font-size       
ACT.6 Flashback
 追いかけてくる、赤い悪魔。振り解こうとしても振り解けない。
「やめろ!」
 逃げても逃げても追いかけてくる。
「嫌だ。来るな・・・・・・」
 追い詰められ、呟いたが、赤い悪魔の魔の手が伸びてくる。
『水瀬くん』
 もうダメだと思った瞬間、天音の声がした。

「っ!」
 驚いて目を開けると、いつもの天井が目の前に広がっていた。
「ふぅ・・・・・・」
 安心して思わず溜息が漏れる。
 初めてだった。誰かがあの夢に出てくるなんて。しかも何故天音が出てきたんだろう?
「重症だな・・・・・・」
 ほたるは自嘲すると、寝返りを打って目を閉じた。

 朝、ほたるは深呼吸をして前側のドアから教室に入った。しかしやはり天音の声は聞こえない。見渡すと、天音は既に着席していたが、こちらを見ようともしない。
『・・・・・・もう付きまとわない。今までごめんね』
 そう言った天音の声が蘇る。彼女はその宣言通り、付きまとってこない。
 あんなにウザイと思っていたのに、いざ本当に来なくなると少し寂しい。何とも自分勝手だと思わず自嘲した。
 決心はまだつかない。ほたるは溜息をつきながら自分の席についた。

 昼休み。ほたるはまた一人で屋上にやって来ていた。
 サングラス越しに見るモノクロの世界にもだいぶ慣れた。
「五年か」
 長かったような短かったような不思議な感覚だ。『あの日のこと』はきっと一生忘れないだろう。それも仕方のないことだと諦めている。
 だけどもし変われるのなら、変わりたい。これがそのチャンスなのだとしたら、逃してはいけない。
「父さん、母さん。俺に・・・・・・俺に勇気をください」
 ほたるは見上げた空にそう呟いた。

 放課後になり、ほたるは帰ろうとする天音を急いで呼び止めた。
「鈴枷」
 天音は立ち止まるが、こちらを見ようとしない。それに構わずほたるは要件を伝えた。
「お前に話しておきたいことがある。もし、その話を聞いてもいいって思ったら、今日の夜十時にあの公園に来てくれ。俺、待ってるから」
 天音は突然のことに驚くが、ほたるの顔が見れない。ほたるは固まっている天音を追い越し、バイトへと急いだ。

 バイトが終わったほたるは、一度家に戻り、あげはに事情を説明した。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
 あげはは心配そうに顔を覗き込んだ。
「分からない。だけどこのチャンスを逃したら、きっと一生このままだと思う」
「お兄ちゃん・・・・・・」
 ほたるはあげはの目を見つめた。
「でも、きっと大丈夫だ。だからあげはは先に寝てて」
 ほたるの気持ちを汲んだあげはは、頷いた。
「分かった。がんばってね」

 夜十時。近所の公園のベンチに座って、天音を待っていた。時計の針が十時を指しているが、天音は現れない。
 愛想を尽かされたのだろうか?
