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ACT 5 the truth of the fourth year
莉緒が桐谷家に住むようになって半年が過ぎた。莉緒や母、明子はすっかり溶け込み、幸せな時間を過ごしていた。
最初は同居を渋っていた爽一郎の父、正樹も次第に莉緒たちに感化され、心を和らげていった。どうやら父は莉緒の作る和食がお気に入りらしく、週に一度は必ず作って欲しいと言うほどだった。

父の態度が和らいで爽一郎は安心した。だがもう一つ気がかりなことがあった。
「ただいまぁ」
修二郎は大学から帰ってくると必ずリビングにやって来た。以前なら、自室に直行していたのに、だ。
「あ、おかえり。修ちゃん」
莉緒の言葉に、たまたまその日、リビングで新聞を読んでいた爽一郎の眉がピクッと動く。
「お腹空いた〜。何かない?」
「あるよ〜」
莉緒はキッチンの方に回り、今日焼いたパイを修二郎に見せた。
「わぁ。うまそー。莉緒ちゃんが焼いたん?」
「うん。焼きたてだから、まだ暖かいと思うよ」
莉緒はパイを切り分けながら、答える。
「爽一郎さんも食べる?」
「あー、うん」
莉緒に問われ、頷く。莉緒はそれを聞くと、切り分けたパイをお皿に盛った。そして紅茶を淹れ、リビングに持ってきた。
「いただきまーす」
お腹が空いていた修二郎は、手づかみで頬張る。
「うまーーー」
「よかった」
一方、爽一郎は無言で食べる。
「兄貴、何か言えよ」
修二郎に言われ、少しムッとしつつもそれを顔に出さないように莉緒に顔を向けた。
「おいしいよ」
莉緒はその言葉に笑顔になった。

「修二郎」
爽一郎は部屋に向かおうとした修二郎を廊下で呼び止めた。
「ん?何?」
「何で莉緒ちゃんに『修ちゃん』なんて呼ばせてんだ?」
そう問うと、修二郎はきょとんとした。
「何でって・・・・」
その瞬間、ピンッと来た。
「兄貴、ヤキモチ焼いてんの?」
顔がニヤニヤしていたので、爽一郎は一層ムッとした。
「そっ、んなことあるわけないだろっ」
「ふーん」
修二郎は意地悪く笑う。
「俺が『修ちゃん』って呼んでって言ったんだよ。修二郎なんて呼びにくいからね。呼び捨ては馴れ馴れし過ぎるかなぁと思ってさ」
修二郎は兄に近寄り、耳元で囁いた。
「兄貴もそう言えばいいじゃん。あと莉緒ちゃんのこと呼び捨てにするとかさ」
「そっ」
何だか妙に照れる。
「婚約者なんだし、そうしたっておかしくないだろ?」
修二郎の言っていることは、どこも間違っていないと思うが、どうやって切り出すか、爽一郎は悩んだ。
「ま、がんば」
修二郎は爽一郎の肩を叩くと、階段を上っていった。

リビングに戻ると、後片付けをしている莉緒が目に入った。
『兄貴もそう言えばいいじゃん。あと莉緒ちゃんのこと呼び捨てにするとかさ』
修二郎の言葉が反芻し、何だか妙に意識してしまう。
突然こんなことを言うと莉緒に変に思われるだろうなと思いながらも、リビングのソファに座る。
そのうち莉緒は片付けを終え、リビングの方に呼びかけた。
「コーヒーでも淹れようか?」
「うん」
莉緒はコーヒーメーカーに豆をセットした。そしてこちらに戻ってくる。
「あのさ」
「ん?」
莉緒に見つめられ、爽一郎は言葉を飲み込みそうになる。大きな瞳に見つめられると、今でもドキドキしてしまう。
「俺のこと・・・・呼び捨てでもいいよ?」
「え?何?急に」
莉緒は突然の申し出に笑った。
「いや・・・・『さん』付けって呼びにくいだろうなって思って」
言葉を濁しながら言う。
「でも・・・・『爽一郎さん』で慣れてるからなぁ・・・・」
莉緒が呟く。爽一郎は肩をすくめた。
「じゃあ・・・・爽一郎さんも呼び捨てで呼んでくれるの?」
「え?もちろん」
そんな切り返しをされるとは思わなかったので、一瞬間が開いてしまったが、頷く。
「じゃあ、お互い呼び捨てで・・・」
照れているのか、莉緒は目を伏せながら答えた。
爽一郎は口の端が緩むのが、自分でも分かった。


それは、莉緒が最後の夏休みを過ごしている時期だった。莉緒の母、明子が腹痛を訴え入院した。莉緒と爽一郎、それに洋子が病院に付き添った。
診断を聞いた莉緒たちは、固まった。
「癌ですね」
医師が無情な宣告をする。
「今・・・・何て?」
「癌、です」
「でも、治ったんじゃないんですか?」
莉緒は隣に居る爽一郎の手を握りしめながら、問う。
「もちろん以前の癌細胞は全て切除しました。今回のは、その転移ではなく、新しくできたものです」
「そんな・・・・」
「でも、治るんですよね?今回も手術すれば・・・・」
爽一郎が希望を託して問う。
「それは分かりません。手術である程度は切除できるでしょうが、癌が手術しにくい場所にできてるんですよ」
レントゲン写真を見せながら、医師は説明をし始めた。しかし莉緒には声が届かなかった。

