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ACT 4  Recollection
桐谷洋子は足早に歩いていた。次男、修二郎から連絡を受け、やっと別荘に到着したところだ。洋子は使用人に旦那の居場所を聞くと、即行その部屋へ向かった。
「あなたっ!」
洋子は怒声を上げながら、扉を開く。タバコを吸いながらリラックスをしていた正樹はその声に飛び上がる。
「ひっ。洋子!」
怯える夫に近づく。
「あなた、これはどういうことです?勝手に花嫁レースなんか開いたんですって?」
正樹は全く目を合わせようとしなかった。
「聞いてらっしゃるの?」
顔を近づけると、やっと洋子の目を見た。
「今度は一体いくら使ったんです?」
溜息を吐きながら、洋子は問う。それでも正樹は答えない。
「まったく・・・。爽一郎はこのことを知ってるんですか?」
「あぁ・・・知ってるよ」
やっと口を開く。
「止めなかったんですか?」
驚いて言うと、コクリと頷いた。
「思わぬ展開になってな・・・・・・」
正樹の言葉に洋子は片眉を上げた。
「どういうことですか?」

控え室のような場所に連れて来られた莉緒は、真由と一緒に衣装を選んでいた。と言うか真由が勝手に選んでいた。
「莉緒はどんなのがいいの?」
「あたしは・・・どんなのでも・・・・・・」
「何よ、それ」
真由は苦笑しながら、衣装を品定めしている。
「あたしなんかで・・・いいのかなぁ・・・」
莉緒は溜息をついた。真由は莉緒を見やった。
「自信持ちなさいよ。あのレースに勝ったのは紛れもなく莉緒なんだから」
「でも…婚約って・・・・」
まだ高校生の莉緒には違和感ありまくりである。
「そりゃ実感はないでしょうけどね。でもお父様からしたら、兄さんに早く身を固めて欲しいんじゃない?」
爽一郎は跡継ぎだから。
「そっか・・・・」
それは仕方のないことかもしれない。
「莉緒、これなんかどう?」
真由に呼ばれ、莉緒は真由の近くに歩み寄った。

「今、何ておっしゃいました?」
洋子の声がいつになく恐ろしく、正樹は震え上がった。
「だ・・・だから、鈴原莉緒と言う一般庶民がレースに参加して・・・・・・優勝してしまったんだよ」
「まさか・・・」
「信じられないのは分かるよ。私もどうしてあんな小娘が優勝したのか・・・・・・」
「明子の娘よ」
「え?」
正樹は事態が全く掴めない。
「その娘、今どこに?」
「真由と控え室に・・・・」
正樹の言葉を聞くと、洋子は部屋を飛び出した。
「洋子!」
夫の声など、まったく聞こえていなかった。

真由とまだ衣装を選んでいると、部屋をノックされた。真由が出る。
「お母様!」
真由は驚いた。
「修二郎から聞いたわ。彼女はどこ?」
母の言葉に真由はドアを大きく開け、母を招き入れた。莉緒は状況が分からなかったが、真由の母の姿を見て、思い出した。
「あ!」
「お久しぶり」
洋子に挨拶され、莉緒は頭を下げた。
「明子は元気?」
「はい」
莉緒は元気よく答えた。そう、洋子は母の友人だったのだ。一度だけ病院にお見舞いに来た気品のいい女性。それが真由たちの母だったなんて・・・。
「話を聞いて驚いたわ。あなたが優勝するなんてね」
洋子は嬉しそうに笑った。莉緒ははにかんだ。
「明子は今どこに?」
「あー・・・仕事だと思います」
「そう・・・・。このことは明子は?」
「知らないです。あたしも今日…初めて連れて来られたので・・・・」
莉緒の台詞を受け、真由が口を開く。
「あたしが連れて来たのよ。お父様を止められなかったし・・・・。こうなったら莉緒に出てもらって、お父様に認めさせた方が早いと思って・・・・・」
「そうだったの」
洋子はそう言って、しばらく考えた。
「明子に知らせてないんなら、今夜の婚約発表は取りやめね」
「え?でも・・・・・」
真由は驚きのあまり聞き返した。莉緒も驚きを隠せなかった。
「だってそうでしょ?莉緒さんは未成年なんだし。明子は親よ?私が明子なら絶対に嫌だわ」
洋子の言うとおりだった。
「でも・・・・どうするの?来賓とかいらっしゃるんじゃ・・・・」
「大丈夫。私が止めるから」
にっこりと微笑んだ洋子が、妙に恐ろしく感じた。

