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act.3 彼女の事情
 そして翌日。優子は暗い面持ちで恐る恐る教室に入った。
 だが、特に何かを言われるわけでもなく、優子の存在に気づいているクラスメートはいない。
 ホッと胸を撫で下ろしつつ、自分の席に向かう。その瞬間、中学時代の記憶が蘇った。
 暴力的な言葉を書き込まれた机と椅子。酷い時には廊下に放り出されていた。
 恐々と近づいてみるが、机と椅子は昨日と変わらずその位置にあって、暴力的な言葉も書き込まれていなかった。
 何もされていなくて安心するが、逆に怖い。何か別のことをされるのだろうか?
「おはよう」
 声をかけられ、優子は驚いた。顔を上げると、翼がいた。
「・・・・・・お、おはよう」
「どうかした?」
「え?」
 そう訊かれ驚いて顔を上げる。
「顔、青いよ?」
 顔を覗きこまれ、驚いた優子は顔を背けた。
「大丈夫・・・・・・」
「そう? だったらいいけど・・・・・・」
 翼はそう言いつつも、気になるようだった。だが優子はそれに気づかないフリをして席に着く。

 中田真由子が優子を睨んでいる。
 翼はその事にいち早く気づいていた。まだ優子は気づいていないようだ。
 翼は優子たちの中学時代を思い出し、溜息を洩らした。
(人間ってどうしてこう執念深いんだろうなぁ・・・・・・)
 真由子が優子を恨む理由はただ一つ。
 真由子の想い人、高村健太が優子に好意を持っているから。
 中学時代は嫉妬に狂った真由子が優子に怒りをぶつけていた。優子は恐らく自分が悪いからイジメられているんだと思っているが、実際は嫉妬だ。
 イジメをするような人間を健太が好きになるとは思えないが、真由子はそれに気づかない。
 高校に進学してからは、周りの環境の変化もあり、中学時代のような言葉の暴力というイジメをすることはなかったが、クラスの女子が優子に近づかないように手を回している。
 だから昨日、優子に近づいた由美を許せなかったのだろう。自分の言うことを聞かない人間が、気に入らないのだ。
(どうしたものか・・・・・・)
 やはりこのまま見守るしかできないのだろうか? せっかく地上にまで降りてきたのに。
 自分が情けない。近くにいるのに、どうすることもできないなんて・・・・・・。

「あーあ。スランプ入ったか?」
 翼となったヨクを見守っていたダンが溜息をついた。
「今は人間と同じ力しかないんだ。悩むのは当たり前だ」
 隣にいた同じく天使のレンがそう言い放つ。
「お前は相変わらず淡々と言うな」
 レンの冷たい言い方に、ダンは思わず苦笑した。
「私はずっとこうだ」
「あぁそうだな」
 淡々と言い返され、ダンはもう言い返す気力を無くした。
「だが、神が許されたんだ。ヨクならできると確信してのことだろう」
 レンの言葉に、ダンは頷いた。
「あぁ、そうだな」

 由美は迷っていた。優子に声をかけたい。だけど、真由子が自分の行動をじっと見張っていることにも気づいている。
 どうすればいいんだろう?
『今後一切、あいつと口利かないで。じゃなきゃ絶交だからね』
 昨日の真由子の声が蘇る。
 どうして真由子はあんなに怒ったのだろう? 何もあそこまでムキになる必要はないのに。
 真由子と優子の間に何かあったのだろうか? だとしても今それを知る術はない。真由子に聞いても教えてくれないだろう。
 肝心な時に勇気が出ない。結局、あの頃と同じだ・・・・・・。

「真由ちゃん。由美、何であいつに構うんだろうね?」
 取り巻きの一人が訊ねた。
「知らないわよ。いいカッコでもしたいんじゃない?」
「そうなのかなぁ?」
 あっけらかんと返した真由子だったが、心の奥底では気に食わない。
 どうして、あんなヤツに構おうとする? どうしてあいつばっかり・・・・・・。
 あんな根暗で、下ばっかり向いてるようなヤツなんて、相手にしなきゃいいのに。
 どうして由美は・・・・・・。由美だけじゃない。健太だってそうだ。幼馴染だからって、あんなに気にかけなくたっていいじゃないか。どうしてあんなヤツを健太は好きなんだろう?
 どうして・・・・・・自分じゃないんだろう?
「真由ちゃん?」
 自然と俯いた真由子に、取り巻きが覗き込む。
「どうかしたの?」
「何でもないわよ」
 真由子は顔を上げ、何でもないように装った。