 そんな考えが浮かんだ。確かに今までの態度を考えると当然だ。
(もう少し待ってみるか)
 確かお嬢様とか言っていた。もしかしてこんな夜遅くなので家から出られないのかもしれない。
「水瀬くん」
 ふと声がして、顔を上げると、天音がいた。
「あれ? サングラスがいつもと違う」
 すぐにサングラスが違うことに気づいた天音が指摘する。
「ああ。夜は薄めのにしてるんだ」
「そっか。暗いと見えないもんね」
 天音はそう言いながら、少し距離を開けてほたるの隣に座った。
「悪いな。こんな時間に呼び出して」
「ううん。大丈夫だよ。お母様に見つからないように抜け出すのに、時間かかっちゃったけどね」
 天音が苦笑する。想像どおりの答えにほたるも思わず口が緩む。
「鈴枷。今から俺が話すのは、俺の過去の話だ。だけどそれはまだ、俺にとって過去じゃない。だから、うまく話せるかどうかも分からないけど、それでも聞いてくれるか?」
 ほたるの問いに、天音はコクンと頷いた。
「うん。水瀬くんはあたしの話、ちゃんと最後まで聞いてくれたもん。だからあたしもちゃんと最後まで聞くよ」
「ありがとう」
 天音の言葉に幾分かホッとする。ほたるは一度深呼吸をして口を開いた。
「俺は五年前までは、普通の家庭で普通に暮らしてた。父さんと母さんと、あげはとたてはの五人で。だけど俺は、一つだけ不満に思ってたことがあった。あげはやたてはが生まれてから、俺は何でも『お兄ちゃんだから』って我慢させられた。長男なんだから当たり前なんだけど、それが嫌だったんだ。・・・・・・ホント子供だよな」
 ほたるはそう言って自嘲した。だけどその気持ちは、天音にも何となく分かる。
「五年前の十歳の誕生日に『何が欲しい?』って聞かれたとき、俺は迷わずに『父さんと母さんの三人で旅行に行きたい』って言ったんだ。両親は驚いた顔をしてた。だけど二人は俺のワガママを聞いてくれた。あげはとまた小さかったたてはを祖父母に預けて、俺たち三人は旅行に出かけたんだ」
 ほたるは唇を噛んだ。
「あの日俺がワガママを言わなければ・・・・・・。父さんも母さんも死ななくて済んだんだ・・・・・・!」
 ほたるは自分の両手の拳をギュッと握りしめた。天音はその様子を見ながらも、続きが気になり思わず催促をする。
「何があったの?」
 ほたるは呼吸を整え、口を開く。
「三人で旅行に行った帰りの飛行機が・・・・・・墜落したんだ」
「え?」
 ほたるの思いがけぬ言葉に、天音は驚き入った。
「鈴枷は覚えてるかな? 五年前に史上最悪と呼ばれた飛行機事故があったこと・・・・・・」
 聞かれて思い出した。そのニュースは子供ながらに恐怖を覚え、連日その報道で持ちきりだった。
「覚えてる。ニュース映像を見ただけで怖くなった・・・・・・」
「俺は、その飛行機事故の唯一の生存者なんだ」
 初めて聞かされる真実は、天音に衝撃を与えた。
「そう・・・・・・なの?」
 聞き返すことしかできない。ほたるはコクンと頷いた。
「あの日のことで覚えてるのは、落ちる瞬間の恐怖と血の海だ」
 ほたるは荒くなる息を抑えながら、言葉を吐き出した。
「落ちる時、俺の両脇にいた父さんと母さんがずっと手を握っていてくれた。だけど怖くて、俺はずっと震えてた。地面に叩きつけられた感触だけ覚えてる。・・・・・・目を開けた時、辺りは真っ暗だった。パニックになってた俺は、それが何処なのか、何で動けないのかが分からなかった。そしてそのまま気を失ってた。次に目を開けたときにも、ただ真っ暗な闇が広がるばかりで、何がどうなっているのか分からなかった。ただ俺の手を握ってくれてた両親の手は段々冷たくなってた」
 ほたるはそう言いながら、自分の両手を見つめた。それをギュッと握ると、顔に近づけた。
「またいつの間にか気を失ってて、次に目を開けたら、少し明るくなってた。それから徐々に明るくなってきて、一番初めに目に飛び込んできたのは、赤い染みだった。それが何なのか分からなくて、体は動かないから目だけで辺りを見回した」