早速洋子は夫である正樹に発表を延期するように要請した。
「だが、しかしっ」
「莉緒さんはまだ未成年ですよ?真由が勝手に婚約したらあなたは許します?」
「う・・・・・・」
痛いところを突かれ、正樹は答えに詰まった。
「親である明子が認めない限り、この話を発表するのはどうかと思いますよ?」
「・・・・・・確かにそうかも知れんな」
正樹は納得したようだった。
「しかしだな……来賓の方々にはどう説明したら・・・・・」
「さっき私が言った事をそのまま言えばいいじゃありませんか。大体こんなレースを勝手に開くあなたが悪いんですからね?」
言葉が胸に突き刺さる。確かに勝手に開いた正樹の責任は重大だ。
「分かった・・・・。事情を説明して、婚約発表を延期しよう」

結局その日の婚約発表はただのパーティに変更した。来賓に正樹自身がきちんと事情を説明すると、何とか納得してくれたようだった。
莉緒は、このパーティには参加せず、爽一郎と食事に出かけることになった。真由や修二郎が気を利かせて、二人で食事に行くように手配してくれた。もちろん莉緒は真由によって仕立てられた。
「ごめんね。何か急に色々ありすぎて、疲れたんじゃない?」
爽一郎は乗ってきた車を運転しながら、助手席に乗っている莉緒に話しかけた。
「あー、いえ。それより、あたしなんかで・・・・・本当によかったんですか?」
そう言うと、爽一郎は溜息のように言葉を吐き出した。
「あのさぁ、俺は莉緒ちゃんだからあの馬鹿げたレースに乗ったんだよ。『一般人』てのが嫌いな親父を認めさせるのは、あの手しかなかったし・・・・。莉緒ちゃんだって、俺なんかでいいの?」
そう返され莉緒は焦った。
「あ、いえ・・・。あの・・・・・勿体無いくらいです」
莉緒の言葉に、爽一郎は苦笑した。
「莉緒ちゃん。いつもの通りでいいんだよ。そんな緊張しなくてもいいんだよ?」
「・・・・・はい」
それは十分に分かっているのだが、何となく緊張してしまう。莉緒にとって男の人と付き合うこと自体、初めてだった。しかもその相手が憧れていた爽一郎。今日の出来事が夢のように感じられた。でも・・・・・夢じゃない。
「それから、敬語も使わなくていいよ」
「え・・・?でも・・・・」
「・・・・一応・・・・婚約者、なんだからさ」
そう言う爽一郎がいつになく照れているように見えて、何だかくすぐったかった。爽一郎も緊張しているんだろうか?
「あ、そうだ。莉緒ちゃんのお母さんって、もう仕事終わった?」
莉緒は自分の腕時計を見た。時間的に終わってそうだ。
「終わってる・・・・と思います」
「敬語」
「うっ」
鋭く突っ込まれる。いきなり敬語なしでいいなんて言われても、困る。
「じゃあさ、家に電話かけてみてよ。どうせならお母さんも一緒に食事しよう?」
「はい」
莉緒は爽一郎からもらった携帯電話で家に電話をかけた。
『はい。鈴原です』
「あ、お母さん?」
『莉緒?あなた、どこにいるの?』
「あ・・・・・」
どう返事していいか悩む。
「急遽バイトが変更になっちゃって・・・・」
花嫁レースに出てました、とは言えない。
『そう。それならいいけど。夕飯どうする?』
「あ、それがね。ちょっと・・・・お母さんに話したいことがあって・・・・・今から家、帰るから」
『そう?何も用意しなくていいの?』
「うん」
『なら待ってるわ。気をつけてね』
「はい。」
莉緒が電話を切ると、爽一郎がすぐに声をかけた。
「何て?」
「待ってるから、気をつけてねって」
「そう」
母はどんな反応するんだろう?確かに『恋をしろ』とは言った。だけど『結婚』までは母も考えていなかったはずだ。まだ『婚約』の状態とは言え、話が急だと自分でも思う。
「どうかした?」
俯く莉緒に優しく声をかける。莉緒は心配させてはいけないと思い、顔を上げて笑顔で首を振った。