 その日一日、事態は何も進展することはなかった。翼は思わず溜息をついた。
「上手くいかないなぁ」
 優子は話しかければちゃんと答えてくれる。笑顔を見せることはないものの、少しは心を開いてくれていると思う。
 だけどダメだ。自分と仲良くなったとしても、クラスの中で孤立しているのには変わりない。
 どうすれば皆と仲良くなることができるんだろう?
「やっぱ外見かなぁ・・・・・・」
 あの暗い印象の外見をどうにかすれば、皆の見方も変わるだろうか?
「いや、その前に・・・・・・」
 真由子との不和をどうにかすることが先決だ。
 さて。どう動くか。

 それから数日が経ち、健太は足にギブスは巻いているものの無事に退院した。
 健太が学校に来ると、クラスメートが心配そうに近寄る。もちろんそんな中に優子が入れる訳ない。
「あの子、誰?」
 翼に話しかけられ、優子は驚きつつも答えた。
「高村健太君。学級委員長。怪我で・・・・・・入院してたの・・・・・・」
「へぇー」
 自分のせいで、なんて言えるはずはない。優子はまた俯いた。

 翼は自分でも白々しいと思った。健太の事だってよく知っている。
 優子はクラスメートに囲まれた健太に近づこうとはしない。翼が健太を見ると、彼は優子を気にしているようだった。しかしクラスメートたちに囲まれていて、動けない。
 そこで翼は、優子に再び声をかけた。
「木元さんは行かないの?」
 あそこ、と群がっているクラスメートたちを指さす。
「あたしは・・・・・・別に・・・・・・」
 また俯く。この様子なら優子は見ていない。真由子が一番に健太に駆け寄ったことも、今も健太の隣で話していることも。
 だから気づくわけがない。真由子がどうして優子をよく思っていないのかを。

 結局、地上に来ても何も変わらない。これじゃ、天界で見てた時と何も変わらないじゃないか。
 でもここで諦めたりしたら、来た意味がない。それに、自分は天界に戻ることもできない。
 どうすればいい? どう動けばいい?

