分も行くべきかもしれないと思ったが、行ったところで何をどう説明したらいいのか分からない。ここは冴子に任せておいた方が得策だ。
 美奈子がデスクに戻って来ると、課長が話しかけようとしてきた。それを冴子が遮るように立つ。
「課長、お話よろしいですか?」
「あぁ」
 課長と冴子が社長室へと入って行ったのを、目の端で捕らえた。

 未だに信じられない。どうしてこんなことになってしまったのか、分からない。
 でもただ呆然としているだけじゃ、ダメだ。これからやるべきことはたくさんある。
 だが、光俊のご両親にどう説明したらいいだろう?
 美奈子はデスクに肘をつき、両手に顔を埋めた。
 同僚は声をかけてこない。気を使ってるんだろうか?
 でもそれは有難かった。今何を話しかけられても、答えられる心境ではない。
 ふとデスクに山積みになっている書類が目に入った。やりかけのものと、今朝課長が置いて行ったままのまだ手を付けてないもの。
 顔をあげ、その書類に手を伸ばそうとして、マウスに手が当たる。すると、省電力モードになっていたディスプレイが、ゆっくりと明るくなった。映し出された画面は、午前中に開いていたエクセル。お昼に出る前に上書き保存はしておいたが、念のためにもう一度上書き保存をして画面を閉じる。
 やりかけの書類に付箋を貼り、まだ手を付けてない書類と分けて置いた。

 その時、社長室から冴子が出てきた。
「美奈ちゃん、午後から休み頂いたから、一緒に帰りましょう」
「え? 冴子先輩も?」
 聞き返すと、冴子は頷いた。
「せめて・・・・・・彼のご両親が来られるまで、一緒にいようと思って・・・・・・」
 何とも心強い言葉だ。一人じゃきっと精神が保てない。
「だから帰る準備しましょう」
 冴子の言葉に美奈子は素直に頷いた。

 警察署に戻り、光俊の両親が来るのを待った。その間、ずっと冴子が隣にいてくれたのは、本当に心強かった。
「何かの・・・・・・悪い夢、なんでしょうか?」
 美奈子の呟きに、冴子はどう返事すればいいのか、分からなくなる。
「何かの・・・・・・間違いであって欲しい・・・・・・」
 そう願わずにはいられない。
「・・・・・・現実って・・・・・・残酷よね」
 冴子の言葉に、美奈子は俯いていた顔を上げた。
「これも・・・・・・運命なんでしょうか・・・・・・」
「それは違うと思う」
 美奈子の言葉は、すぐに冴子に否定された。
「そう言いたくなるのも分かるけど、そんな簡単なものじゃない。・・・・・・人間はいつか死ぬわ。抗っても、それは変えられない。いつ死ぬか、どうやって死ぬかなんて、誰にも分からない。でも総てが運命で決まっているのだとしたら、生きてる意味なんて、あるのかしら?」
 冴子の言葉は、胸の奥の奥を揺さぶった。
「運命のせいにしたい気持ちもよく分かる。だけど、そんな簡単なものじゃないでしょ?」
 冴子の言葉にただ頷くしかできない。そうだ。冴子だって弟を事故で亡くしているんだった。大切な人を亡くした悲しみを、冴子は痛いほど分かってくれることが、嬉しくもあり、悲しくもあった。

「美奈子さん」
 声をかけられ、美奈子は顔を上げる。目の前には光俊の両親がいた。
「お義父さん、お義母さん・・・・・・」
 口から出た言葉はやはり震えていた。何をどう話せばいいのか、分からない。
「さっき警察の方に全部聞いたわ」
 何を言うのか迷っていると、光俊の母がそう言った。義父が美奈子の肩を優しく叩く。
「辛い想いを・・・・・・させてごめん」
 その言葉に、美奈子は首を横に振った。辛いのは、みんな一緒だ。
「そんな・・・・・・。お義父さんやお義母さんだって、そうじゃないですか」
 そう言うと、二人は優しく泣き出しそうに微笑んだ。

 葬儀は都内で行うことにした。
 弔問に訪れたのは、光俊の会社の人や学生時代の友人たち、本来なら結婚式に呼ぶ予定だった人たちだ。まさか葬儀に呼ぶことになるとは思いもしなかった。
 それはきっと向こうだってそうだ。美奈子の事に気づいても、どう話しかけていいか分からないのか、頭を下げて通り過ぎて行く。
 だがその方が有難かった。光俊の知り合いとはいえ、すべての人を知っているわけではない。そんな知らない人を相手に話をできるほどの精神を今は持っていない。