爽一郎は莉緒のアパートの前に車を停めた。
「じゃあ・・・・・お母さん連れてきます」
「うん」
爽一郎は車で待機した。

家の扉を開けると、いつも通りの笑顔で母が迎えてくれた。
「おかえりー」
「ただいま」
「どうしたの?莉緒、その服?」
いつものパンツスタイルではない莉緒に、母は驚いた。
「あのね、お母さん。すごく・・・・・びっくりすると思うんだけど・・・・。落ち着いて、聞いてね」
「うん」
莉緒の方が緊張が高まってくる。ドキドキする胸を抑えながら、莉緒は口を開いた。
「爽一さんっていたでしょ?」
「あー、退院した時に車でお迎えに来てくれた人?」
「そう」
莉緒は頷いた。
「その人ね、本当は・・・・桐谷爽一郎、って言って桐谷和菓子屋の副社長だったの」
莉緒の言葉に母は言葉を失った。
「何で嘘を?・・・・・待って、桐谷和菓子屋って・・・・・」
母も気づいたようだ。
「そう。あたしのバイト先の副社長だったの」
母は絶句した。そりゃそうだろう。こんな事実、いきなり突きつけられても状況がよく分からない。
「それでね・・・・・。今日あたし・・・・爽一郎さんに・・・・『結婚を前提にお付き合いしてください』って・・・・・申し込まれたの」
母はその言葉に食いついてくる。
「それでっ!あんたは何て返事したの?」
母の勢いに押され、莉緒は躊躇した。
「あの・・・・・『喜んで』って・・・・」
勝手に返事して怒られないだろうか?と変に不安になる。母はそれを聞くと莉緒の肩をガシッと両手で掴んだ。母の目が怖い・・・・。
「でかしたっ!」
「へ?」
何を言い出したのかよく分からない。
「で?爽一郎さんは?」
「い、今・・・・・下の車の中で待ってる・・・・・」
「よしっ!」
何が『よし』なのかよく分からないが、とりあえず母は怒っていないようだった。
「お母さん、爽一郎さんがね、お母さんも一緒に食事しようって。だから・・・・」
「まぁ」
今まで見たことないような笑顔になる。
「じゃあ、お母さん着替えてくるわねっ」
鼻歌交じりで母が着替えに行くのを、莉緒はただ呆然と見ていた。

準備が終わった母を連れて、莉緒は爽一郎の元へ戻った。それに気づいた爽一郎が車から出て、母に頭を下げる。母はというと、何故か楽しそうに同じように頭を下げる。
「話は莉緒から聞きました」
「そうですか・・・・。ここではなんなので、場所を変えましょう。どうぞ」
爽一郎は二人の前の後部座席のドアを開けた。莉緒は母と一緒に後部座席に座る。
車内は妙な沈黙が支配していた。爽一郎も少し緊張しているようだ。莉緒も妙に緊張する。母だけは何だか楽しそうに見える。
(お母さん・・・・何考えてるんだろ・・・・・)
母親ってこんな気楽なもんなんだろうか?普通十六の娘が婚約したなんて聞いたら、卒倒するくらいのショックとか受けるもんじゃないのか?
いや、待て。母は世間一般の母親とどこか違う。
莉緒は隣に座っている母を盗み見た。やっぱりどこか楽しそうな嬉しそうなオーラが出ている。
(変なこと言わなきゃいいんだけど・・・・・)
莉緒は妙な不安に襲われた。

着いた店は今まで来た事がないような高級レストランだった。
「さぁ、どうぞ」
爽一郎は慣れた様子で店に足を踏み入れ、二人を招いた。
「いらっしゃいませ。桐谷様」
(顔パス・・・・・)
莉緒はドラマのような光景に驚いた。ボーイが席まで案内する。椅子まで引いてもらい、莉緒は夢の中にいるような気分になった。
「食べたいものを頼んで」
爽一郎はメニューを見ながらそう言った。
メニューには見たこともないような料理名が書かれていた。何を頼めばいいのか、本気で悩む。
「あの・・・何でもいいです・・・・」
思わずそう言ってしまう。
「食べたいものないの?」
「何が何だか・・・」
料理名から判断できない。
「じゃあ・・・いつものでいいかな」
いつも何を食べているんだろう?
爽一郎はボーイに「いつものを」と頼むと、すぐにワインが運ばれてきた。
「あ・・・・莉緒ちゃん飲めないよね」
未成年だと気づいた爽一郎は、莉緒のためにソフトドリンクを注文した。
「ワインはお好きですか?」
爽一郎は母に顔を向けた。
「ええ。とっても。でもワインなんてホント安いものしか飲んだことがなくて・・・・・」
そう言えば母は結構酒豪だった。大丈夫だろうか?母が飲みすぎたりしないだろうか?と妙に心配になってくる。
ワインを飲んで更に上機嫌になってくる。
「あの・・・・・」
爽一郎はワインを一口だけ飲み、母に向き直った。
「莉緒さんから話は聞いてるとは思いますが・・・」
急に真剣な顔つきになり、莉緒も妙に緊張が走る。
「莉緒さんと・・・・・結婚を前提にお付き合いさせてください」
爽一郎は頭を下げた。母はワイングラスを置き、同じように頭を下げた。
「ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします」
「・・・お母さん・・・」
意外な展開に莉緒は驚いた。
「この子には苦労させてばかりで・・・・・。せめて好きな人と付き合ったり、結婚させてあげたいって・・・・」
「ありがとうございます」
爽一郎は再び頭を下げた。
「あの・・・・それから・・・・もう一つ。これは、私の母からの提案なんですが・・・・」
爽一郎は店の入り口の方へ目をやった。
「あー・・・・ちょうど母が来ました」
爽一郎はそう言って立ち上がり、母を出迎えた。莉緒の母、明子は爽一郎の母を見て驚いた。ガタッと立ち上がる。
「洋子っ!」
「お久しぶり。明子」
「何で・・・・」
「何でって何よ?」
「だって・・・」
明子はパニックになっているように見えた。
「お母さん、落ち着いて」
莉緒が諭し、一度座らせる。
「あのね、入院してた時にお母さんの友達らしき人がお見舞いに来たって言ったでしょ?」
「あぁ、名前聞くの忘れたって・・・・」
「そう。その人がね、爽一郎さんのお母さんだったの」
莉緒の言葉に返事はしなかった。少し沈黙し、落ち着いた明子が口を開く。
「そう・・・。やっぱり洋子だったのね・・・・。まさかとは思ったけど・・・・」
「え?お母さん、分かってたの?」
「何となくよ。莉緒が言った特徴とか考えたら、洋子しかいなかったの。でも・・・・洋子とはホント何十年も連絡取れてなかったから・・・・。」
「明子。あのね、あなたたちが抱えている借金、全額こっちが持つわ」
「え?」
一瞬、洋子が何を言っているのか分からなかった。
「ちょっと待って。何で?」
明子は洋子に食いかかる勢いで聞いた。
「そうしたいと思ったからよ。二人とも本来背負わなくていい借金じゃない」
「そうだけど・・・・・。でも、うちの旦那が作った借金だし・・・・・」
明子は莉緒を見やった。
「言い方悪いけど、借金作って逃げちゃったんでしょ?」
洋子の問いに明子は頷いた。
「ごめんね。真由に全部聞いたのよ。」
明子は黙り込んだ。そうこうしているうちに料理が運ばれてくる。
「とりあえず、料理、食べましょう?」
爽一郎の提案で、料理を食べることにした。