「翼くん」
 不意に声をかけられ、翼は驚いた。振り向くと、谷沢由美が立っていた。
「谷沢さん」
「こんなところにいたんだ」
 そう言いながら近づいてくる。今は昼休みで、翼は屋上にいた。柵に寄りかかっていた体を、反転させる。
「どうしたの?」
 そう訊ねると、由美は急に深刻な顔になった。後ろの高い位置に一つに結んだ長い髪が揺れる。
「相談したいことがあるの。構わない?」
「相談?」
 聞き返すと、彼女は頷いた。こんな転校生に何の相談があるというのだろう? 転校生だから逆に話しやすいのだろうか。
「いいよ。俺でよければ・・・・・・」
 そう言うと、由美はホッとした様子で翼の横に立ち、柵を握る。
 しばらくの沈黙の後、由美は静かに口を開いた。
「翼くんは何で・・・・・・木元さんに話しかけるの?」
 思わぬ質問に、翼は驚いた。
「何でって?」
 質問で返すと、由美は一瞬翼の顔を見て、また俯いた。柵を握りしめる手が震えていることに気づく。
「・・・・・・言い方悪いけど、彼女、傍から見ててもクラスの皆からあまり良く思われてないって分かるじゃない? それなのにどうして・・・・・・?」
 由美は翼の顔を見ようとはしなかった。こんな言い方をして、怒られるとでも思っているのかもしれない。翼は怖がらせないようになるべく穏やかに答えた。
「気になるからだよ」
「え?」
 意外な答えだったのか、由美は驚いて顔を上げた。視線がぶつかり、翼は苦笑いを浮かべる。
「それじゃあ理由にならない?」
 そう問うと、由美は首を横に振った。
「翼くんはすごいね。・・・・・・あたしにはできない」
「どうして?」
 そう尋ねると、由美は言葉を探しながら口を開く。
「中学の時にね、同じクラスに暗い感じで、地味で目立たない子がいたの。だから皆にいつもからかわれてた。・・・・・・それが段々とエスカレートして・・・・・・」
 そこまで言うと、由美は思い出したくないと言うように目を固く閉じた。
「担任は知っていたのに、何もしなかった。皆見て見ぬフリしてた。あたしも・・・・・・怖くて、見て見ぬフリしてた」
 由美は一層強く柵を握ったのを、翼は見逃さなかった。
「・・・・・・ある日、彼女は自殺した。イジメていた子の名前と、担任が見て見ぬフリをしていたことを遺書に書いてね。・・・・・・イジメていた子たちは学校にいられなくなって、転校して行った。担任も処分を受けた。だけど、あたしは……見て見ぬフリをしていたあたしは、何も罰を受けなかったの。あたしだって、イジメていた子たちと何も変わらないのに・・・・・・」
 由美は今にも泣きだしそうだった。
 この子は、ずっとそうやって自分を責めていたんだ。何も悪くないのに。彼女もまた被害者なのかもしれない。
 翼は由美の頭をポンポンと優しく撫でた。すると由美は驚いて、顔を上げた。
「君がそんなに気に病むことないよ」
「でも・・・・・・」
 由美は再び俯いてしまう。
「その子に似てるから、木元さんが気になる?」
 そう訊くと、由美は静かに頷いた。
「・・・・・・誰だって、好きで一人でいるわけじゃないと思うの。大人しい性格だから、そうなってしまうだけで・・・・・・。本当は輪の中に入りたいって、きっと思ってる」
 由美はためらいがちにそう言った。
「この間放課後にね、木元さんが一人でプリントをまとめてたの。いつもは委員長がいるけど、入院してたから・・・・・・。だから思い切って話しかけたの。たわいもない
話だったけど、木元さんは質問すればちゃんと答えてくれた。ちゃんと会話してくれたの。嬉しかった」
 そう話す由美は、本当に嬉しそうに笑った。翼はそれだけで嬉しくなった。彼女は優子の事を考えていてくれたのだ。
「でもね? 真由子・・・・・・中田さんは、あたしが木元さんに近づくことを嫌がるの。木元さんをよく思っていないみたい」
「どうして?」
 そう訊くと、由美は首を横に振った。
「分からない。でもなぜか木元さんに執着してるみたい」
 その言葉に由美は真由子がどうして優子に執着するのか分かっていないことを知る。
「心当たりもない?」
 そう問うと、由美は少し考えた。
「・・・・・・あ、木元さん、委員長と同じ中学だったって言ってた。真由子も確か同じ中学だったはず・・・・・・」
「なるほど。それじゃあ中学時代に何かあったのかもしれないな」
 そう言うと、由美が頷く。
 翼は悩んだ。もし彼女が真由子の嫉妬を知ったらどうするだろう?
 真由子が優子をよく思わない理由は、真由子以外誰も知らない。優子も本当の理由を知らない。健太に至っては、真由子の気持ちになど気づいていないだろう。
「谷沢さんはどうして中田さんがよく思ってないって思ったんだ?」
「・・・・・・プリントをまとめるのを手伝ってた時、真由子が割って入って来たの。木元さんが悪いわけじゃないのに、彼女の事を睨んでた。本当はちゃんと最後まで手伝いたかったんだけど、何だか怖くて……。木元さんが何かされるのかと思って、真由子と帰ったんだけど……」
 由美は次の言葉を発するか悩んだようだった。しばらくの沈黙の後、由美はゆっくりと口を開いた。
「一緒に帰る途中で、木元さんと話してた事を責められたの。今度木元さんと話したら絶交だって・・・・・・」
 その場面を見ていた翼は特に驚かなかったものの、複雑な気分になる。由美の悩みはよく分かる。勇気が出ないという彼女の気持ちも・・・・・・。
「そっか・・・・・・」
 言葉がうまく出てこない。どう言ってあげればいいんだろう?
「ねぇ。翼くん。あたし、どうしたらいいんだろう? どうしたらいいと思う?」
 由美はすがるような目で翼を見た。
「谷沢さんは・・・・・・中田さんとの友情も捨てられないってことだよね?」
 確認するように問うと、由美はゆっくりと頷く。
「どうして木元さんにあんな態度を取るのかは分かんないけど。真由子には真由子のいいところがあるの。だから、出来れば真由子と木元さんも仲良くして欲しいって思ってる」
 由美の目はしっかりと翼を見つめていた。その瞳に嘘はない。
「そうだね。俺もなるべくフォローするから、皆が仲良くなれるようにがんばろう」
 そう言うと、由美は安心したように笑った。
「うん」

