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ACT.3 休息
翌日、亮はいつもよりすっきりと目が覚めた。いつもスタジオで寝ていたせいか、布団がこの上なく心地よく感じる。ふと気づくと隣で寝ていたはずの葵はもういなかった。時計を見るともう九時を回っている。快人と直人はもう仕事に行ってる時間だ。二人に朝食を食べさせるため葵はもっと早く起きてるはずだ。 亮はあくびをしながら起き上がって一階に下りた。まず洗面所で顔を洗い、リビングに顔を出す。 「おはよう。よく眠れた?」 葵はキッチンで洗い物をしていた。亮はすぐにダイニングテーブルに着いた。 「はよ。やっぱ布団はええな」 そう言うと葵は笑った。 「スタジオではソファとかで寝るの?」 「うん。体痛くなる」 亮の言葉に葵は洗い物の手を止めて振り返った。 「亮くん。無理しないで、帰れるときは帰ってきてね」 葵が本気で心配しているのがよく分かった。 「せやな。そうするわ」 そう言うと、葵はホッとした表情を浮かべた。そのとき家の電話が鳴る。 「俺出る」 洗い物をしている葵に代わり、亮が立ち上がる。ディスプレイに龍二の名前が浮かんでいた。 「もしもし」 『亮か?』 確認するように返ってきたので、亮は「おう」と返す。 『お前携帯は?』 「携帯・・・・・・」 龍二に言われ考えてみた。昨日は帰ってきてからどこにやったっけ? 「あ。わりぃ。革ジャンのポケットにマナーモードのままで入っとるわ」 受話器の向こうで大きな溜息が漏れた。 『んなこったろうと思った。お前今日はいつ来れるん?』 「んー。メシ食ったら行こうと思うけど」 『そうか』 亮の返答に龍二が少し考え込んだ。 『あの曲、どんくらいできた?』 あの曲が依頼されていたバラード曲だと言うことがすぐに分かる。実はそんなに作業は進んでない。 「メロが微妙にできたくらい」 『お前、家とスタジオ、どっちが落ち着いて作業できる?』 「そりゃ家の方が・・・・・・」 龍二がなぜそんなことを聞くのか、全く分からない。 『なら今日は家で作業しな。こっちの作業はお前おらんでもできるし。来週から撮影入るんやろ?』 龍二に言われて気づいた。映画の撮影もまだあるんだった。 「ええの?」 『落ち着いて曲作れた方がええやろ。後で響さんにスケジュール確認のFAXか電話か入れてもらうから。打ち合わせだけしとき』 「分かった。ありがと」 『じゃあな。携帯だけはちゃんと取れるようにしときや』 「うん」 そうして龍二の電話が切れる。受話器を置いて振り返ると、葵が亮の分の朝食を準備しておいてくれた。 「電話、誰からだったの?」 「龍二。今日は家で作業してええって」 「そうなの?」 亮の言葉に葵が嬉しそうな表情になった。考えてみれば、結婚してからゆっくり二人で過ごしたことなんてないんじゃないだろうか? 亮は葵が準備してくれた朝食の前に座った。 「作業って曲作り?」 「そう」 亮は返事しながらお箸を取り、いただきますと合掌して味噌汁に手をつけた。 「今回はどんなの?」 聞かれ、亮は一瞬躊躇した。 「・・・・・・バラード」 思わぬ言葉に葵は驚いていた。バラードを歌えるようになったとは言え、それはいつも他のメンバーが作ったものだった。驚くのも無理はないだろう。 「バラードって・・・・・・映画の曲?」 葵の問いに頷く。 「イメージとかはできてるの?」 亮は頭を横に振った。 「バラードなんて作ったことないから、よう分からん」 「そっか」 亮はふと思いついた。 「そうや。葵、頼みたいことがあるんやけど」 「ん? 何?」 「ピアノ弾いて欲しいんやけど」 「ピアノ?」 葵は突然の頼みに首を傾げた。 「俺、ギターしか弾けんから。ピアノならまた違うイメージが浮かぶかもしれん」 亮の言葉に葵はなるほどと納得した。 「あたしなんかでよければ」 亮が朝食を食べた後、二人はピアノのある防音室へやって来た。