 ほたるの呼吸が乱れ始める。凄惨な光景を思い出し、過呼吸を起こした。
「大丈夫?」
 天音はほたるの背中をさすり、落ち着かせた。ほたるはポケットに入れていた紙袋を取り出し、自分で息を整える。
 ようやく落ち着いたところで、ほたるは少しずつ言葉を発した。
「目に入ってきたのは、青白い顔をした人形だった。顔とか、服とかに、赤い染みを付けて、生気のない目で俺を見てた。・・・・・・他にも腕だけが転がってたり・・・・・・何かに押し潰されたみたいに足しか見えなかったり・・・・・・。それで気づいたんだ」
 ほたるは乱れた息を抑えながら話した。そして息をゆっくりと吸って、ゆっくりと吐いた。
「あれは、人形なんかじゃない。さっきまで生きてた人間だったんだって」
 ほたるの体が震え始める。ほたるは自分の腕を抱き、速くなる鼓動と呼吸を必死に抑えた。
 天音はほたるの言葉に驚き、固まっている。ほたるは呼吸を整えながら、口を開いた。
「そのうち助けが来た。でも結局助かったのは、俺一人だけだった。・・・・・・俺は今でも、あの凄惨な光景が目に焼き付いて離れないんだ・・・・・・!」
 ほたるはそこまで言うと、肩で大きく息をした。
「だから発作を?」
 天音に問われ、ほたるは頷いた。
「発作は、いつ起こるか分からない。医者にも行ったけど、『精神的なものだ』って言われた。原因は分かってる。あの映像のせいだって。だけど、忘れることなんてできない。だから、ずっと一生ついて回るもんだって思ってる」
 諦めたようにそう言ったほたるに、天音は不意に沸き起こった疑問を投げかけた。
「人と接しようとしなかったのも、発作が起こるから?」
 突然の質問に、ほたるは驚いた顔をした。しばらくの沈黙の後、口を開く。
「それも、ある。発作が起これば、周りの人間に迷惑がかかる。だから、授業以外は一人でいるようにしてた」
 短い休み時間は別として、昼休みにいつもいなくなるほたるを天音はようやく理解した。
「それもあるってことは、他にも何か理由あるの?」
 天音の質問に、ほたるは少し言うのを躊躇った。しかし、全部を話すと心に決めていたほたるは、恐る恐る口を開いた。
「・・・・・・怖いんだ」
「怖い?」
 ほたるの呟きのような答えを、天音は聞き返す。
「あの事故の後、マスコミは唯一の生存者である俺を競って記事にした。奇跡的に助かった俺を『神の子』だという者もいれば、『悪魔の子』だと書き立てる者もいた。そのせいで、今まで『友達』だったやつらは俺からどんどん離れて行った。俺といるとロクなことないから、悪魔の子だからって・・・・・・」
 ほたるはだんだんと視線が下に向いた。
 両親を一気に亡くした上に、友達にまでそんな仕打ちをされたら・・・・・・。天音はそのことを考えて悲しくなった。
「唯一変わらないでいてくれたのは、あげはとたては、それに真奈美と宮崎だった」
 意外な人物が入っていることに、天音が驚く。
「え? でも芽衣ちゃんは、水瀬くんのことあんまりよく思ってないんじゃ・・・・・・」
「あれは昔からだ。あいつは俺が真奈美と仲いいのが嫌なんだろう。だけど、多くの人が俺を避ける中で、態度が変わらなかった」
 好き嫌いは別としても、変わらない態度がほたるにとって嬉しかったのだろう。
 ほたるは再び話し始める。
「たくさんいたはずの友達がいなくなって、俺は裏切られるのが怖くなった。だから人と接することを極力避けていたんだ」
「だから近寄ってくるあたしが嫌だった」
 天音がほたるの言葉を引き継ぐと、ほたるはきょとんとした。そしてフッと口元が緩む。
「そうだな」
「否定しないんだ」
 ほたるの答えに納得しない天音が少しむくれる。
「どうしたらいいか、分からなかったんだ。無視されるのには慣れてたけど、近寄ってこられるのは初めてで・・・・・・」
「だから『悪魔の子』だとか言って、あたしを遠ざけようとしたの?」
 天音の問いに、ほたるは頷いた。