 遺影に映る光俊は、相変わらず優しく微笑んでいる。でももうこの笑顔を見ることはできない。
 そう頭の中では理解しているのに、心のどこかで夢なんじゃないかと思っている。胸が苦しくて息ができない。泣きたいのに、涙は一滴も出て来てくれない。
 夢なら早く醒めて欲しいのに、醒めることのない悪夢。
 実感なんて、全然ない。棺に入っている光俊は、誰か別人なんじゃないのか。そんな気さえしてくる。

 献花の際、棺の蓋が開けられた。棺で眠る光俊の頬にそっと触れてみる。
 やっぱり冷たくて、『死』を実感するには十分すぎるほどだった。
 だけど心のどこかで否定をしている。『これは悪い夢なんだ』って。夢から醒めれば、きっと光俊はあの温かい笑顔で迎えてくれる。
 そう思わずにはいられない。

「美奈子さん」
 火葬場へ行く途中で呼び止められ、美奈子は顔を上げた。目の前にいた人物は、確か光俊の友人だ。
「お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか? 後藤です。後藤忠和です」
 名乗った男性は何度か会ったことがあるので、美奈子は頷いた。
「本当に急、でしたよね」
「ええ」
 どう話をしていいのか分からない。だって彼に会う時はいつも光俊がいたから。
「事故、だったんですか?」
 そう訊かれ、美奈子は頷いた。
「はい。歩道橋から滑り落ちて・・・・・・打ち所が悪かったんだろうって」
 美奈子は警察に言われたことをそのまま伝えた。それを聞いた忠和は溜息を漏らす。
「あいつにしてはマヌケな死に方ですね」
 美奈子はその言葉に少し笑った。
「ホントに」
「それにこんな綺麗な婚約者を残して逝くなんて・・・・・・」
 その言葉に美奈子は曖昧に笑う。
「美奈子さん、困ったことがあったら何でも言ってください。光俊の代わりにはなれないですけど、何でもお力になります」
 忠和の言葉は、支えを失った美奈子にとって有難い言葉だった。
「ありがとうございます」
「そうだ。名刺・・・・・・」
 忠和はスーツの胸ポケットから、名刺ケースを取り出し、名刺を美奈子に差し出した。
「ここに携帯番号やメールアドレスも書いてるので、良かったら連絡下さい」
 断る理由もないので、素直に受け取る。
「ありがとうございます」
「また落ち着いたら、飲みにでも行きましょう。愚痴でも何でも聞きますから」
 忠和はそう言って柔らかく笑った。
「はい。是非」
 美奈子がそう言うと、忠和は嬉しそうに頷いた。

 棺が火葬炉の中に入って行く。もうあの優しい笑顔を見ることも、その頬に触れることもできない。
 骨上げも参加させてもらった。だけど全く実感がない。
 これが本当に、光俊なのか? そう疑いたくなる。
 きっとここにいる全員が思っている。人間はこんなにあっさりと死んでしまうのかと。
 こんなに呆気なく終わってしまうのかと。

 すべてがあっという間で、葬儀が終われば皆は日常に戻って行く。
 それが当然なのだが、光俊がこの世からいなくなったことをすぐに忘れられてしまったようで、悲しい。

 悲しくて、何も喉に通らないはずのに、体は食べ物を要求する。
 こんなにも悲しいのに、通常どおり食べ物を摂取する自分が非情な人間に思えてきて、余計に悲しくなる。
 こうやって少しずつ忘れて行くのだろうか?
 二人で過ごした日々も、愛し合った温かい記憶も。

 上司は気遣って、もう少し休んでもいいと言ってくれたが、 美奈子は三日で復帰した。
 家にいても辛いだけで、仕事をしていた方が気が紛れる、と上司に説明すると納得してくれた。
 それでも社内のみんなが気を使ってくれているのが分かり、居心地はいいものではなかった。
 ただ一人。冴子を除いては。

「美奈ちゃん、これお願いね」
 冴子はそう言って大量の書類を机に残して行った。
 美奈子としては、気を使われるより、そうやっていつも通り仕事を頼んでくれた方が有難い。
 そんな冴子の影響もあってか、同僚たちもいつしか以前と同じ様に接するようになってくれた。