料理を食べている間も、明子は何かを考えているようだった。
「これ、おいしいね。お母さん」
「えぇ・・・・」
話しかけてもこんな感じで、上の空だった。

食べ終わってから口火を切ったのは、洋子だった。
「明子。よかったら少しお話しない?」
「えぇ、そうね」
「爽一郎さんは莉緒ちゃんをきちんと送り届けるのよ」
「分かってます」
洋子と明子は、先に店を出た。
「行こうか」
「はい」
爽一郎について、莉緒も店を出た。

洋子と明子は運転手付の車の後部座席に隣同士で乗った。しばらくは沈黙が続く。沈黙を破ったのは明子だった。
「いつから・・・・知ってたの?」
「真由が莉緒ちゃんと仲良くなってからかな」
「だとしても・・・・どうしてあたしだって?」
「真由にね、色々相談受けてたのよ。爽一郎が莉緒ちゃんと会ってることを真由は知ってたし・・・・・莉緒ちゃんにどう説明したらいいだろうって。それで悪いとは思ったんだけど、莉緒ちゃんのこと色々調べさせてもらったの。そしたら母親が明子だって分かって・・・・」
「だとしても・・・・どうしてすぐに言わなかったの?」
「言えないじゃない。あんな別れ方したら・・・・」
明子は洋子の言葉に唇を噛んだ。

「莉緒ちゃん?」
爽一郎に顔を覗かれ、莉緒は驚いて顔を上げた。
「どうかした?」
「・・・・お母さん、大丈夫かなって・・・・」
こんなことを言うのは変だと思いながら、言葉が見つからずにそう言ってしまう。
「莉緒ちゃんのお母さんとうちの母が知り合いだったとはね・・・・」
爽一郎の言葉に頷く。特に莉緒にとって今日はいろんなことがありすぎて、頭がこんがらがりそうだった。
真由と爽一郎が兄妹で、しかも爽一郎は自分のバイト先の副社長で、更には好意を持ってくれてて、こうして付き合うことになって……。
不思議で、現実味がなくて、夢でも見ているのかと錯覚する。
「莉緒ちゃん?」
爽一郎は再び莉緒の顔を覗き込んだ。
「疲れた?」
「あー・・・いえ。何て言うか・・・色々ありすぎて・・・・。夢だったのかなぁって・・・・」
そう言うと、突然爽一郎に抱きしめられた。
「え?え??」
困惑する莉緒。
「これでもまだ夢だって思う?」
頭上に響く低い声で、莉緒の体温は一気に上昇した。どうリアクションしたらいいのか、分からない。
「なーんてね」
爽一郎はそう言って莉緒から離れた。
「か、からかわないでください!」
辛うじて言葉にやっと言葉にできたのが、これだった。莉緒の言葉に爽一郎は苦笑した。
「からかったつもりはないんだけどね」
優しく微笑む彼から、莉緒は思わず目をそらした。
「それにしても・・・・母は一体どうするつもりなんだろう・・・・・」
爽一郎は溜息をついた。それは莉緒にもよく分からなかった。莉緒の母と知り合いだったことも驚いたが、借金を全額支払ってくれると言うのはどういうことだろう?やはり莉緒の母と知り合いだからだろうか?
「昔からあの人のやることはよく分からないんだよね」
爽一郎は苦笑するしかなかった。莉緒も愛想笑いを浮かべた。
どう会話を発展させたらいいのか分からない。今までどうやって話してた?どんな話してた?全く思い出せない。
「莉緒ちゃん」
呼ばれ、顔を上げる。
「ドライブする?」
その言葉に莉緒は頷いた。