母は相変わらず元気に見えた。その姿は莉緒の胸を締め付けた。明子に言うかどうか悩んだが、どうせ隠しててもばれてしまうのは目に見えていた。それなら、はっきり言った方が本人だって病気と戦う気力が出てくるんじゃないだろうか?
「莉緒、先生何だって?」
開口一番やっぱりそれを聞かれる。莉緒は瞬間躊躇ったが、口を開いた。
「あのね、癌、だって」
その言葉に明子は目を見張ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「そう」
「でも手術すれば治るって」
莉緒は何でもないように笑って見せた。
「前だって手術で治ったじゃん。今回だって治るよ」
精一杯の笑顔で励ます。
「そうね」
明子は心なしか寂しそうに笑った。

その日、洋子が付き添って病院に泊まった。莉緒が泊まると申し出たが、莉緒の精神状態を察し、洋子が止めたのだった。
とりあえず莉緒と爽一郎は家に帰った。
「莉緒、大丈夫?」
車中、下を向いたままで一言も喋らなかった莉緒に、爽一郎は優しく話しかける。
「大丈夫・・・・だよね?絶対、助かるよね?」
自分の拳をギュッと握り締める莉緒の手を、爽一郎は上から優しく包んだ。
「大丈夫だよ。前の時だって、すぐ元気になったじゃん」
「そ・・・・だよね」
「そうだよ。大丈夫」
爽一郎は優しく莉緒を抱きしめた。

その夜、洋子は病室のベッドの脇に置いてある少し大きめの椅子に座り明子と雑談していた。
「ねぇ、洋子」
「ん?」
「本当のことを言って」
「え?」
明子が何を言い出したのか分からず、思わず聞き返す。
「莉緒、ショック受けた顔してた。本当は助からないかもしれないんでしょ?」
明子の言葉に、間を開けながらも頷く。
「やっぱりね」
「でもこういうのって気の持ちようじゃない?だから・・・」
「分かってる。あたしは大丈夫。だけど、莉緒が心配だわ」
「明子・・・・」
「洋子。あたしに万が一のことがあったら、莉緒のこと、お願いね」
「なっ。変なこと言わないでよ。莉緒ちゃんのことは、大丈夫だから。明子は病気治すことに専念してちょうだい」
そう言うと、明子は複雑に笑った。

手術の日。莉緒、洋子が病院の待合室でじっと待っていた。
二度も同じ想いをするなんて思ってもみなかった。震える腕を、莉緒は必死で抑えた。ただ祈る。無事に手術が終わりますように、と。
以前経験したよりも大きな不安が心を支配する。この手術が成功したとしても、百%治る訳じゃない。そう医師に宣告されているので、不安も倍増する。
「莉緒、お母さん」
ふと顔を上げると、真由が袋を持って立っていた。
「真由ちゃん・・・・」
「どうしたの?」
「ご飯、持ってきた。食べる気にはなれないだろうけど、何かお腹に入れた方がいいと思って」
真由はコンビニの袋を二人の前に広げた。
「あー、もうこんなに経ってたのね・・・・」
洋子が時計を見て驚く。もう既に五時間ほど経っていたのだ。
「莉緒も何か食べな?」
真由がおにぎりを渡す。
「うん」
受け取ったものの、食べる気にはなれなかった。
「大丈夫だって。おばさん、人一倍元気なんだから」
「そうだね」
真由の言葉に思わず笑った。

手術が終わる少し前、仕事を終えた爽一郎がやってきた。まだ手術中のランプが点いているのを確認すると、莉緒の隣に腰を下ろした。そして莉緒とその隣に居る洋子に話しかける。
「二人ともご飯は?食べた?」
「真由ちゃんがおにぎり持って来てくれたから」
「そっか」
「爽一郎は何か食べたの?」
「軽くはね」
莉緒に問われ、そう答える。本当は何も食べてなかったりするが、心配させたくないのでそう言っておく。
「私、飲み物買ってくるわね。二人とも何か飲む?」
洋子が立ち上がると、莉緒が慌てて腰を上げた。
「あ、あたし買ってきますよ」
「いいのよ。もうすぐ終わるだろうから、莉緒ちゃんはここで待っててあげて」
「はぁ」
洋子にそう言われると、その言葉に甘えようと莉緒は再び座った。
「お茶でいいかしら?」
洋子の問いに二人は頷いた。

洋子の後姿を見送ると、爽一郎は莉緒の顔を見た。心なしか顔色が悪い。ずっとこんな暗い雰囲気で待っていたら、気分も重くなるだろう。
「莉緒。顔色悪いけど、大丈夫?」
その言葉に顔を上げ、すぐに頷く。
「大丈夫」
そう笑顔で答える莉緒が愛しくなる。
「俺の前で無理して笑わなくていいよ」
爽一郎は優しく莉緒の頭を撫で、自分の胸に引き寄せた。
聞こえてくる優しい鼓動に莉緒は安心感を覚えた。

洋子が飲み物を買って戻ってきた頃、手術中のランプが消えた。全員が手術室のドアに注目する。ドアが開き、医師が出てくる。三人は駆け寄った。
「先生」
「手術は、成功しました。後は経過を見るしかありません。詳しい話はまた後ほど」
「「ありがとうございました」」
三人が頭を下げると、ちょうど明子が手術室から運び出された。三人は近寄ったが、麻酔が効いているのか、目を開ける気配はない。
しかし心なしか顔色が良い気がして、莉緒たちは少し安心した。