 放課後、由美は帰ろうとする真由子を呼び止めた。
「真由子」
 真由子はチラリとこちらを見て由美だと確かめると、めんどくさそうに口を開く。
「何?」
「話があるの。少しだけいい?」
 そう訊くと、真由子はゆっくりと頷いた。しかし取り巻きの二人は相変わらず真由子の傍にいる。
「真由子と二人で話がしたいの。少しだけ、外してくれる?」
 由美がそう言うと、真由子が「先に行ってて」と付け足した。それで二人は渋々真由子の傍から離れる。
「で? 話って何?」
 真由子とは前回の一件から話すことはできていない。だからきっとこんな態度なのだ。
「この間の話なんだけど・・・・・・」
「この間? 『あいつに近づくな』って言ったこと?」
 真由子はすぐに思い当たったようだ。由美はゆっくりと頷く。
「そう」
「それがどうかした?」
 何を聞かれるのかと、真由子が身構えていることに由美は気づいた。だけど話をしないと、前には進めない。
『大丈夫。君ならできるよ』
 別れ際、そう言ってくれた翼の言葉が頭に浮かんだ。
(大丈夫)
 心の中でそう呟き、由美は口を開く。
「どうして真由子は、木元さんの事をよく思ってないの?」
 そう訊ねると、真由子は眉根を寄せた。
「どうしてって・・・・・・。何でそんなこと言わなきゃいけないの?」
 強情な真由子はやはり言い返してきた。由美はギュッと拳を握った。
「あたしは・・・・・・木元さんと仲良くしたいと思ってる」
 そう言った瞬間の真由子は驚きの余り、大きな目を更に見開いていた。
「何言って・・・・・・」
「だけどあたしは、真由子との友情も捨てるつもりはない」
 その言葉に真由子は一瞬固まり、そして目を逸らす。
「だから教えて欲しいの。真由子が木元さんをよく思っていない理由を」
 真由子は由美から視線を外したまま、口を開いた。
「どうして言わなきゃいけないのよ。・・・・・・あんたに関係ないでしょ!」
 叫んだ言葉は、由美の心に深く突き刺さった。
「関係・・・・・・ない?」
 聞き返すと、後戻りできなくなった真由子はヤケになって言い放った。
「そうよ! あんたには関係ないことよ!」
 予想していたこととはいえ、本当に言われると胸が苦しくなる。だけど深く息をしながら、ゆっくりと口を開いた。
「そう・・・・・・。関係、ないんだ」
 声がしっかり出ているのかさえ、由美自身よく分からない。だけど真由子にはきちんと聞こえていたようだ。
「そう! だから言う義務はない!」
 言いたくない理由があるのなら、そう言えばいいのに。
 由美は心の奥で冷静にそう思った。真由子が不器用なのは、よく知っている。
「そう。じゃあ、あたしが木元さんと仲良くしても、真由子には関係ないよね」
 真由子の言葉を逆手に取ってそう言うと、真由子はキッと由美を睨んだ。しかし由美は怯まない。
「だってそうでしょ? 木元さんに近づいて欲しくない理由があたしに関係ないんなら、あたしが木元さんと仲良くする理由も、真由子には関係ないよね?」
 そう言うと、真由子はグッと拳を握ったのが目に入った。
「・・・・・・好きにすれば」
 そう言い放つと、真由子は由美に背を向けて歩き出した。

『本当にいいの? 中田さん、強情っぽいから、きっと思ってないことを君に言ったりするかもしれないよ?』
 昼休みの翼との会話が頭をよぎる。
『いいの。あたしはもう、あの頃のあたしでいたくない。後悔したくないの』
 そう決心した。その気持ちに嘘はない。
『そう。谷沢さんがそう決めたんなら止めないけど・・・・・・。でも本当にいいの? 中田さんとの友情が壊れるかもしれないんだよ?』
 翼はもう一度訊ねた。
『大丈夫。あたしは、壊したりなんかしない。・・・・・・真由子はきっと、話せば分かってくれるよ。強情なところはあるけど、誰よりも温もりを求めている子だから』
 そう言うと、翼は少しの沈黙の後、口を開いた。
『分かった。だけど、これだけは覚えといて。何があっても、絶対に諦めないで。中田さんに何を言われても、友情が壊れそうになっても』
 由美はその言葉に深く頷いた。すると翼は優しく笑ってくれた。
『大丈夫。君ならできるよ』

 そう、壊しちゃいけない。壊すつもりはない。
 分かってるのに、遠くなる後姿を追いかけたいのに、足が動かない。
「追いかけないの?」
 不意に後ろから声がした。
 驚いて振り返ると翼が立っていた。由美はゆっくりと顔を戻し、真由子の後姿を見つめ、口を開く。
「追いかけたいけど、足がすくんで動けないの」
 そう言うと、翼はその手で由美の背中に優しく触れた。
「大丈夫。君ならできるよ」
 まるで魔法の呪文のようにそう呟くと、ゆっくりと背中を押した。
 何かの呪縛から解かれたように、右足が一歩を踏み出す。押し出された体を支えるように次の一歩も踏み出し、自然と走り出した。
「大丈夫」
 翼は由美の後姿を見ながらそう呟いた。