 光俊のマンションは、彼の両親が引き払い、遺骨も地元へ連れて帰ってしまった。
 美奈子の手元に残るのは、彼の眼鏡だけ。両親にお願いして、頂いたものだ。
 いつもはコンタクトレンズを入れている彼だったが、家にいて寛いでいる時はこの眼鏡をかけていた。
 そのリラックスしている姿が、美奈子は一番好きだった。
 いつも柔らかく笑う彼の笑顔を、この眼鏡が一層引き立てていたからだ。

 だけど最近では、浮かんでくるはずの光俊の笑顔は曖昧で、その声がどんなものだったかも思い出せない。
 どんな笑顔だった? どんな声で話してた?
 忘れたくないのに、靄がかかったように思い出せない。
 部屋に飾ってある写真に目を向けると、光俊はいつものように笑ってた。ずっと見てきたはずの笑顔なのに、心の奥にぽっかり穴が開いて、それを受け止められない。

 忘れたくないのに、消えていく。
 浸食されていくようにゆっくりと。

 整然としていたものが、何かの衝撃で一瞬で崩れ去るように、あの日からすべてが変わってしまった。
 音を立てて崩れてゆく、未来への希望。

 これからどうやって生きていけばいいのだろう?
 未来を約束した彼はもういない。

 もう枯れてしまったのか、ふとしたことで出てきた涙すらも出てこなくなった。

 こうして亡くなってしまった人を忘れて、生きていくしかないのだろうか?


 いつの間にか四十九日を迎え、美奈子は大阪の光俊の実家まで足を運んだ。
 相変わらず彼の両親は温かく迎えてくれた。お互い、未だに実感がないまま、法事は終わってしまった。


 ある日ふと目に入ったのは、棚に置いたままになっていた名刺。取り上げてみると、そこには『後藤忠和』という名前が書いてある。
『ここに携帯番号やメールアドレスも書いてるので、良かったら連絡下さい』
 そう言って渡された名刺。あの日以降、忘れてしまっていた。
『困ったことがあったら何でも言ってください。光俊の代わりにはなれないですけど、何でもお力になります』
 彼はそう言ってくれた。あの言葉は、本当に嬉しかった。
 電話をしてみようか・・・・・・?
 ふと名刺の肩書を見てみると、『副社長』と書いてある。そう言えば彼は父親の会社の手伝いをしていると光俊が言っていた。
 忙しいだろうか? 邪魔になってしまうだろうか?
 あれはつい口から出てしまった言葉だったのだろうか? 本当に心から言ってくれた言葉だったのだろうか?
 悩んだってその真意が分かるわけない。
 何故か急に誰かに、光俊をよく知っている誰かに、会いたくなった。
 メールをしてみよう。メールならきっと、忙しくない時に見てくれる。
 それにいきなり電話をするのは、おこがましい気がする。
 そう思い立つと、美奈子は早速メールを打ち始めた。

 今日は土曜日で、美奈子の会社は休みだったが、忠和の会社が休みかどうかなんて分からない。副社長なら、土日関係なく働いているだろうか?
 時計を見ると、一時を過ぎていた。せめて十二時なら、昼休みだったかもしれない。副社長に昼休みがあるのかは分からないが。
 そんなことをぼんやりと考えていると、携帯電話が鳴った。
 驚いてすぐに携帯を取り上げると、忠和からの返信メールだった。早速開いてみる。
『ご連絡ありがとうございます。もしお昼がまだでしたら、一緒にランチなどはいかがでしょうか? 時間は少ししか取れませんが、私もお会いしてお話したいと思っていました』
 丁寧な文章に好感を持った美奈子は、もちろんOKだと返事をした。

 誘ったのはこちらなので、指定された場所まで行くと伝えたのだが、忠和は近くにいると言って迎えに来てくれた。
 マンションの近くで待っていると、高級車が目の間で停まる。
 まさかと思いつつ見ていると、運転席からスーツを着た男性が降りてきた。
「江藤美奈子さんですか?」
 確認されたので頷く。
「あ、はい」
「どうぞ」
 運転手はそう言うと、後部座席のドアを開けた。されたことのない対応に緊張しながら、開けられたドアに顔を覗かせると、忠和と目が合った。
「お待たせしました。どうぞ」
 そう言って彼は美奈子を招き入れた。乗り込むと運転手がドアを閉め、運転席へと回る。
「すみません。突然お呼び立てして・・・・・・」
 美奈子がそう言うと、忠和は「とんでもない」と返す。
「嬉しかったですよ。ご連絡くださって。数回しかお会いしていないのに、急にあんなことを申し出て、美奈子さんが気を悪くしたんじゃないかって心配だったんです」
 そう言って忠和は相変わらず柔らかく笑った。