それから莉緒、洋子、真由の三人が交代で病院に付き添って泊まった。明子は相変わらず元気そうな素振りを見せ、全員が治ると信じていた。

事態が急変したのは、十月のことだった。明子はみるみるうちに元気がなくなっていった。莉緒たちは相変わらず病院に寝泊りし、明子を見守った。

莉緒は明子の寝顔を見ながら、唇を噛んだ。
見ていることしかできない自分が歯がゆくなる。どうして自分は傍に居ることしかできないんだろう?もっと他にできることはないのかと考えても、何も思いつかない。
「お母さん。お願い。元気になって」
ただそれを耳元で呟いた。母の意識は朦朧とし、昏睡状態に陥っていた。
莉緒は連日病院に泊まった。ただ傍に居ることしかできないなら、ずっと傍に居ようと思った。体を壊すと、爽一郎や真由に止められたが、それでも莉緒は学校に通いながらもずっと病院に泊まっていた。
「母さん。お願い。がんばって。お父さん帰ってきたら、二人でお父さんのことぶん殴るんでしょ?」
莉緒の呟きは時々怖かった。

「莉緒、大丈夫?顔色悪いぞ」
莉緒の服などを持って来た爽一郎が莉緒を心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫。あたしは大丈夫」
そう言いながら俯く。爽一郎は莉緒の隣に座る。
「お母さん・・・・・目を開けてくれないの。最近じゃもう・・・・ずっと眠ってる」
莉緒は震えた声で呟いた。爽一郎は莉緒を自分の方に引き寄せた。
「戦ってるんだよ。病気と。大丈夫。お義母さんはよくなるよ」
「うん」
莉緒が弱音を吐けるのは、爽一郎だけだった。
「でも・・・時々思うんだ。お母さん、このまま目を覚まさなかったらどうしようって」
「莉緒・・・・」
「大丈夫だって、どんなに自分に言い聞かせても、どこかでそんな思いがあって・・・・。どうしたらいいか分からないよ」
莉緒は泣き声だった。見ると目に涙が溢れている。
父親が居ない今、実質母子二人でずっと暮らしてきたのだ。その母が今、危ない状況にある。しかも自分ではどうすることもできない状況だ。どれだけ不安だろう。
爽一郎は莉緒の頭を優しく叩いた。
「泣いてもいいんだよ?」
爽一郎が莉緒を抱きしめると、莉緒は大粒の涙を流して泣いた。


十一月十二日、午前八時十四分。鈴原明子はその生涯の幕を閉じた。朝方、容態が急変し、爽一郎たちが駆けつけた。医師も懸命に手を尽くしたが、心臓は二度と鼓動を打つことがなかった。

母の顔にかけられた白い布。それはあまりに残酷な現実だった。覚悟をしていたとは言え、あまりに急で莉緒は現実を見せられても未だに受け入れられなかった。
手を握るとまだ暖かかった。だが、二度と莉緒の手を握り返してはくれなかった。
「嘘・・・・でしょ?やだ。お母さん。嘘だって言って!」
母にすがりつく莉緒。
「莉緒・・・・・」
その肩を爽一郎が優しく叩くが、それどころではない莉緒は見向きもしない。その場にいた全員が居たたまれない気持ちになる。
爽一郎は溜息と共に言葉を漏らした。
「仕方ないよ」
その言葉にようやく莉緒は爽一郎の方を向いた。
「仕方ない?」
爽一郎の言葉を繰り返す。真由たちはハッとした。そんな無情な言葉をかけるなんて・・・・。
「仕方ないって何よ」
「え?あ・・・・」
自分が言ったことの無情さにようやく気づく。
「すべてを与えられて何の不自由もない爽一郎には分かんないよ!」
莉緒は叫ぶと、病室を飛び出した。真由が莉緒を追った。
修二郎が爽一郎に近づき、肩を叩く。
「兄貴、今のはひどくね?」
「・・・・・」
「兄貴だって分かってんだろ?莉緒ちゃんの気持ち。てか、兄貴が一番分かってるはずだぜ?」
「ああ」
「追いかけろよ」
修二郎に言われ、爽一郎は病室を後にした。

「莉緒!」
真由に呼び止められ、莉緒はようやく立ち止まった。いつの間にか病院の中庭まで出てきていた。
「ごめんね。兄さんが変なこと言って・・・・・」
「どうして真由ちゃんが謝るの?」
確かに真由が言った訳ではないので、謝るのはおかしい。
「莉緒。実は・・・・兄さんも大切な人を亡くしてるの」
「え?」
莉緒はその言葉に驚き、振り返って真由を見つめた。
「莉緒に出会う前、兄さんには婚約者がいたの。婚約者って言っても、幼馴染でとっても仲がよかった。でもある日、彼女は突然事故で亡くなったの」
莉緒はただ真由の言葉を聴いていた。何と言えばいいのか分からない。
「彼女が亡くなってから、兄さんはますます仕事に没頭するようになった。人が変わったように仕事をする兄さんが、すごく寂しく見えた。だからお父様もあんな馬鹿なレースを開催したんだと思う」
馬鹿なレースとは、あの花嫁レースのことだろう。
「莉緒に会って、兄さん変わった。すごく明るくなって、莉緒に会うのを楽しみにしてた。レースで莉緒が出場してくれた時、兄さん隠してたけど、本当はすごく嬉しかったんだと思う」
莉緒は静かに聞いていた。
「兄さんがきっと一番莉緒の気持ち、分かってるはずなの。だけど言葉が足らなくて・・・・」
「どうして・・・・」
「え?」
莉緒は震えながら口を開いた。
「どうして言ってくれなかったんだろう。あたしじゃ・・・・頼りなかったのかな?」
婚約者が居たことも、その人が事故で亡くなったことも、今初めて聞いた。
「言えなかったんだよ。兄さん、きっと未だにその傷が癒えてないから・・・・」
莉緒は唇を噛み締めた。