この部屋はもう既にスタジオのようになっており、ギターアンプを始め、ベースアンプやボーカル用アンプ、キーボードにシーケンサー、挙句の果てにはドラムまである。 三階のワンフロアを防音室にしているからこそできることなのだが、そのうち録音機材を持ち込んでレコーディングもここでできるようにするかもしれない。葵としてはその方が安心できる。 「何を弾いたらいい?」 葵はピアノの蓋を開け、ピアノの前に座った。亮は別の椅子をピアノの隣に置き、アコースティックギターを抱えた。 「うーん。何がええやろ? 何が弾ける?」 「まぁ基本なら。クラシックになるけど」 亮はアコギを少し鳴らし、音を調整しながら考えた。 「そうやな・・・・・・。あ、そう言えばアレ弾けるようになった?」 「アレ?」 亮に聞かれ、葵は考えた。 「あー、アレね。何とか形にはなったよ」 葵はすぐに気づき、ピアノの横に置いてあった楽譜を広げた。最初の音を確認し、鍵盤に指を置いた。 鳴り始めた音楽は葵の十九歳の誕生日に美佳からプレゼントされたあの楽譜の曲だった。葵の母親が好きだった曲を弾きたいと言う葵はこの曲を一生懸命練習していた。家事の合間に一人で練習していたので、なかなか進まなかったらしい。 亮は葵が奏でるメロディに耳を済ませた。この前聞いたときより確実に上手くなっている。練習をがんばったんだと気づく。 葵が弾いている隣で亮もアコギを奏でた。ピアノの譜面台に置かれている楽譜を見ながらコードを合わせる。気づいた葵はピアノを弾きながら亮に笑顔を向けた。亮も自然と笑顔になる。 「いいね。こういうの」 弾き終わった時、葵がそう言った。 「せやな」 確かに純粋に楽しかった。 「曲のイメージは?」 葵が恐る恐る尋ねる。亮は首を横に振った。 「そっか。そんなすぐには浮かばないよね」 「でも何となく雰囲気は浮かんだかな?」 「そっか。よかった」 葵は嬉しそうに笑った。 「なぁ、何か弾いて」 亮は葵にまたピアノを弾くよう促した。 「え? 何かって?」 「何でもええからさ。またセッションしようや」 「そうだなぁ」 葵は楽譜を引っ張り出して考えた。 「これは?」 見つけた楽譜を広げ、亮に目配せする。亮も知っている曲だったのでOKを出すと、葵は楽譜を譜面台に置いた。葵がイントロを弾き、途中から亮が入る。 ただ一緒に演奏するだけなのに、言葉を交わすよりも通じ合っている気がした。 昼過ぎまで二人はいろんな曲を弾いた。当初の目的を忘れている気がする。 「あ、もうお昼だ。何か食べたいものある?」 葵に聞かれ、考えるが浮かんでこない。 「葵が作ったんやったら何でもええよ」 「分かった。冷蔵庫見て何か作ってくるね」 葵は楽譜を片付けて立ち上がった。 「何か手伝う?」 亮の思いがけない申し出に一瞬驚く。 「ううん。大丈夫。亮くんは曲作らなきゃでしょ?」 葵に言われ、目的を思い出す。 「そうやった」 忘れていたと気づき、葵はクスクスと笑った。 「できたら呼ぶね」 そう言って葵は下の階へ降りて行った。 亮は抱えていたアコースティックギターを立てかけ、さっきまで葵が座っていたピアノの前に座った。目の前には白と黒の鍵盤が秩序正しく並んでいる。ピアノを習ったことはないが、透がキーボードを弾くのを毎日見ているので何となく分かる。右手の親指をドに置き、音階を弾いてみる。コードはギターで覚えた。まず基本であるCコードを弾いてみる。ドミソを一気に押すと、綺麗な和音が流れた。 亮は映画のストーリーを思い浮かべた。台本を何度も読んだのでストーリーは頭の中に入っている。 依頼されているのは、主人公が歌うラブバラード。ヒロインに告白できない主人公が作った歌。 目を閉じてメロディを考える。メロディが降りてきては消えてゆく。 「ハァ・・・・・・」 上手く繋がらない。スランプとはまた違う。作ったことのない曲調をどう作ればいいのか分からないのだ。 すると突然置いてある子機が鳴った。内線だと気づき、亮は子機を取り上げた。 