 着いた店は高級ホテルの系列が経営するレストランだった。
「どうぞ」
 椅子を引かれ、座らされる。そんな些細な心遣いに緊張が高まった。
「いいのでしょうか? こんな高級なところ・・・・・・」
 恐る恐る訊ねると、忠和は微笑み返した。
「心配しなくても大丈夫ですよ。ここは父の会社の系列ですから」
 あっさりと言い放った言葉に、美奈子は一瞬頭が真っ白になった。
 そうだった。この人は副社長だった。慣れていて当然だ。
「どうぞ。お好きな物を注文してください」
「あ、はい」
 そうは言われたが、メニューを見ても何を注文していいのか分からない。
 困っていると、忠和が口を開いた。
「お薦めのメニューがあるんですが、いかがですか?」
「・・・・・・はい。お願いします」
 申し出に美奈子は素直に頷く。忠和はウエイターを呼ぶと、注文を始めた。

 美奈子はようやくゆっくりと忠和を見た。光俊より少し長めの黒髪を清潔に整え、スーツにはきっちりとアイロンがされており、いかにもトップに立つ人間だと分かるオーラをまとっている。
 だが、その笑顔は柔らかく、好感が持てる。雰囲気がどことなく光俊とかぶるのは、やはり“類友”というやつなのだろうか?
「美奈子さん」
「はいっ」
 突然声をかけられて、美奈子は少し驚き声が上ずった。しかし忠和は気にせずに話かける。
「もうだいぶ落ち着かれましたか?」
「あ、はい」
 気遣う声が嬉しかった。
「でも、まだ信じられません。実感がなくて・・・・・・。ある日突然、ひょっこり帰って来るんじゃないかって・・・・・・」
 そう言うと、忠和は伏せ目がちに頷いた。
「私もです。気付けば携帯を握ってしまいます」
 同じ様な行動をする美奈子は思わずクスリと笑う。
「同じですね。私もしてしまいます。もう電話はかかってこないって、分かっているはずなのに・・・・・・」
 光俊の携帯電話は、今は彼の母親が使っている。息子の形見として。
「式の準備も、されてたんですよね?」
 そう訊かれ、頷く。
「はい。亡くなった週末に式場に打ち合わせに行く予定でした」
「そう、だったんですか・・・・・・」
 忠和は『しまった』と言う顔をしたのを、美奈子は見逃さなかった。自嘲するように笑う。
「今ではもう、遠い昔のような気がします。たった二ヶ月しか経っていないのに・・・・・・」
 先日四十九日が終わったばかりだった。それなのにどうしてこんなにも遠い過去に思えるのだろう?
「あまりにも急でしたからね」
 忠和が付け足すように言うと、美奈子は頷いた。
「ええ。まだ事件に巻き込まれて、亡くなったのなら、その犯人を恨むこともできますけど。彼は事故だったので、そう言う訳にも行かなくて・・・・・・」
 そう言うと、忠和は一瞬驚いた顔をした。
「すみません。変なこと言いました?」
 訊くと、忠和は「いえ」と短く返事した。
「確かに・・・・・・そうだなぁと思って」
 彼は美奈子のようには考えていなかったのだろう。
 微妙な空気になってしまい、美奈子がどうしたものかと悩んでいると、すぐに料理が運ばれてくる。まずは前菜のサラダだ。
「美味しそう」
 彩り鮮やかなサラダに目を奪われる。
「どうぞ。ご遠慮なく」
 勧められたので、美奈子は「いただきます」と言って、サラダを口に入れた。
「美味しい」
 美奈子の言葉に、忠和は満足そうに笑った。
「当店自慢の野菜とドレッシングです」
「そうなんですか。さっぱりしていて、とても美味しいです」
 そう感想を述べると、忠和は嬉しそうに笑った。

