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act.1 舞い降りた天使
ついに我慢の限界に至ったヨクは思わず天界を飛び出した。天界を抜け出すということは重罪で、もう二度と天使職には就けない。 それは十分に分かっていた。 それでもヨクは自分の命よりも、彼女、優子が気になった。好きとか嫌いとか、そんな感情じゃない。ただ放っとけなかった。 今までに生きた人間の中にも優子のような人間はたくさんいた。 その度にダンに説得され、ヨクは諦めて、ただ天界で見守っていた。その度に胸が痛んだ。ただ見守ることしかできない自分に腹が立った。 今は動く時じゃない。それは分かっている。神が動く時は誰一人としてその日と時刻を知らない。 天界から追放された悪魔は地上で暴れ回っていた。多くの天使の仲間を惑わし、自分の仲間にした。 元を正せば悪魔になった者もまた天使だったのだが、己の欲望をただ満たすために神に背いた。そして悪魔に惑わされた天使たちも、ただ己の欲望のためだけに地上に降りた。 そしてその重罪を犯した多くの天使は、二度と天使職に戻ることはなく、悪魔の手下になってしまった。 そんな仲間を今までたくさん見てきた。中には仲の良かった天使もいる。 そしてその悪魔たちは神が行動を起こされるときに、全て滅ぼされる。 地上に降りる重罪を犯せば、自分も神に背いたものとして滅ぼされることは目に見えている。 それでも構わない。 ヨクは地上に降り立った。もう二度とは引き返せない。 「ダン」 呼び止められ、ダンが振り返るとそこには天使長のミカエルが立っていた。 「はい。何でしょうか?」 「ヨクが地上に降りましたね」 「え?」 知らなかったダンは驚いた。思わず聞き返す。 「それは・・・・・・本当ですか?」 「貴方は知らなかったのですね。たった今、ヨクが地上に降りました。貴方は地上に降りた理由を知っていますか?」 そう訊かれ、ダンは数日前の事を思い出した。隠しても神の前では隠し通せないことは分かっているので、ダンは正直に話すことにした。 「心当たりは・・・・・・あります」 そしてダンは、ヨクが気にかけていた少女のことを話した。ずっとヨクが我慢していたことも、ダンが止めたことも。 「そうですか。やはりその少女のことを気にかけていたのですね。ヨクは自分が重罪を犯すと分かっていて、地上に降りたのですね?」 確かめるように問われ、ダンは頷いた。 「ヨクは・・・・・・少し熱血過ぎるところがあるようで、何度も注意はしたんですが・・・・・・」 「分かりました」 「あのっ!」 立ち去りかけたミカエルを呼び止めると、振り返ってくれた。 「ヨクは・・・・・・罪に問われるんでしょうか・・・・・・。やっぱり・・・・・・」 「それはまだ分かりません。神にこの件をご報告します。貴方も来なさい。気になるんでしょう?」 「はい」 ダンはミカエルについて、神がおられる部屋へ向かった。 「・・・・・・ん・・・・・・」 「健太くん!」 健太が目を開けると優子が心配そうに覗き込んでいた。 「ゆ・・・・・・こ?」 「良かった・・・・・・」 涙を堪えながら、優子は呟いた。 「あれ・・・・・・俺・・・・・・」 ここはどこだろう? と天井を見つめる。記憶があやふやだ。 「倒れてきた木材の下敷きになったの・・・・・・」 優子が不思議そうにしている健太に説明すると、ようやく思い出した。 「あー、そっか。・・・・・・優子、怪我ない?」 健太の問いに優子は頷いた。 「良かった・・・・・・」 健太は無事だった優子を見て、優しく微笑んだ。 怪我を負った健太は入院することになった。 悪魔はそれを見て、舌打ちをした。殺そうとしたのに、生きているとはしぶとい。 「チッ。運がいい奴め」 「お前は運が悪かったみたいだな」 ふと声がして、後ろを振り向くと、天使がいた。 「何だ? お前」 「お前を消滅させに来たんだよ。イタズラが過ぎたな」 しかし悪魔は呆れて言い返した。こんなところに天使がいるわけないのだから。 「はぁ? 