爽一郎は病院内を探したが、二人を見つけることができなかった。ふと見た窓の外に真由と莉緒が話しているのが見えた。
爽一郎は再び走り出した。

「莉緒」
その声に莉緒は顔を上げた。真由の少し後ろに爽一郎が立っていた。
「爽一郎・・・・」
「莉緒、ごめん。酷いこと言って」
そう言うと莉緒は首を振った。
「あたしもごめん。あたしも酷いこと言った」
爽一郎は莉緒を抱きしめた。
「兄さん。ごめん。麻ちゃんのこと話しちゃった」
真由が後ろから謝る。
「そっか。真由、ちょっと二人で話したい」
「分かった。先戻ってる」
真由が居なくなると、爽一郎と莉緒は近くにあったベンチに座った。
「黙ってて、ごめん」
莉緒は首を横に振った。
「今も・・・・忘れられないんだ。麻子のこと」
莉緒はようやく婚約者の名前が麻子だと知る。
「彼女は幼馴染だったから、傍に居るのが当たり前だった。だけど突然居なくなって、俺はどうしたらいいのか分からなくなったんだ」
それで真由が言っていたように仕事に没頭したのだろう。
「莉緒のことも大切だけど、麻子のことも忘れられない。こんなことを言って、君を失いたくなかった」
爽一郎が震えているのが、莉緒には分かった。震える声を抑えながら呟く。
「怖かったんだ・・・・・」
今でもそれは変わらないのだろう。突然愛する人を失った爽一郎は、それがトラウマになっていた。時々様子がおかしくなるのは、きっと彼女を思い出すから……。
「爽一郎・・・・」
莉緒は立ち上がり、ゆっくりと爽一郎を抱きしめた。
「あたしは、居なくならないよ。絶対。爽一郎の傍にずっと居る」
「ありがとう」
その日、莉緒は初めて爽一郎の涙を見た。

明子の遺体は昼前には桐谷家に運ばれた。莉緒はまだ微かに温もりが残る母の傍に座っていた。全員が莉緒を気遣い、二人だけを残し部屋を出た。
莉緒はただ母の傍にいた。現実が受け入れられない。だが涙は自然に溢れ出てくる。
「おか・・・・さん」
呼びかけても返事をしてくれないと分かっている。だけどまだ変わらぬ笑顔で微笑みかけてくれそうな気がして、母の傍から離れられなかった。

どれくらいの時間が経ったのか分からないが、爽一郎が入ってきた。お盆の上におにぎりとお茶が乗せられている。
「莉緒、何か食べたら?」
勧められるが、莉緒は首を振った。
「じゃあ、せめてお茶だけでも」
爽一郎はまだ熱いお茶を莉緒に勧めた。莉緒はお茶を受け取ると、それを飲んだ。空っぽの胃の中がポカポカする。それだけで少し落ち着いた。
「お母さん、これで楽になったんだよね」
莉緒はポツリと呟いた。もう苦しむことはない。
「ああ」
「お母さん、がんばったね」
莉緒は大粒の涙を流しながら、そう話しかけた。爽一郎は何も慰めの言葉が浮かんでこなかった。

その日の昼間、明子の父と母がやって来た。時々見舞いに来ていたので、爽一郎たちが会うのは初めてではなかった。祖父たちは、早速葬儀の準備に取り掛かった。
「まったく。親不孝な子だ」
祖父が溜息をつく。
「親より先に逝くなんてね」
祖母も呟く。
「でもこれで・・・・苦しまなくていいんだよね」
莉緒が言うと、そうだね、と二人は寂しく微笑んだ。

そして莉緒は祖父たちと共に明子が眠る部屋で一晩を過ごした。

お葬式は莉緒にとってあっという間だった。棺に入れられた母を見てもまだ信じられない気持ちが大きかった。
それでも献花の際は、いろんな気持ちがこみ上げてきて涙が零れた。
最後のお別れをし、斎場で火葬する。
骨だけになった母は、家族により骨壷に入れられた。それでもまだ何処かにいるような気がして、やはり現実の世界とは思えない。

終わってみると、全てがあっという間だった。母の骨や遺影は莉緒の祖父母が持ち帰り、桐谷家には母の遺品だけが残されていた。
母を失った莉緒は、誰も慰めることができなかった。まだ何処かに居る気がして、もしかして帰ってくるのかもしれない、と思い、何度も玄関に足を運んでしまう自分がいた。
頭では分かっていても、どうすればいいのか分からないまま、月日は流れた。

そして莉緒はいつの間にか高校卒業を目前にしていた。それは真由も同じで、真由は大学進学のため受験していた。

卒業式の日。来なくていいと言ったのに、爽一郎が来ていた。莉緒にバレないようにと思って来ていたようだが、しっかりバレていた。
だが二人が話す間もなく、爽一郎は会社へと行ってしまったので、莉緒としてはホッとしたような少し寂しいような複雑な気持ちだった。
学校が終わってから携帯を見ると、爽一郎から『卒業おめでとう』というメールが入っていた。そのメールを見て思わずにやけてしまったのは、誰にも内緒にしている。