忘れもしない。あれはもう二十年以上も前のことだが、未だにはっきりと覚えている。
当時高校生だった明子は、一人の男性に告白した。しかし振られてしまった。『好きな人がいる』と。その相手は自分の幼馴染で親友の洋子だということも知った。
ショックではあったが、彼女には敵わないという思いがあり、あっさり諦めた。
それからしばらくして彼は洋子に告白したらしく、付き合い始めた。明子は複雑だった。彼が幸せならそれでいいと思っていたが、洋子には今までのようには接すことができなくなった。明子が彼に告白したことを知らなかった洋子は、普通に接していたが、素っ気ない態度ばかりを取っていた。
そして数日後、洋子は別の友人から明子が彼に告白して振られたと知らされる。洋子も素っ気ない態度の明子から離れていってしまった。
自慢の親友だったはずなのに・・・・。後悔したが、遅かった。高校卒業が迫っていたのだ。明子は就職、洋子は進学。
仲直りしようとは思っていたものの、どう言い出せばいいのか分からなかった。

そしてお互い何も言えないまま卒業を迎える。
明子は数年後、同じ会社で働く同僚と結婚。洋子は・・・・・連絡が途絶えたままだった。

その彼女が今、目の前にいる。信じられなかった。しかも桐谷和菓子屋の社長夫人で、今明子が背負っている借金を肩代わりすると言う。
嬉しいが素直に喜べない。洋子の前で醜態を晒しているような気分になる。
どうして彼女はいつも自分の前にいるんだろう。・・・・違う。自分が後ろを歩いてるんだ。

「明子?」
洋子に顔を覗き込まれ、明子は我に返った。
「どうかした?」
その問いに、明子は首を横に振った。そして口を開く。
「・・・・不思議よね。こんな風に会うなんて」
「・・・・そうね。」
「驚いたわよ。社長夫人なんて」
明子がそう言うと、洋子は苦笑した。
「一番信じられないのは、私よ」
洋子の言葉に、明子は顔を上げた。
「そう言えば、木田君とは・・・・?」
木田とは、明子が高校時代に告白し振った同級生。高校時代、洋子が付き合っていた男性である。
洋子は明子を少しだけ見て、目をそらした。
「大学に入ってからね、向こうに好きな人ができて別れたの」
「え?」
明子は思わず顔をしかめた。
「入って二ヶ月かな。向こうに気持ちがなくなったんだから、追っても無理だと思って別れたの」
「・・・・そうだったんだ・・・。」
「その時は辛かったけどね。同じ大学で今の旦那に会ったのよ。だからまぁ良かったのかな?」
「そっかぁ」
「そういう明子はどうだったのよ?高校卒業してから・・・・」
「私わね・・・・・」
二十年以上の空白を埋めるには、時間が足りない気がした。いつの間にか二人は、女子高生時代に戻って話をしていた。

「明日学校?」
ハンドルを握り、前方を向いたまま、爽一郎は莉緒に話しかけた。
「あー、はい」
「もうすぐ夏休み?」
「ええ」
「どうかした?」
いつもと違って短い返事をする莉緒に、爽一郎が心配そうに問う。
「・・・・・何か…不思議だなぁって・・・・」
「不思議?」
「何て言うか・・・今日一日、たくさんのことがありすぎて・・・・、こうしてることも・・・・夢みたいで・・・・すごく不思議だなぁって・・・・」
「・・・・確かに今日は莉緒ちゃんにとっても、俺にとってもいろんなことがあったからね」
静かに言う爽一郎の言葉に頷く。
「着いた」
莉緒が顔を上げると、自分の家の前ではなく、少し離れた海の端まで来ていた。
「ちょっとだけ寄り道」
爽一郎は柔らかく微笑み、車を降りた。莉緒も同じく車を降りる。
もうすぐ夏だと言うのに少し肌寒い。薄手の服しか着ていない莉緒は、小さく震えた。それに気づいた爽一郎は着ていた上着を脱ぎ、莉緒の肩にかけた。
「あ、これ・・・・。爽一郎さんが寒いでしょ?」
莉緒は慌てて上着を返そうとすると、優しく微笑み返される。
「大丈夫。莉緒ちゃんは女の子なんだから」
その理由がいまいちよく分からないが、莉緒はありがたく上着を羽織った。爽一郎の温もりが伝わり、妙に安心する。
「夜の海って・・・・・初めてかも」
「そうなの?」
莉緒は頷いた。
「綺麗だけど・・・・何か怖い」
莉緒は自分の腕を抱いた。
「真っ暗な海に吸い込まれて、消えてしまいそう」
莉緒の呟きに、爽一郎は目を見張った。爽一郎の視線に気づいた莉緒が爽一郎を見た。
「どしたの?」
「あ、いや。何でもない」
爽一郎は莉緒から目を背けた。
『夜の海って、吸い込まれて消えてしまいそうな綺麗さよね』
麻子の言葉が蘇る。莉緒とは似ても似つかないのに、何故か二人が重なって見える。
「爽一郎さん?」
莉緒に顔を覗き込まれ、ハッとする。
「大丈夫?顔色、悪いけど」
「何でもないよ。か、帰ろうか」
爽一郎の申し出に、莉緒は頷いた。