何言ってんだ、お前」 「バイバイ」 ヨクはそう言うと言霊を発動させる。 「ぎゃぁぁぁああ」 悪魔は奇声を上げながら、消滅した。 ヨクは病室の窓を覗いた。健太と優子の無事な姿を見て、安心する。 「良かったな」 ヨクは二人を見て、笑顔を浮かべた。 翌日、優子はいつものように学校へ向かった。 また今日も憂鬱な学校生活が始まる。 優子は大嫌いな自分の顔を隠すかのように前髪を伸ばし、眼鏡をかけ、肩まで伸びた髪を伸ばしっぱなしにしていた。 そして目立たぬように、ただじっと俯いている。目立つとイジメられる。目立たなくても「キモイ」とか「暗い」など悪口を言われるのだが、その方が幾らかマシだ。 教室に行く前に職員室に寄った。恐らく健太の親が連絡しているとは思うが、担任に健太が入院している事情を説明するためだ。 説明が終わり、職員室から出ようとした時、入れ違いで誰かが入ってきた。顔立ちのはっきりした綺麗な顔をした男の子だった。思わず見とれてしまう。 目が合うと、彼はニコッと笑顔を向けた。突然の事でどう反応したらよいか分からない。 「おー。来たか」 入ってきた彼に向かって、担任が声をかける。彼は担任に気づき、担任の元へと歩いて行った。 「俺が担任の林だ。よろしく」 「よろしくお願いします」 彼は丁寧に頭を下げた。 「ちょうどよかった。木元」 「えっ、あ、はい」 入り口で固まっている優子に気付いた担任が声をかける。 「転校生の空田翼くんだ」 担任がそう紹介すると、翼は頭を下げた。つられて優子も軽く会釈する。 「彼女はうちの副委員長で、木元優子さんだ。木元、後で学校案内してあげてくれ」 「あ、はい」 突然言われ驚いたが、とりあえず頷いた。 「よろしく」 翼は人懐っこい笑顔で優子に近づいた。手を差し出されたので、優子も手を出し、握手をする。 「その前に転校生の紹介しないとな。教室行くぞー」 担任に言われ、二人も教室へと向かった。 教室に戻ると担任は早速転校生の紹介を始めた。 「空田翼くんだ。ご両親のお仕事の都合でこっちに越してきたばかりだそうだ。仲良くしてやってくれ」 「よろしくお願いします」 翼が笑顔で挨拶すると、そのかわいらしい笑顔にクラスの女生徒は瞬殺された。目がハートマークになっているのが、優子にでも分かる。 「席は・・・・・・木元の隣な」 「はーい」 翼は返事をすると、優子の隣の空いている席に座った。 その瞬間、嫉妬した女生徒の陰口が聞こえてくる。しかし翼はそんなことはお構いなしのようだ。 「木元さん、よろしくね」 翼の笑顔に躊躇しながらも「よろしく」と小さく答えた。 その頃、天界ではヨクの件を審議していた。ダンはヨクの性格、これまでの業績、酌量の余地を神に訴えていた。 「事情はよく分かりました。こうしてる今もヨクは人間に成り済ましてるようですね」 神は頭を抱えた。ダンは急いで、下界を見た。するとヨクが人間に成り済まし、優子に近づいているのが目に入った。 「あっちゃー・・・・・・」 あの馬鹿、とダンは心の中で呟き、頭を抱えた。 どうしてあいつはこうも勝手に行動するのか・・・・・・。 地上に降りてはいけないと言う掟を破り、今度は人間に近づいてはならないと言う掟まで破った。 (情状酌量の余地、なくなったんじゃねぇか・・・・・・?) ダンは溜息を吐いた。 「こっちの教室が第一理科室で、こっちが第二理科室」 休み時間、優子は転校生の翼に学校案内をしていた。 実はクラスの女子の何人かが申し出たが、翼は何故か優子に案内してもらうと言って聞かなかった。優子としては、しわ寄せがこっちに来るから、あの子達に案内してもらった方が良かったと内心思っていた。しかし翼の笑顔の前に太刀打ちできる女子はおらず、結局優子が案内することになったのだ。 翼がどういう訳で自分にこだわっているのか、よく分からない。 優子は隣にいる翼を盗み見た。綺麗な整った顔立ち。日本人とはまた違った顔立ちのような気がする。 「空田君って・・・・・・ハーフ?」 思わず聞いてしまった自分に、優子自身が驚いた。他人に話しかけるなんて・・・・・・。 