その夜は、真由と莉緒の卒業祝いを兼ねて外食をした。爽一郎との婚約を明子に話をした、あのレストランだった。何だか不思議な気分だった。この場に母が居ないことが、唯一悔やまれた。
きっとこの場に居たら、一番に喜んでくれたであろう母。莉緒は表にこそ出さなかったが、心の底では、そんなことばかり考えていた。心配をかけまいと笑顔でいたが、爽一郎には何となく分かっていた。

「莉緒、大丈夫?」
家に戻ると、爽一郎に問われた。
「何が?あたしは大丈夫だよ」
笑ってみせる莉緒だったが、爽一郎は莉緒を抱き寄せた。
「辛いのに笑うなって言っただろ?」
抱き寄せられたまま、莉緒は口を開いた。
「しょうがないじゃん。あたし・・・・お母さん似だもん」
「そうだな」
爽一郎の心音が、心地よく響いた。

高校を卒業し、一年間は花嫁修業と称し、莉緒は色々な作法を習った。お茶、お花に始まり、礼儀作法やその他必要と思われる習い事を習った。飲み込みが早い莉緒はそれも何とかクリアし、二十歳の誕生日に伏せていた婚約者の発表と入籍をした。
もちろん地元は騒然となった。
そのニュースが引き金になるとは、誰も知らずに。


その日、莉緒は真由や爽一郎と共に夕食の買い物をして帰る途中だった。
「ねえ、家の前に誰か居ない?」
車の後部座席にいた真由に言われ、莉緒が家の前を見ると、そこには見慣れた人が立っていた。
莉緒の表情が固まる。
「莉緒?知ってる人?」
爽一郎に聞かれ、莉緒はその人物を見据えたまま呟いた。
「父さん・・・・」
「「え?」」
二人は驚いた。とりあえず爽一郎は車を路肩に停め、全員が降りる。車から降りた莉緒に気づき、父が近づいてくる。
「莉緒・・・・」
莉緒は近づいてくる父親を全身で拒否するように後ずさる。
「嫌!」
そう言うと、莉緒は屋敷に駆け込んで行ってしまった。
「莉緒!」
真由が慌てて追いかける。取り残された父が肩を落としたのが見えた。爽一郎は父に近づき、話しかけた。
「お義父さん」
ハッとして、父は振り返る。
「初めまして。この度莉緒さんと婚約させていただいた桐谷爽一郎です」
一礼すると、父も慌てたように一礼した。
「少しお話をお伺いしてもよろしいですか?」
そう問うと、父は少しの間を置いて頷いた。

莉緒は自室に立てこもった。
「莉緒!真由だよ!開けて!」
その言葉に全く反応しようとしない。莉緒は部屋に立てこもったまま出てこなくなってしまった。真由は開かない扉の前に立ち尽くしていた。

場所を変え、近所の喫茶店でお茶を飲みながら、爽一郎と父は話をした。
「今までどちらにいらしたんですか?」
その質問には全く答えようとはしなかった。沈黙が支配する。爽一郎は運ばれてきたコーヒーを一口含んだ。
「質問を変えましょう。莉緒さんのお母さん、鈴原明子さんが亡くなられたことはご存知ですか?」
「え?」
父は俯いていた顔を上げた。驚いた表情に初めて聞かされたのだと気づく。
「ご存知なかったんですか?」
その問いには頷いた。
「いつ・・・・亡くなったんですか?」
「もうすぐ二年になります。莉緒が高三の終わり頃でした。癌で・・・・」
「そう・・・・だったんですか」
溜息のように言葉を漏らし、再び頷く。
「道理で連絡がつかないと思ったんです。いつの間にか引越しをしていたし、どこでどうしているのかさえ分からないまま・・・・」
父が寂しそうに呟いた。
「明子さんと連絡とってらしたんですか?」
「と言っても二度だけです。一度目は離婚届を明子に郵送したから名前を書いて提出してくれと電話で・・・・」
「待ってください。離婚届って何です?離婚届を渡してたんですか?」
「はい」
父はすぐに返事した。
「離婚をすれば、明子や莉緒に苦労をかけずに済むと思ったんです。私が居なくなる前に何度も離婚しようと明子を説得しました。けど、明子は受け入れらないと言って、署名しなかったんです」
「そうだったんですか」
意外な事実を聞き、爽一郎は驚いた。
「二度目に連絡を取った時、怒られました。そして離婚はしないときっぱりと言われました」
父の目線はだんだんと下がり、やはり俯いてしまった。
「まさか病気になっているとは・・・・」
涙の粒が落ちるのが見えた。爽一郎はそっとハンカチを渡した。

爽一郎が家に帰ると、修二郎が待ち構えていた。
「兄貴、莉緒ちゃん、部屋に閉じこもって出てこないんだって」
そう聞き、慌てて莉緒の部屋へと向かった。

莉緒の部屋の前には真由がいた。何度呼びかけても開けてくれなかったらしい。
「莉緒。俺だけど、入ってもいい?」
爽一郎の言葉を聞くと、少し時間が経ってから鍵が開く音がした。それを聞くと、爽一郎が部屋に入り、再び鍵が閉められた。