車に乗り込んだ爽一郎は、無言でハンドルを握っていた。爽一郎の様子が急におかしくなったと、莉緒は気づいていたものの、何だか踏み込んではいけないような気がしていた。

無言で走り続け、莉緒の家に到着する。
「ありがとうございます」
声をかけると、爽一郎は我に返った。
「あ、ああ。また・・・・メールするよ」
「はい」
会話が続かない。莉緒はシートベルトを外し、助手席のドアを開けた。そしてもう一度爽一郎の方へ向く。
「じゃあ、また」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
車を降り、ドアを閉める。軽く手を振ると、爽一郎は車を出した。莉緒は複雑な思いで見送った。

爽一郎は車を走らせながら、脳裏に焼きついたシーンを取っ払おうとしていた。
どうして今頃になって麻子が・・・・。
幸せになろうとするのを、許してはくれないのだろうか?
いや、麻子がそんなことをするわけない。ただ・・・・未だに消えない罪悪感がそうさせるのだろうか?
「麻子・・・・・」
名前を呟くと、何故か涙が零れた。


桐谷家長男の婚約は地元の話題をかっさらっていた。花嫁レース自体がニュースになっているので、必然的に婚約もニュースになるのだった。
ただ一つ救いなのは、洋子の計らいで婚約者が伏せられていることだった。そのおかげで莉緒は普段通りに生活できた。

そして婚約が決まって数週間後。莉緒は夏休みに入った。そして洋子の計らいで、莉緒と明子は桐谷家で住むことになった。
今までのボロアパートから、広いお屋敷に移った鈴原親子は、あまりのギャップに終始戸惑っていた。しかし明子は洋子と友情を取り戻し、莉緒も真由や爽一郎と暮らすことができて、幸せを感じていた。
莉緒の部屋は爽一郎の部屋の隣が割り当てられ、逆隣は真由の部屋だった。

「莉緒もあたしと同じ学校に来たらいいのに」
莉緒の部屋にやって来た真由が呟く。
「真由ちゃんとこ、お嬢様学校でしょ?あたしなんか場違いじゃない」
部屋に運ばれたダンボールを整理しながら、答える。
「そんなことないよ」
莉緒のベッドの上でくつろぐ真由が言い返すが、莉緒は穏やかに断る。
「あたしね、今こうしてるだけでも幸せなの。そりゃ真由ちゃんと同じ学校なら楽しいだろうけど、今の学校にもたくさん友達が居て、皆大好きなんだ。あと一年半もすれば卒業で、皆とはきっと今みたいに会えなくなっちゃう。だから・・・・・」
「分かったよ。ごめんね。ワガママ言って。・・・・そうよね。莉緒には莉緒の友達がいるし。それにこうして莉緒と住めるだけでも十分なんだよね」
真由の言葉に、莉緒は笑顔で頷いた。