突然の質問に翼は驚いていたが、次の瞬間、人懐っこく笑った。 「俺のことは翼でいいよ。ハーフではないけど、どっかで外国の血は入ってるみたい。そう見える?」 翼は今までの人と違うと、実感する。健太以外でこんなに普通に話ができたのは、いつ振りだろう? 「何となく・・・・・・顔立ちが・・・・・・」 小さく呟いた声も、翼はちゃんと聞いてくれた。 「そう? 俺はこれが普通なんだけどね」 そう言ってまた屈託なく笑う。 翼は不思議な人だった。少なくとも優子にとっては。 それから優子は何となく翼を観察するようになっていた。 翼は明るい性格なので、すぐにクラスの皆とも仲良くなった。女子はもちろん、男子とも仲良くなっていた。 正直、羨ましい。 自分もあの輪の中に入りたい。 いつしかそう思うようになった。 でもそれは無理なことだと分かっている。自分はあの輪の中に入れない。入る資格なんてない。あの人たちと自分は違うんだ。 そんなこと分かってる。人を羨んでいても仕方がないことくらい、もうとっくの昔から知っている。 (蓋を・・・・・・しなきゃ・・・・・・) 自分の中に湧き上がる言葉では言い表せない気持ち。優子はいつものように蓋をした。もうずっとこうしてきた。二度と開かないように、きつく、きつく。 放課後。優子は入院してる健太の元を訪れた。授業のノートのコピーを渡すために毎日寄っている。 「はい、今日の分のノート」 優子は健太に授業のノートのコピーを渡した。 「サンキュー。悪いな、毎回」 優子は首を振った。 「元はあたしを庇っての怪我だし・・・・・・」 そう言うと健太は優しく笑った。 「気にすんなよ。俺がちゃんと避けれなかったから怪我したんだしさ」 「でも・・・・・・」 「ちゃんとやってっか? 学校」 急に話題を変えられ、優子は俯いた。そんな様子に健太は軽く溜息を吐いた。 「もっとさ、自信持っていんだぞ?」 慰めるような言葉に、優子は何も言えなくなる。 健太の優しさが、硬く閉ざしている心の中まで入ってきそうで、何だか怖かった。 「あたしには・・・・・・自慢できるようなこと・・・・・・何も、ないし」 「優子・・・・・・」 「それに・・・・・・」 言いかけて、言葉を飲み込んだ。こんな事、健太に言っても仕方ない。 「それに?」 聞き返され、首を振る。 「何でもない」 優子はまた俯いた。 「そうやって俯いたりするから、暗い気持ちになるんだよ。もっと上向いて歩けって」 そう言われたって、どうやって上を向けばいいのかなんて分からない。 「・・・・・・ごめん・・・・・・今日は帰るね」 「優っ・・・・・・」 呼び止められる声が聞こえたが、逃げるように病室を出た。 あのまま健太に優しい言葉をかけてもらっていると、胸の奥が痛くなる。 どうして健太はあんなに優しくしてくれるんだろう? 幼馴染だから放っておけないんだろうか? だけどそんなことされると、余計に辛くなる。こんな人間のお守りなんてしなくていいのに。 健太は明るくて優しくて、勉強もできて、サッカー部で活躍するスポーツマンで、人望も厚い。 それに比べて自分は根暗で、勉強だけしか取柄がなくて、友達が一人も居なくて、スポーツなんて何もできない。 自分で言ってて悲しくなるが、それが事実。 ふと空を見上げた。晴れ渡る空の遠くで黒い雲が見えた。 「雨?」 あの黒い雲はきっと雨雲だ。優子は急いで家に戻った。 天界では、勝手に下界に降り、人間に成り済ましたヨクに対する布告が出された。 ダンは出された布告を持って、地上界へと降り立った。もちろん今回のことは任務なので、ダンの場合は問題外だ。 ダンは人間に成り済ましているヨクを見つけ、声をかけた。 「ヨク」 そう呼ぶと、地上で『空田翼』と名乗っているヨクが顔を上げた。 「もう決まっちゃったんだ」 予感はしていた。降りた時点で、神は総てのことを知っている。今こうして人間に成り済ましていることも十分分かっているだろう。 「これからお前に対する布告を読み上げる。心して聞くように」 ダンは落ち着いた口調で述べた。ヨクは顔色を変えずに、ダンを見据えた。 