莉緒はベッドの上でうずくまっていた。泣いている訳ではないようだ。爽一郎は莉緒の隣に座った。
「莉緒。お義父さんから色々話を聞いたよ」
「・・・・」
何も返事をしない莉緒に爽一郎は溜息をついた。
「莉緒、やっぱり許せない?」
そう聞くと、莉緒は顔を上げた。
「当たり前じゃない。お母さんが死んだのだって、あいつのせいなんだから!」
母の死因は病気なのだが、莉緒は父のせいでもあるのだと思っているようだ。
莉緒の泣き出しそうな声に気づき、爽一郎はそっと莉緒を抱き寄せた。

爽一郎の温もりが、莉緒の心を落ち着けた。落ち着いたところで、爽一郎はジーンズのポケットからメモを取り出した。
「莉緒。これ、連絡先。一応聞いてきた。お節介かもしれないけど、話し合いも必要だよ?」
爽一郎の言葉には返事をせずにうずくまっていた。爽一郎は仕方なく、メモをテーブルの上に置いた。
「莉緒、ご飯は?」
「いらない」
うずくまったまま返事する。
「俺が作るって言っても?」
耳元で囁かれ、莉緒は顔を少しだけ横にずらし、爽一郎を見た。意地悪く微笑んでいる。爽一郎の手料理なんて今まで食べたことない。
「イジワル」
そう言うと爽一郎は「ははっ」と笑った。

結局爽一郎が作ったのは、自分と莉緒の分だけで、他の家族の分はシェフが作った。
爽一郎は料理を持って莉緒の部屋で一緒に食べた。作ったものはパスタとコンソメスープとサラダだった。
「おいしい」
一口食べた莉緒の言葉に、ホッと胸をなでおろす。
「よかった」
「爽一郎が料理してる姿、想像できないけど」
「酷いなぁ」
「料理、できたんだね」
「まぁちょっとはね。レパートリーは少ないけど。・・・それに・・・・」
「それに?」
「莉緒の作るご飯の方がよっぽどおいしいよ」
照れもせずにそんな台詞を言われ、逆に莉緒はすごく恥ずかしくなった。
「そんなこと言っても何も出ないよ?」
「莉緒のご飯が出るなら文句言わない」
一枚上手な爽一郎に莉緒は何も言えなくなってしまった。

その数日後。莉緒は母がいた部屋に入った。洋子もそのままにしていてもいいと言ってくれたので、その言葉に甘えてそのままにしてある。一応掃除だけはきちんとしている。
莉緒は時々この部屋で過ごしていた。まだ残る母の温もりを唯一感じられたからだ。
ふと本棚に目を移す。母が好きだった作家の本が並ぶ中、一冊だけ背表紙にタイトルがない本を見つけた。莉緒はそれを手にとって見た。
「日記?」
母が日記をつけているなんて思いもしなかった莉緒は、驚きながらもゆっくりとその日記帳の一ページ目を開いた。
日付と一緒に短い文章が並んでいる。だが日が飛び飛びになっているのは、母らしかった。その日記帳は、父が居なくなる前から付けられていた。
ふとある文章に目が留まる。
『あの人に離婚してくれと言われた。借金を背負ってしまったかららしい。私と莉緒を守るために離婚なんて・・・・。もっと私を頼って欲しいのに』
「どうゆうこと・・・・?」
初めて知る事実に莉緒は次の日記も読んだ。
『まだあの人は頼み込んできた。自分が作った借金を私たちに追わせるわけにはいかないと言う。確かに莉緒に苦労はかけたくないけど・・・・。私はあの人も莉緒と同じくらいに愛してる。どうしてあの人は分かってくれないんだろう?』
「母さん・・・・」
母の気持ちが心に流れ込んでくる。同じような日記が並び、パラパラとページをめくっていると、間に挟んであった何かが床に落ちた。
見ると封筒だった。母宛の手紙。莉緒は開封された中身を見た。紙を広げて驚いた。
「離婚届・・・・」
莉緒は父が居なくなった日の日記を見た。
『あの人が居なくなった。結局最後まで分かってくれなかったのかしら。莉緒には苦労かけるけど、莉緒だって分かってくれるはず』
その数日後の日記。
『今日あの人から手紙が届いた。何かと思えば離婚届だった。あの人の名前だけ書いてある。やっぱり自分一人で返そうとしてるんだ。もっと頼ってくれればいいのに。・・・ただこれは最終手段として置いておこう。いざと言うときに莉緒を守るために。ごめんね、莉緒』
普段どれだけ毒を吐いても、母はやっぱり父のことを愛していたと知り、莉緒は胸が締め付けられる想いだった。一番分かっていなかったのは自分だった。父も母も自分のことをこんなに考えていてくれたのに・・・・。
溢れてくる涙を、莉緒は抑えられなかった。

莉緒は母の日記を握り締め、自分の部屋に戻った。爽一郎が持って来てくれたメモを探す。捨てようと思いつつもなかなか捨てられなかったメモ。机の端にあるのを見つけ、住所と電話番号を見る。住所は以前自分たちが住んでいた家の近くだった。いつから住んでいるのかは分からないが、結局自分たちの近くに居たんだと気づく。
携帯電話を取り上げた莉緒は、時計を確認する。そろそろ夕方に差し掛かる。もしちゃんと職にきちんと就いているならば、大体仕事が終わる時間でもある。少し躊躇ったが、ダイヤルをプッシュする。
数秒の間が開き、呼び出し音が響く。番号からして自宅と思われるので、もしかするとまだ家に帰っていない可能性が高い。
しばらくコールしたが、まったく出る気配がないので、電話を切ろうと携帯電話を耳から少し話した瞬間、コール音が途切れる。
『もしもし?』
父の声が聞こえ、慌てて携帯電話を耳に当てる。
「お父さん?」
『莉緒?莉緒なのか?』
まさか本当に電話がかかってくるとは思わなかったので、父は相当驚いていた。
「うん。あのね、話したいんだ。お父さんの都合のいい日でいいから、教えてくれる?」
『ちょ、ちょっと待ってな』
「うん」
父が受話器をそこに置き、がさごそしている音が聞こえる。出勤日の確認でもしているのだろうか?
『も、もしもし。えーっと・・・・明日の昼間だったら大丈夫だよ』
「分かった。じゃあ何時にする?」
『それじゃあ十二時に』
「分かった」
待ち合わせ場所を決め、莉緒は電話を切った。