『お待たせ。ご飯できたよ』 受話器から葵の声が聞こえた。 「分かった。すぐ下りる」 亮は子機を切ると、ピアノに赤い布をかけ、蓋を閉めた。部屋の電気を消し、一階へと下りた。 リビングのドアを開けると、いい香りがした。 「うまそう」 テーブルの上に乗せられたおかずは、コロッケに味噌汁にサラダと質素なものだったが、本当においしそうだった。 「昨日の肉じゃがが余ってたから、コロッケにしてみたの」 「へー。そんなんできるんや」 亮は関心した。すると、ジーンズのポケットに入れていた携帯が鳴った。 「あ、ちょっとごめん」 亮は葵に断りながら、携帯を取り出した。着信は響になっている。スケジュールの確認だろうと亮は通話ボタンを押した。 「もしもし」 『もしもし。亮?』 「うん」 『明日のスケジュールの確認だけどな。明日から映画の撮影入ることなったから』 響の言葉に亮は驚いた。前に確認したときと違う。 「あれ? 来週ちゃうかったっけ?」 『急に変わったんや。明日はお前と小夜の絡みシーンらしいから、ちゃんと台本読んで覚えとけよ』 「うん。分かった」 急にスケジュールが変わったのなら仕方がない。亮は納得した。 『明日、五時に迎えに行くから。ちゃんと用意しとけよ』 「五時!?」 早い時間に驚く。 『映画やドラマの現場ってのは朝早いんだ。六時集合だから五時に出れば間に合うだろう。明日は青田が現場入るから。分かったか?』 「うん」 『あ、龍二が変われって。・・・・・・もしもし』 響の声から龍二の声に変わる。 『どうや? 曲作りの方は』 「微妙」 『微妙?』 亮の言葉に龍二が笑って返す。 「雰囲気は何となく分かるけど、上手く表現できん」 『そうか。でも雰囲気だけでも掴めたなら上出来やろ』 思わぬ褒め言葉に亮は驚いた。 『まだ時間はあるし。明日から撮影入るんやったら、監督にイメージ聞いたらええやん。そこから固めて行けば絶対作れるって』 妙に自信ありげな龍二とは反対に不安に駆られる。 「絶対なんて・・・・・・。作れんかったらどうするん?」 『そん時はそん時や。そうなった時にまた考えたらええ』 何でそんなに信じてくれるんだろう。 『もっと自信持ちぃや。肩の力抜いて、お前らしく作ればええんやから』 龍二の言葉に少し救われた。 「うん・・・・・・」 『俺らもがんばっとるんやから、お前もがんばれよ』 「うん」 そうして電話は切れた。そうだ。メンバーだってがんばってるんだから、がんばらなきゃ。 「亮くん?」 ボーっとしている亮に葵が声をかける。 「あ、ごめん。食おうか」 亮は携帯を自分の右に置いた。二人で手を合わせる。 「「いただきます」」 亮は早速コロッケに箸を伸ばした。衣がサクッと音を立てた。口に入れると、紫蘇の香りがした。 「紫蘇?」 「そう。和風にしてみた」 葵が楽しそうに笑う。 「うまい」 「よかった」 亮の言葉に葵は安心した。葵は思い出したように亮に尋ねた。 「さっきの電話って響さん?」 「あ、うん」 「明日スケジュール変更なったの?」 亮の返事で何となく分かったらしい。 「あー、うん。明日から撮影入ることなって、五時集合やって」 「朝の?」 葵の問いに頷く。 「早いね・・・・・・」 葵は苦笑いを浮かべた。 「葵は起きんでもええよ」 「え?」 葵は驚いた顔をした。 「朝早いし。俺起きれるし」 「でも・・・・・・」 葵は納得しなかったが、亮の気遣いに気づき、頷いた。 「分かった。じゃあご飯作っておくから、ちゃんと食べてね」 「うん」 葵の言葉に亮は頷いた。 亮は午後から台本を覚えることにした。ストーリーを覚えているとはいえ、台詞はまだ頭の中に入っていない。 リビングのソファにゆったり座り、亮は明日撮影するシーンを読んでいた。 「あれ? 珍しい人がいる」 入ってきたのは、美佳だった。亮は振り返り、美佳だと認めるとまた台本に目を落とした。 「いらっしゃい」 洗い物を終えた葵がキッチンから呼びかけた。 