「そうでも言わないと、俺から離れてくれないと思ったから。・・・・・・でもまさか告白されるとは思わなかったけど」
「うっ」
 あの時のシーンを思い出し、天音は顔を真っ赤にした。
「あれは、勢いっていうか・・・・・・」
「びっくりしたけど・・・・・・嬉しかったよ。こんな俺を好きになってくれて」
 ほたるのサングラス越しにある目は見えないが、少し泣き出しそうになっていることに気づく。
「だけど怖かった。今まで人を避けてきたから、どうしたらいいのか分からなくなった。何で俺なんかを好きになったんだって・・・・・・。何の得にもならないのに。何もいいことなんてないのに」
 ほたるは自分の前髪をクシャッと掴んだ。
「違うよ」
 天音がぴしゃりと言った言葉に驚いたほたるは目線を天音に移した。
「何かの得になるからとか、何かいいことがあるから、水瀬くんを好きになったんじゃない」
「だったら何で・・・・・・」
 ほたるは分からないというように、眉根を寄せた。
「好きになることに理由なんてないよ。そりゃ、きっかけはあったよ。水瀬くんは誰よりも家族のことを大切にしてる。それって人間として、すごく大事なことだと思う。だからあたしは水瀬くんに惹かれたの」
 まっすぐな天音の言葉に、ほたるは心が温かくなるのを感じた。一方、妙に恥ずかしくなった天音は話を戻した。
「話、戻るんだけど。どうして三人で暮らしてるの? 事故に遭った時から三人で暮らしてるの?」
 ほたるは目線を地面に落して、口を開いた。
「『悪魔の子』って書き立てられてから、施設はおろか、親戚でさえも俺を拒否した。多分マスコミに騒がれるのが嫌だったんだろうな。それで俺は自分が生まれたあの家で暮らすって決めたんだ。あげはやたてはは、施設や孤児院に行く予定だったんだけど、それを拒否して、俺と暮らすことにしたんだ。それからは国から必要最低限の援助金をもらって生活してる」
「援助金をもらってるのに、バイトしてるの?」
 不意に疑問に思った天音が尋ねる。
「俺が高校生になったから、援助金が半減したんだ。働けるだろうって」
「そっか。・・・・・・ねぇ、バイト先でもサングラスしてるの?」
 やっぱり気になった天音は、思わず訊いた。
「ああ。これくらいの色が薄いヤツな」
 ほたるはそう言って、今しているサングラスを触った。
「ねぇ、前に『サングラス外したら、発作が酷くなる』って言ってたけど、どうして酷くなるの?」
「それは・・・・・・」
 そこでほたるの言葉が途切れた。ほたるは唇を噛み締め、ぎゅっと拳を握った。
「ごめん。言いたくないんならいいよ!」
 天音はほたるの様子を見て、慌ててそう言った。しかし、ほたるは荒くなる息を整えながら答えた。
「あの・・・・・・事故が起こってから・・・・・・あの映像が頭から離れなくて。赤いものを見ると、それが・・・・・・フラッシュバックするんだ」
 ほたるは震えていた。
 天音はショックを受けた。何だか涙が込み上げてくる。こんなにも彼は深い傷を負っていたのだと、今更ながらに気づく。知らなかったこととはいえ、今までその傷をどれだけ突いていただろう?
「水瀬くんは・・・・・・すごく大きな傷を負ってたんだね」
 急に涙声になった天音に、ほたるはギョッとした。
「ごめんね。そんなに大きな傷だなんて知らなかったから。あたし、今まで酷いことしてきたよね」
 天音はそう言って、両手で自分の顔を覆った。
「鈴枷?」
 思わぬ天音の反応に、ほたるはどうしていいのか分からなくなる。
「でもね、水瀬くん」
 天音は覆っていた手で涙を拭うと、ほたるに向き直った。
「人間はね、どれだけ時間がかかったって、どんなに深い傷を負ってたって、痕が残ったとしても、治せるんだよ。水瀬くんの負った傷は、あたしなんかとは比べ物にならないくらい深くて大きな傷だし、時間だってかかるかもしれないけど、治そうと思えば絶対治せるの。痕は残るかもしれないけど、少なくとも痛みは取れるはずだよ」
 天音の言葉に戸惑ってしまう。治る? この痛みが?