その夜、仕事から帰ってきた爽一郎に父と会うことを話した。
「大丈夫?俺、一緒に行こうか?」
「心配しなくても大丈夫だよ。この間みたいに逃げたりしないから」
莉緒は持っていた母の日記を爽一郎に見せた。
「お母さんの気持ち、やっと分かったから。お父さんもあたしたちのこと、捨てたわけじゃないって分かった。だからちゃんと話してみようと思ったの」
「そっか」
爽一郎は優しく微笑んだ。

莉緒は少しだけ早めに家を出た。待ち合わせの喫茶店に着いたのは待ち合わせ時間の三十分前だった。
父が来る間、莉緒は父が居なくなったあの日から今までのことを思い出していた。あの日を境に生活が一変した。だが、そのおかげで爽一郎にも出会えた。何て皮肉なんだろう。
そんなことを考えていると、いつの間にか待ち合わせ時刻になっていた。ちょうど顔を上げたときに店に入ってきたのは父だった。
「待たせたね」
莉緒は父の言葉に首を振った。父は目の前の席に座る。
「この間はごめんなさい。逃げちゃって」
「いや。突然行った父さんも悪いし。それくらいの覚悟はしていたから」
父は弱々しく笑った。四年しか経っていないはずなのに、随分と老けた気がする。
「仕事は?ちゃんと見つかったの?」
「あぁ。今工場で働いてる」
「そう」
莉緒はコーヒーを口に含んだ。父もやって来たウェイトレスにコーヒーを注文する。
「随分、綺麗になったね」
久しぶりに会う娘をまじまじと見、過ぎ去った年月を実感する。
「どうしてあの日、家を出たの?」
どうしてもそれが引っかかる。母が離婚を許さなかったのになぜ?
「ずっと家を出ようとは思っていたんだ。母さんと莉緒を巻き込みたくなかったから、離婚をしようと思っていたからね」
「お母さんはそれを許さなかった」
「そう」
莉緒の言葉に頷く。やっと来たコーヒーを一口すする。
「母さんは絶対に許そうとはしなかった。だから家を出るって言う強行手段に出たんだ。きっと呆れるだろうと思ってね。だけど送りつけた離婚届を母さんは破り捨てたって言ってた」
それは嘘だと莉緒には分かった。莉緒を守る最後の手段として、大切に置いていたのを実際に見ている。だが父には告げなかった。
「どうして戻ってこなかったの?」
莉緒は飽くまで冷静を装った。震え出しそうな声を押し殺し、気丈に振舞った。
「何度も戻ろうと思ったよ。だけど、勇気がなかったんだ。母さんや莉緒はきっと迎えてくれるとは思ったが、どんな顔をして会えばいいのか分からなくて・・・・。ずるずると後に延ばしているうちに、連絡が取れなくなってしまったんだ」
莉緒たちが桐谷家へ引っ越したからだろう。父も母も携帯電話を持っていなかったので、連絡手段がなかったのかもしれない。
「せめてもの償いに、仕事が見つかってからは母さんの口座にお金を振り込んでた。それが借金の返済に充ててもらえたらと思ってね」
莉緒はそう聞いても、納得ができなかった。以前と同じ町にいたのだ。探そうと思えばいくらでも探せたはずなのに。
「ニュースを聞いて驚いたよ。桐谷の長男と婚約してたのが莉緒だったとはね」
少し嬉しそうに話す父が、許せなくなった。それでも気持ちを落ち着けて深呼吸する。
「あと一つだけ聞くわ。あの借金は本当に父さんがギャンブルで作ったものだったの?」
その質問には少し答えにくそうだった。
「あ、あぁ。そうだよ」
その答えを聞き、莉緒は我慢していたものを吐き出した。
「もう二度と会わない。金輪際、あたしの目の前に現れないで」
莉緒はそう言うと千円札を机の上に置き、店を出た。

父が何か言おうとしたのに気づいたが、莉緒は無視をした。
もう話すことはない。話したくもない。
ヘタレなのは知っていたが、あそこまでとは思わなかった。いくら母が愛した人でもやはり許せない。
莉緒は早足で歩いた。少しだけ期待した自分がバカだった。
溢れてくる涙を服の袖でぬぐいながら、莉緒は家へ帰った。