莉緒はあの日から気にかかることがあった。
爽一郎の様子がおかしいのだ。本人はいたって普通を装っているが、どことなく遠くを見ている気がする。時々上の空になるのが、莉緒の不安を駆り立てた。
「爽一郎さん?」                                                     
顔を覗き込むと、爽一郎は我に返った。
「ん?何?」
「ずっと・・・・ボーッとしてるけど、大丈夫?」
そう問うと、爽一郎はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ」
そう言われると、何も言えなくなってしまう。
「コーヒー・・・・淹れようか?」
「よろしく」
莉緒は笑顔で頷き、キッチンの方へ回った。
気になるけど、聞けない。勇気が出ない。ただ臆病なだけなんだと自分でも分かってる。だけど触れてはいけないような気がしてならなかった。
コーヒーメーカーをセットし、その間に昼間作ったクッキーを皿に盛り付ける。
対面キッチンからリビングに居る爽一郎を見やる。机の上に広がっている書類は持ち帰った仕事だろう。最近また忙しくなったようだ。心なしか顔色も悪い。何もしてあげられない自分が情けなくなる。
莉緒が仕事を手伝えるわけもないので、こうしてコーヒーを淹れたりすることしかできない。
コーヒーが入ると、莉緒はカップに注ぎ、クッキーの皿と一緒に爽一郎のところへ運んだ。
「ありがと」
仕事モードに入っていた爽一郎が顔を上げ、微笑む。いつもと変わらぬ優しい笑顔に、心なしかホッとする。
「仕事・・・・忙しい?」
莉緒は隣に座り、爽一郎はコーヒーを口に運んだ。
「そうだね、今ちょっと立て込んでるかな。」
「無理、しないでね」
「ありがと」
「これ、今日真由ちゃんと焼いたの。あんまり甘くないから、食べて」
「うまそうだな。いただきます」
莉緒が勧めるクッキーに手を伸ばして食べる。
「あ、うまい」
「よかった」
「ごめんな」
「え?」
突然謝られ、莉緒は驚いた。
「せっかくこの家で一緒に住めるようになったのに、俺ほとんど仕事でさ」
「ううん」
莉緒は首を振った。
「こうやって少しの時間でも話せて嬉しいから。あたしこそ・・・・・何もできなくて・・・・」
「そんなことないよ」
爽一郎は莉緒の頭をポンポンと優しく叩いた。
「莉緒ちゃんのコーヒー美味しいし、このクッキーだって美味しい。疲れも癒えるよ」
そう言われると、何だか恥ずかしい。
「あー、そうだ」
何かを思い出したのか、爽一郎は話を切り替えた。
「莉緒ちゃん、いつまでバイトする?」
借金返済した今、莉緒や明子は無理に働かなくてもよくなったのだった。
「あ・・・・一応、コンビニと喫茶店は夏休み終わるまでにしたの」
「そっか。店の方は?莉緒ちゃんがやりたいなら、今までどおりやってもらってもいいけど」
「ホント?」
「うん。莉緒ちゃん居てくれた方が助かるんだ。莉緒ちゃんが入ってる日って妙に売上げいいしね」
爽一郎が冗談っぽく笑う。
「えー?ホントに?」
莉緒も思わず笑ってしまう。爽一郎はうんうんと頷いた。
「じゃあ・・・・まぁとりあえず、卒業まではバイト続ける?」
「うん」
「よし。あ、店のヤツらには卒業まで婚約したことは内緒だから、安心していいよ」
「うん。ありがと」
いつの間にか、普段通りの爽一郎に戻っていたので、莉緒は安心した。

莉緒が自室へ戻った後、一人になった爽一郎はかけていた眼鏡を外した。仕事時のみ着用しているもので、麻子がプレゼントしてくれたものだった。
『爽一郎はこういうのが似合うと思って』
麻子の声がよみがえる。
(こんなものしてるから、忘れられないのか・・・・・)
普段の爽一郎はコンタクトなので、眼鏡をするのは本当に極稀だった。
日に日によみがえる記憶が、爽一郎を苦しめ続けた。
「麻子・・・・・ごめん・・・・ごめん」
爽一郎は壊れたように繰り返し呟いた。

爽一郎は何も話してはくれなかった。
(あたしじゃ頼りないのかな・・・・)
莉緒は日に日に元気がなくなる爽一郎が心配だった。だけど何も言ってくれないし、聞こうとしても必ずはぐらかされた。
柔らかい笑顔が痛々しく見えた。
(そう言えば、爽一郎さんのこと、知ってるようで知らないんだよね。)
お互いの今の話はしても、過去の話なんてしたことがない気がする。
(もしかして過去に何かが・・・・・)
そう考えていて、ふと思い出した。あれは父に裏切られて辛いって話をしたとき。莉緒の涙を受け止めてくれたあの日、爽一郎は呟いた。
『大切な人が突然居なくなるって、どんな状況でも辛いよね』
「大切な・・・・・人・・・」
それが誰なのかは分からない。だけど確実に爽一郎の心に傷を負わせている気がする。あの時には分からなかった爽一郎の心の闇。最近元気がなくなっているのはそのせいなのだろうか?
「・・・・・分かんないや」
莉緒はベッドに寝転がった。
真由や修二郎に聞けば、何か分かるだろうか?
そう考えて、莉緒は首を振った。
それじゃあ意味がない。ちゃんと爽一郎の口から聞かなければ、何の意味もない。これでもれっきとした『婚約者』なのだから。
(・・・・婚約者・・・・)
未だに実感が沸かず、莉緒の頬は赤くなった。
(いい加減、慣れないと)
それも変な話なのだが、男性と付き合ったこともない莉緒にとって、婚約は大きな影響があった。
(いや、それより・・・・・)
あやうく考えが違う方へ行きそうになり、莉緒は思考を元に戻した。
(とにかく、爽一郎さんには元気になってもらわないとだな)
「よし」
莉緒はある決意をした。