「でもね? 本人が治そうと思わない限り、絶対治らない。痛みだって消えないよ」
「だけど! 両親が死んだのは俺のせいだ! 俺があの日、ワガママを言わなきゃ、二人は死ぬことなんてなかった。俺のせいなんだ!」
 ほたるの強い口調に、後悔の念が滲み出ていた。天音は自分の胸がぎゅうっと締め付けられるのを感じた。
「何で自分のせいにするの? 何で自分一人で抱え込もうとするの? あれは事故で、水瀬くんが悪いわけじゃない。ご両親だって、そんなこと思ってないよ!」
 天音の言葉にハッとする。不意に頭に浮かんだのは、優しい父と母の笑顔。そして最後まで強く握りしめてくれた大きくて優しい手。
「ご両親は、水瀬くんが奇跡的にでも助かったこと、喜んでくれてると思うよ」
『ほたる』
 天音の言葉のすぐ後に、聞こえてきたのは母の声だった。
『ほたる。大丈夫よ。お父さんとお母さんが守るから』
 それは、飛行機の墜落時に聞こえた母の言葉。
『ほたる。大丈夫だ。しっかり掴まってろ』
 浮かんできた父の言葉に、最期の瞬間が蘇った。
「・・・・・・っ!」
 ほたるの目から一筋の涙が零れ落ちる。
「水瀬くん?」
 急に涙を流したほたるに天音は驚いた。ほたるは天音の呼びかけに答えず、俯いた。天音はほたるの背中をさすった。
「大丈夫だよ。大丈夫」
 天音の温もりを背中に感じ、ほたるは更に涙を流した。

 なかなか止まらなかった涙がようやく止まると、ほたるは顔を上げた。
「悪かったな。こんな話して」
 ほたるの言葉に、天音は首を横に振った。
「ううん。嬉しかったよ。話してくれて」
 そうにっこりと笑う天音に、ほたるはどうリアクションしていいのか分からなくなる。
「ねぇ、サングラス、取ってみない?」
「え?」
 突然の天音の提案に、ほたるは驚いた。
「大丈夫。ここに赤い物なんてないから」
 天音にそう言われ、ほたるは恐る恐るサングラスを外した。
「水瀬くん」
 呼ばれ、天音を見る。久しぶりに見るカラーの世界は何だか違和感がある。
「何か変な感じだ」
「ね、上見て」
 天音が空を指差した。ほたるはゆっくりと自分の目線を上に向ける。
「・・・・・・!」
 そこには息を飲むほど美しく輝く星たちが所狭しと広がっていた。
「昼間の太陽は、眩しすぎて見れないけど、夜の月や星なら見れるでしょ?」
 そう聞かれ、ほたるは頷いた。
「あぁ。そうだな」

「ごめんな。すっかり遅くなって」
 サングラスをかけ直したほたるは、天音を送り届けながら謝った。
「ううん。大丈夫。こっそり帰れば問題なし」
 天音はいつもと変わらない笑顔で答えた。
「鈴枷には感謝してるよ」
 珍しく素直な言葉に、天音は驚いて、思わずほたるを見た。
「俺、もう何年も涙なんて流したことなかった。・・・・・・まぁ泣いたところを見られたのは不本意だけど」
 そう言うと、天音はフフッと笑った。
「たまには泣かなきゃ、壊れちゃうよ?」
「そう・・・・・・かもな」
 その言葉にほたるは苦笑いを浮かべた。
「それから、水瀬くんはもっと上を向かなきゃダメ! 下ばっかり見てると、辛いことや苦しいことばかりが目についちゃうんだよ。そうなると、本当はあるはずの嬉しいこととか楽しいことが見えなくなっちゃう。ほんの少し目線を上げただけで、こんなにも綺麗な星が見れるんだから、もっと顔を上げてれば、きっと今以上に楽しいこととか嬉しいことが見えるはずだよ。そうやって傷を癒していくの」
 その言葉にほたるが納得すると、天音はニッと笑って舌を出した。