「話し合いはどうだったの?」
仕事から帰ってきた爽一郎に一番に問われる。莉緒は上手く言えないので、黙り込んでしまった。
「上手くいかなかった?」
莉緒はコクンと頷いた。
「話、ちゃんと聞いたけど。やっぱり許せない」
「そっか」
爽一郎は莉緒の頭をポンポンと軽く叩いた。今にも泣き出しそうな莉緒の肩を爽一郎は優しく抱き寄せた。
しばらくして思い出したように話題を変える。
「話変わるけどさ。結婚式どうする?」
「どうするって?」
「和式と洋式とどっちがいい?」
「どっちかって言うと・・・・洋式」
急に式の話をされ、莉緒は妙に緊張する。
「OK。そろそろ日程とか式場とか決めないとな」
「爽一郎」
「ん?」
「式っていつでもいいの?」
「うーん。大丈夫だと思うけど。やりたい日とかあるの?」
その問いに、こくんと頷く。
「十一月十二日。お母さんが亡くなった日」
莉緒の気持ちを汲み、爽一郎は頷いた。
「分かった。まだ六月だし、仕事とか都合もどうにか付けられると思う」
「ごめんね。ワガママ言って」
「あはは。それはワガママには入らないよ」
爽一郎は相変わらず柔らかく笑った。

二人は少しずつ結婚式の準備を始めた。
莉緒はやはり父を招待することはなかった。爽一郎はそのことに気づいたが、何も言えずにいた。

籍は式の前日に入れることにした。

そして結婚式の日。花嫁の父が居ないので、入場の際は爽一郎の会社の人が代わりを務めることになっていた。
爽一郎はやきもきしていた。時計と睨めっこする。

数日前、爽一郎は莉緒に内緒で莉緒の父に会っていた。
招待状を渡すと、困惑した表情をした。
「私が行っても、莉緒は喜んではくれないよ」
「でも莉緒の父親は貴方しかいないんですよ」
爽一郎の言葉に、少し動揺したようだった。
「お待ちしています」
返事はもらえないまま、爽一郎はその場を去った。

「兄さん、莉緒の準備できたよ」
真由が呼びに来る。真由と共に莉緒の控え室に向かった。

ノックをして控え室に入った爽一郎は、莉緒に目を奪われた。純白のドレスに身を包んだ莉緒は今までよりも数倍綺麗に見えた。
「どう・・・・かな?」
莉緒は照れながら尋ねた。
「綺麗・・・だよ。」
そう言うと莉緒は照れたように俯いた。
「そろそろ準備お願いします」
呼びに来られ、二人は教会へ向かった。

莉緒は教会の外で待機していた。
「莉緒!」
呼ばれ、振り返るとそこに父が立っていた。莉緒は驚き入っていた。
「ど・・・して」
言葉をやっと吐き出す。
「どうしてここにいるの?」
何だか怒りが込み上げてくる。
「爽一郎に呼ばれたの?」
答えようとしない父にそう問うと、ゆっくりと頷いた。莉緒は溜息をついた。爽一郎なりに父と仲直りして欲しいのだろうが、やっぱり許せないものは許せない。
「莉緒さん。もうすぐ入場ですよ」
父の代理をする予定だった人が耳打ちする。莉緒はどうするか悩んだ。
「一生に一度のことなんですから、やっぱり本当のお父さんにここに立ってもらいましょう」
その男性は莉緒の隣を父に譲った。
「あ・・・・」
莉緒が何か言おうとするが、男性は「では」と去って行ってしまった。
「もうそろそろ入場します」
スタッフに声をかけられる。莉緒は仕方なく、父の腕を組んだ。
「今回だけ、許してあげる」
莉緒は前を向いたままそう言った。父が微笑んだのは、莉緒には見えていなかった。

扉が開き、入場する。爽一郎は隣に莉緒の父が居るのを見て、ホッと胸を撫で下ろした。
爽一郎の隣に来た莉緒は少しだけ爽一郎を睨んだが、爽一郎は笑顔でかわした。

式は滞りなく行われた。

祝福のライスシャワーを浴びながら、二人が教会から出てくる。莉緒は後ろを向いて花束を投げた。見事ゲットしたのは、修二郎だった。
「次の花嫁は兄貴かぁ」
真由が意地悪く笑う。
「えー。俺が花嫁なのー?ダーリンは誰?」
真由の嫌味を物ともせずに切り返す。
「加藤くん」
真由が間髪入れずに答えると、修二郎は身悶えた。加藤とは修二郎の悪友で、修二郎はヤツが苦手だった。
「ぜってーやだ」
「冗談に決まってるじゃない」
顔面蒼白になる修二郎に冷たく言い放つ。
「莉緒、幸せそう」
真由は最高の笑顔を見せる莉緒を見て心から嬉しく思った。
「でもまだ問題はあるみたいだな」
修二郎は隅の方にいる莉緒の父を見つけた。
「前途多難?」
「そうでもなさそうだけどな」

服に着替え、莉緒は支度を済ませた。
「莉緒。入ってもいい?」
爽一郎の声がしたので、どうぞ、と返事をする。ドアが開き、同じく服に着替えた爽一郎が現れる。
「行こうか」
「うん」
二人は桐谷の本家の皆と共に車に乗り込んだ。

車が向かった先は、墓場だった。ここに明子が眠る。
「ここが・・・」
父はやっと再会できた妻の墓を見つめ、ただそれだけ呟いた。
「お母さん、今日式挙げたよ。父さんも来てくれたんだ」
莉緒の言葉に父は顔を上げ、莉緒を見つめた。莉緒はその視線に気づかぬフリをした。
「お母さんが居なくて残念だよ」
莉緒の言葉に、一同胸が締め付けられる思いがした。
「莉緒を幸せにします」
突然の爽一郎の言葉に莉緒は驚いたが、すぐに嬉しさが込み上げてきた。
二人は見つめ合い、微笑んだ。