 その後も料理が運ばれてきては、忠和が説明してくれた。
 直接料理を作っている訳ではないのに、よく把握していることに美奈子は驚いた。
「良くご存じなんですね」
「一応経営者ですからね。お客様に提供するものを把握するのは当然のことですよ」
 そう言った忠和は、本当にこの仕事が好きなのだと美奈子は思った。

「すみません。御馳走になってしまって・・・・・・」
 車内で美奈子が謝ると、忠和は笑った。
「いえいえ。こちらこそご連絡くださってありがとうございました」
 忠和はそう言って頭を軽く下げた。
「光俊がいないのが・・・・・・残念ですけど」
 その呟きに、美奈子は「本当に」と頷く。
「あの・・・・・・」
 忠和はかしこまり、美奈子に向き直った。
「また・・・・・・お食事とかいかがでしょうか? もちろん、お嫌でなければですが」
 まさかの展開に驚きつつ、美奈子は頷いた。
「はい。もちろん」
 その返事に、忠和はホッとした顔を見せた。
「良かった。お仕事は、土日がお休みですか?」
「あ、はい」
「では、またご連絡差し上げますね」
「はい。お待ちしています」
 自分でも驚くほど即答していた。しかしそれは素直にもう少し話してみたいと思ったからだ。

 高級車が遠ざかって行くのを見送り、美奈子は自宅のマンションへと戻ってきた。
 短い時間だったけど、話をできて良かった。光俊の親友だった彼は、美奈子の気持ちをよく分かってくれた。
 家族や冴子とはまた違う気遣いが、何よりも嬉しい。まるで腫物を触るかのように、光俊の話題になるべく触れないのに比べ、忠和は光俊の事をよく話してくれた。だから自然と自分も光俊との思い出を少しだけだが話すことができた。
 少し胸の奥のモヤモヤがなくなった気がする。
 ぽっかりと空いた穴は、まだ塞がりそうもないが、この靄が少しでも晴れるのなら、今日の時間はきっと無駄じゃなかった。
 目を上げると、窓の外に青い空が見えた。美奈子はゆっくりと窓に近づくと、窓を開けた。
 少し肌寒い風が室内に吹き込んでくるが、気にせずに空を見上げる。
 結婚式の予定だった日はいつの間にか過ぎていて、季節は冬へと移り変わっていた。
 時が経つのは早い。けれどまだ二ヶ月しか経っていない。不思議な感覚に陥る。
「光くん・・・・・・」
 呟いた声は秋風に乗って、空へと消えた。


「副社長。何を企んでるんですか?」
 美奈子を送り届けた後、会社に戻る道すがら、運転手を務めていた秘書がそう訊いてきた。
「企む? 心外だな」
 忠和はそう言って笑った。
「珍しいじゃないですか。あんな紳士的な副社長なんて」
「どう言う意味かな?」
 秘書の癖に毒舌な台詞に忠和のこめかみに十文字が入りかける。
「特別な方なんですか?」
 そう訊かれ、少しの沈黙が流れた。
「まぁ・・・・・・特別と言えば特別、かな」
「亡くなった親友の婚約者だからですか?」
 間髪入れない直球な質問に、忠和は思わずバックミラー越しに見ている秘書を見た。視線がぶつかるとフッと笑い、顔を背ける。
「・・・・・・かもな」
 忠和は流れて行く外の景色に視線を移した。
「斎木」
 しばらくの沈黙の後、忠和が秘書の名を呼んだ。
「はい」
「彼女の事をどう思う?」
 その質問の意図が分からず、斎木は聞き返す。
「どう思うとは? どう言う意味ですか?」
 そう訊き返されると、忠和は黙り込んだ。それにピンときた斎木は眉をひそめる。
「傷心の女性に手を出すなんて卑怯者のすることですよ!」
「えーい! 黙れ!」
 恥ずかしくなって思わず怒鳴る。
「その反応は昭和です」
 あっさり返されたツッコミに、忠和は顔が真っ赤になった。
「・・・・・・お前は運転だけしてればいい」
 精一杯の大人の対応をすると、斎木は素直に「はい」と返事をした。
 こいつは冷静に人を怒らせるのが趣味なのかと時々思う。しかしきっと天然だ。
「ハァ・・・・・・」
 小さく溜息を洩らすと、忠和は足元に置いていた鞄から書類を出し、仕事に戻った。