「『被告、ヨク。罪状、無許可で天界を抜け出し、地上に降り、人間に成り済ました第一級罪。故に・・・・・・』」 ダンは一呼吸置いて口を開く。 「『天界追放』」 予想通りの結果に、ヨクは思わず自嘲した。 「『ただし・・・・・・』」 「ただし?」 続きの言葉に、ヨクは顔を上げ、ダンを見つめた。 「『木元優子が生きる希望を見出し生きるようになったなら、天界追放は無いものとす』」 「えっ?」 まさかの展開に驚くとダンが説明を加える。 「要するにだ。あの少女が明るく生きれるようになれば、天界追放は無い。戻って来れるんだよ」 ダンの言葉が信じられずに、ヨクはパニックになった。 「え・・・・・・でも・・・・・・」 「俺に感謝しろよ? 情状酌量を願い出てやったんだから」 ダンは溜息を吐きながら言った。 「あ、ありがと・・・・・・」 「それに神がそんな無慈悲な方じゃないと、お前もよく知ってるだろう?」 そう言われ、ヨクは頷いた。総ての事情を知っている神はいつだって最善の選択をなさる。だから今回の件も、こんな風に情状酌量されたのだ。 「それともう一つ。お前が天使だってことは、誰にもバレちゃいけない。バレた時点で強制終了だ」 ダンの言葉に気が引き締まる。ヨクは力強く頷いた。 「まぁ、せいぜい頑張るんだな。応援してる」 ダンはそう言って、ヨクの肩を叩いた。 「ありがと。俺、やれること、やってみるよ」 ヨクは一層気合を入れた。 家に着いた優子は、自室に入ると、ベッドに倒れこんだ。うつ伏せになって枕に顔を埋める。 「はぁ・・・・・・」 小さく溜息を吐く。本当はこの家に居るのも嫌だ。まだ部屋に閉じこもることができるだけマシだ。 生きてること自体が、息苦しい。 どうして自分なんかが生まれてきたんだろう? 生きてる価値なんてないのに。 苦しい。苦しい。苦しい。 健太が怪我するくらいなら自分が下敷きになればよかった。 どうして自分なんかを庇ったりしたんだろう? 怪我が酷ければ、大好きなサッカーすらもできなくなるのに。 優子はふと窓の外を見た。ポツリポツリと雨が降り始める。 「やっぱり降った・・・・・・」 自分の気持ちに同調するかのように、雨が降り出す。だけどこの雨はいつかは晴れる。 でも優子のこの気持ちが晴れることなんて、きっと有り得ない。ずっと雨雲が覆ってるような気持ち。重くのしかかるストレス。 いっそこの雨のように、大粒の涙を流してしまえば、すっきりするのだろうか? しかし優子はそれができなかった。『泣く』と言う感情が欠落しているのだ。 どうしたら泣けるのか、どうしたらこの気持ちが晴れるのか、さっぱり分からない。 優子はおもむろに起き上がり、部屋の窓を大きく開いた。 ここから落ちれば、楽になれる? 胸の奥のどこかで湧き上がる思い。 気づくと優子は窓の枠に片足をかけていた。 ふと我に返る。こんなことをして何になる? 例え自分が死んだとしても悲しんでくれる人なんて居ない。一人ぐらい居なくなったって、この世界は変わることはない。 「はぁ・・・・・・」 また溜息が漏れる。窓枠にかけた足を下ろしたその時。 「きーもとさん」 ふと声がして下を見ると、転校生の空田翼が傘を差して、手を振っていた。 「え? どうして・・・・・・」 何でこんなとこに居るんだろう? 驚いてそれしか声に出ない。 「木元さん、ココだったんだねー。奇遇」 そう言って翼は笑った。 「俺んち、あそこのマンションなんだー」 そう言いながら数件先のマンションを指差す。 「そう・・・・・・なんだ・・・・・・」 意外と近くに住んでいたと知り、またしても驚く。これは偶然なのだろうか? 「また遊びに来てねー」 翼は相変わらず人懐っこい笑顔だった。 「・・・・・・うん」 頷くと、翼はまた手を振った。 「じゃあまた明日ねー」 そう言ってマンションの方へと歩いて行った。その後ろ姿を、優子はただ見つめていた。 「何で・・・・・・」 思わず呟く。どうして今の、このタイミングだったんだろう? 妙に気になったが、答えは出るはずなどない。 優子は考えるのを諦めて、窓を閉めた。 |