「ちょっと亮くん。いらっしゃいくらい言ったらどうなの?」 亮の態度にカチンときた美佳が亮に近づく。 「それどころちゃう」 亮は台本を見入ったまま答えた。美佳が覗きこむと、台本が見えた。 「何? 台本?」 「明日から撮影入っちゃったんだって」 葵が説明する。 「なるほど」 美佳は納得すると、葵のいるダイニングの方へ行った。 「どうしたの? 今日大学じゃなかったっけ?」 葵はエプロンを外し、ダイニングの椅子にかけ、椅子に座った。 「午後は授業なかったから。葵、今から買い物付き合ってくれない?」 「買い物? 今から?」 突然の誘いに驚く。美佳の場合いつも突然なのだが。 「そう。ね、亮くん。葵借りてもいい?」 「うん。俺、これ覚えんといかんし」 亮はやはり台本を見たまま答えた。 「ほら。お許し出たよ」 「いいけど。何買いに行くの?」 「色々。葵のセンスが欲しいの」 美佳はいつもこう言って葵を誘う。葵も観念したのか、頷いた。 「分かった。付き合うよ」 葵は立ち上がり、リビングにいる亮の元に向かう。 「亮くん。今日ご飯何がいい?」 亮はやっと目線を上げ、葵に向けた。 「何でもええよ。葵が作るんやったら」 「分かった」 亮の答えは大体こうなのだ。しかしたまに物凄く食べたい物がある時はちゃんとリクエストしてくれる。 「じゃあ行って来るね」 葵は支度を終えて、出かける前にリビングにいる亮に声をかけた。 「気ぃつけてな」 「はい。亮くんも台本覚えるのがんばってね」 「おう」 そうして二人が出て行く。家の中がシンと静まり返った。 そう言えば、この家に一人になるのは初めてかもしれない。亮は台本をテーブルの上に置き、立ち上がった。部屋を何となく見渡す。物がきちんと整頓されていて、広い空間が広がっている。 葵はいつもこの広い空間に一人でいるのだろうか? 今日はたまたま亮がいて、午後から美佳が来たが、いつもはどうなんだろう? 美佳や香織たちが来なければ、葵はこの広い家に一人ぼっちなのだ。 そんなの絶対寂しいに決まってる。だけど葵は一言もそんなことを言ったことがない。 いつも笑顔で迎えてくれて、いつも笑顔で送り出してくれる。 胸が熱くなる。どうして今まで気づかなかったんだろう。当たり前に思って、気にしていなかった。そんな自分に腹が立つ。そんな葵を愛しく思う。 『絶対葵ちゃん手放すなよ』 ふと雅紀の言葉が浮かんだ。 「手放すかよ」 亮は再び強く心に誓った。 「でも安心した」 「え?」 突然美佳がホッとした顔をした。 「亮くんとラブラブみたいで」 「何それ」 美佳の意地悪な言い方に、葵は苦笑した。 「『何でもええよ。葵が作るんやったら』って。ラブラブじゃない?」 亮のモノマネをしながら、美佳が葵を肘でつついた。 「そうなのかなぁ?」 「え? 何? 不満?」 葵が複雑な顔をしたので、美佳が驚いた。 「不満とかじゃなくて。あたしの作ったご飯をおいしいって食べてくれるのは嬉しいんだけど」 「けど?」 妙に興味津々な美佳に溜息を吐きながら口を開く。 「何でもいいって言われた方が困るんだよねぇ。献立考えるの結構大変だし」 「そっちかい!」 葵の返事に美佳が思わずとツッコんだ。美佳の反応に葵は笑った。 「あたしが亮くんのためにできることっておいしい料理を作ることくらいだから」 「葵・・・・・・」 「でも時々不安になるんだ」 珍しく葵が弱音を口にする。 「あたしじゃなくても・・・・・・いいんじゃないかって・・・・・・」 「葵!」 美佳が突然葵の両肩をグイッと引き寄せ、自分と向かい合わせにした。目を見る。 「本気でそんなこと思ってんの?」 「美佳?」 急に真面目な口調になった美佳に葵は戸惑った。 「亮くんは他でもない葵を選んだんだよ? それなのにそんなこと言うなんて・・・・・・。もっと自信持ちなよ! そりゃ、会えない時間が多くて不安になるのも分かるけど。亮くんにとって一番落ち着く場所は葵なんだよ。