「なーんてね。全部兄貴の受け売り」
「へ?」
 いたずらっ子のように笑う天音に、ほたるは呆気に取られた。天音は目線を上に上げると、思い出を語り始めた。
「二番目の兄貴を亡くした時ね、あたしも俯いてばかりだったの。兄貴が死んだのは自分のせいだって、そればっかり考えてた。そしたら、一番上の兄貴に言われたの。『人は誰でも傷を持ってる。それは擦り傷かもしれないし、すごーく深い傷かもしれない。でも癒せない傷はないんだよ。今はそれが痛くて辛くて苦しくても、例え痕が残ったとしても、いつかきっと傷は癒える。だから俯いてばかりいないで、もっと顔を上げて、嬉しいことや楽しいことをもっと感じろ。そうすれば、傷も少しずつ癒えるから』って」
 それはまさにさっき公園で天音が言ってくれた言葉だった。
「あたしの傷は、正直まだ完全に癒えたわけじゃない。だけど、かさぶたくらいはできてるかな? そうやってゆっくりだけど少しずつ治していけばいいと思う。水瀬くんもね」
 天音の笑顔に救われる思いがした。
「そうだな」
「あ、ここでいいよ」
 天音が突然立ち止まったので、ほたるも歩を止めた。
「え? ここ?」
 見ると、そこには大きな塀があり、その塀とは不釣合いな小さな扉が付いていた。
「うん。ここ裏口」
 天音が指差し、ほたるが納得する。
「と言うか、本当にお嬢様なんだな」
 ほたるは見渡したが、その大きな塀がどこまで続いているのか全く分からない。
「嘘言ってどうすんのよ。あ、でもあたし、お嬢様ってガラじゃないから」
「よく知ってる」
「即答は失礼すぎない?」
 ほたるはテンポのいい会話が何だか妙に心地よく感じた。
「送ってくれて、ありがとね。じゃあ、また明日」
 天音はそう言うと、裏口の扉を開けた。
「また明日」
 ほたるは天音が扉の中に入っていくのを見守ると、自宅に足を向けた。

 帰り道。ほたるの頭の中では、天音の言葉が響いていた。
『きっと傷は癒える』
『大丈夫だよ。大丈夫』
 その言葉にどれだけ救われただろう。
「俺は、誰かに『大丈夫』って言って欲しかったのかな?」
 背中に感じた手の温もりが、凍っていた心を溶かしてくれた。
 考えてみれば、今まで心を閉ざしていたのは、もうこれ以上傷つきたくなかったからかもしれない。この傷は誰にも理解されないと思っていた。
 だけど心を開けば、こんなにも穏やかな気持ちになれた。それは相手が同じような傷を持った、天音だったからだろうか?
 ほたるはかけていたサングラスを外した。ゆっくりと空を見上げる。紺色の空に白く瞬く星が、まるで穏やかに語りかけてくるようだった。
 ふと浮かんだのは、両親の優しい笑顔。
「父さん・・・・・・母さん・・・・・・」
 呟くと、再び涙が溢れた。俯くと、不意に声が聞こえる。
『ほたる。大丈夫よ』
『あの事故はお前のせいじゃない。もっと顔を上げろ』
 それは変わらない二人の声だった。思わず顔を上げるが、そこに両親の姿があるはずがない。
「幻聴・・・・・・?」
 いや、もしかしたら二人はずっとそれを伝えたかったんじゃないだろうか? 天音を通して聞いた言葉は、まるで二人がそう言ってくれてるようだった。
「ありがとう。父さん、母さん。・・・・・・これからは、もう少し顔を上げて歩いて行くよ」
 ほたるはそう呟くと、もう一度サングラスをかけ、帰路に着いた。

『また明日』
 不意に思い出した。
「あれ? 明日って学校休みじゃなかったっけ?」
 ほたるは少し考えたが、言葉の(あや)だったのだろうと納得し、深く考えるのをやめた。