もっと亮くんのこと、信じてあげなよ」 美佳の言うことはもっともだった。不安なのはきっと自分だけじゃない。 「そうだね。もっと信じないとね」 葵の言葉に美佳は大きく頷いた。 「ありがとう、美佳」 そう言うと美佳は満足したように笑った。 「よし。んじゃ、まず服見に行こうか」 美佳は葵の腕を組み、軽快に歩き始めた。 翌朝。優しい声に起こされる。 「亮くん、起きて」 「んー・・・・・・。何時・・・・・・?」 開けられない目に手を当てながら、尋ねる。 「四時二十分。五時にお迎え来るんでしょ?」 その言葉にやっと気づいた。今日は映画の撮影の日だ。亮はようやく起き上がった。 「おはよう。ご飯できてるから着替えて下りてきてね」 葵はそう言って部屋から出て行こうとした。 「何で?」 「ん?」 亮の問いに葵が振り返る。 「起きんでええって言うたのに」 「あたしは、亮くんの奥さんだから」 葵ははにかんだように笑った。 「ほら、早く用意しないと、ご飯食べる時間なくなっちゃうよ」 葵はそう言って下に下りて行った。 『あたしは、亮くんの奥さんだから』 葵の言葉が反芻する。 「やべぇ・・・・・・」 顔がにやけてしまうのを必死に抑えた。にやけている場合じゃない。亮はベッドから出て服を着替えた。 洗面所で顔を洗い、リビングに向かう。ドアを開けると、いい匂いがした。 「おはよう」 葵は二人分の朝食を準備し、テーブルにセットしていた。 「はよ」 亮は早速席に着いた。ご飯を装ってくれた茶碗を受け取り、自分の前に置いた。葵も座り、二人は手を合わせた。 「「いただきます」」 相変わらずおいしい朝食に何だか安心を覚える。 「うまい」 亮がそう言うと、葵は嬉しそうに笑った。 「葵、いつもありがとな」 突然そう言われ、葵は驚いた。 「どうしたの? 急に」 「いや・・・・・・何となく」 亮の返事に葵は笑った。 「何それ」 葵はそう笑っていたが、何だか嬉しそうだった。 「台詞、覚えられた?」 「・・・・・・多分」 実はあまり自信はない。 「亮くんなら大丈夫だよ。がんばって」 葵にそう言われると、何だか大丈夫な気がしてくるから不思議だ。 朝食を食べ終わった頃、チャイムが鳴った。 「はーい」 葵がさっと立ち上がり、玄関の方へ走って行った。迎えだろうと、亮も立ち上がり食器を片付ける。ジャケットを羽織り、携帯をポケットに入れた。 「亮くん、お迎え来たよ」 葵が亮を呼びにくる。亮は頷き、共に玄関まで出た。迎えに来た青田は外の車で待っているようだ。亮は靴を履くと、葵に向き直った。 「じゃあ、行ってくる」 「いってらっしゃい」 葵はやはり笑顔だった。亮は突然葵に抱きついた。段差でちょうど葵の鎖骨辺りに亮の頭がもたれかかる。 「どうしたの? 亮くん」 突然の行動に葵は驚いた。葵を抱きしめる手が震えているのに気づく。 「大丈夫だよ。亮くんなら大丈夫」 亮の頭を撫でながら、まるで呪文のようにそう唱える。不思議と亮はそれに安心を覚えた。震えが自然と止まる。顔を上げると、葵はいつものように微笑んでいた。 「大丈夫」 葵はもう一度念を押すようにそう言った。 「がんばって」 「うん」 まだ少しある不安を押し込め、亮は頷いた。すると突然葵が亮の左頬にキスをした。突然のことに驚く。 「がんばってね」 葵の笑顔に安心する。 「あ、そうだ。ちょっと待って」 葵は亮を残し、リビングに戻って行った。すぐに袋を持って戻ってくる。 「はい」 袋を渡され、亮は驚いた。 「これは?」 「お弁当。向こうで出るかもしれないけど・・・・・・。時間なくてもつまめるようにしといたから」 お弁当を作るために、葵はどれほど早く起きたのだろう。自分のためにここまでしてくれることに感動を覚える。 「ありがとう」 お礼を言うと、葵は嬉しそうに笑った。 「あ、早く行かないと、青田さん待ってるよ」 「そやった。じゃ、行ってきます」 「いってらっしゃい」 葵の笑顔に見送られ、亮はマネージャーの車に乗り込んだ。 |