翌朝、爽一郎はいつものように着替えや支度を済ませ、リビングへやって来た。そこに来て一番に驚いたもの。それは朝食だった。いつも洋食な爽一郎の目の前に置かれたのは、思い切り和食だった。
「これは・・・・・一体・・・・」
驚き入ってると、莉緒がご飯と味噌汁をお盆の上に乗せ、やって来た。
「おはよう」
「お、おはよう。」
動揺している爽一郎は、莉緒に尋ねた。
「これは・・・・?」
「今日はあたしが作ったの。たまには和食もいいかなぁって」
「それはいいけど・・・・・」
『どういう心境の変化?』とは何だか聞けなかった。
「それにね、お弁当も作ったの。これ、会社に持ってって食べてね」
莉緒の笑顔には勝てない。
「あぁ。ありがとう」
ちょっと強引だとは思ったが、莉緒はお弁当を手渡した。

爽一郎が和食を食べているところを見て一番驚いたのは、母洋子だった。本人に聞いてもきっとはぐらかされるので、莉緒を呼び止めた。
「莉緒ちゃん。爽一郎、和食嫌いって知ってた?」
「ええ。知ってましたよ」
「でもあの子嫌な顔せずに食べてるけど・・・」
「あぁ・・・・。実は・・・・」
莉緒は最初の弁当を食べてもらったときの話をした。あの時、爽一郎の好きなものや嫌いなものを知らずに作り、せっかく作ったのだからと食べてくれたのだった。
「そうだったの。でも良かった
「え?」
「あの子、私のせいで和食が嫌いになったのよ。だから責任感じちゃって・・・・・。でも安心したわ」
洋子の笑顔に、莉緒も笑顔になった。

修二郎は何となく気づいていた。兄、爽一郎の心の闇に。莉緒が知らない爽一郎の過去。
莉緒が心配しているのも傍から見ている分、よく分かる。それに気づく余裕すらない兄。本当は気づいているのかもしれないが、いつもはぐらかしている。それじゃあ何の解決にもなっていない。
一度ガツンと言ってやりたい。
修二郎は、兄と話すために会社にまで乗り込んだ。
「兄貴。」
爽一郎は書類を広げた広い机に一人で座っていた。修二郎の声に気づき、顔を上げる。
「珍しいな、お前が会社にまで来るなんて」
まだ大学生でフラフラしている修二郎は、滅多にここには来ない。
「ここなら二人で話せると思ってな」
修二郎は爽一郎の前まで歩み寄った。
「話?何だ?大事な話なのか?」
その問いに修二郎は深く頷いた。爽一郎は仕事をしていた手を止め、立ち上がった。机の前にある応接用のソファに座り、修二郎にも座るように促した。
「で?何だ?話って」
「直球で言うよ」
修二郎は椅子に座り、爽一郎を見据えた。
「兄貴、麻子のこと莉緒ちゃんに言ってないのか?」
その問いに驚き、爽一郎は目を丸くした。そして目線をそらし、頷いた。
「あぁ。言ってない」
「何で言わないんだ?」
「言う必要がない」
「言う必要がないって・・・・」
爽一郎の言い草に修二郎は少しイラッとしたが、言葉を飲み込む。
「兄貴は、莉緒ちゃんが心配してるって分かってるんだろ?」
「分かってる」
「だったら・・・・」
「言って何になる?余計心配させるだけじゃないか」
兄の考え方も分かる。だけど……。修二郎は拳を握った。落ち着け、と心の中で深呼吸する。
「兄貴は、麻子のことが忘れられないのか?」
少しの沈黙が訪れる。
「最近、よく思い出すんだ。麻子のこと」
爽一郎の思わぬ言葉に、修二郎は言葉を失った。
「どうしてだろうな・・・・。俺が幸せになろうとしてるのが許せないんだろうか?」
「違う。麻子はそんなことしない!」
修二郎は思わず立ち上がった。
「分かってるよ。だけど、思うんだ。俺だけが幸せになっていいんだろうかって」
「兄貴・・・・」
いつになく寂しげな微笑を見せる爽一郎に、修二郎はなす術がない気がした。
「でも・・・・でも、兄貴がそうやって逃げてたら、今度は莉緒ちゃんまで失うかもしれないんだぞ?」
修二郎の言葉に、爽一郎は少し心が揺らいだ。
「でも、今は話す勇気が出ないよ」
爽一郎の言葉が空しく響いた。

莉緒は相変わらず爽一郎のために腕を振るった。相変わらず無理やりに弁当を持たせた。
莉緒としては、爽一郎を信じるしかなかった。彼が『何でもない』と言うのだから、大丈夫なんだと思い込むことにした。

傍から見ている修二郎は、そんな莉緒が健気過ぎてかわいそうに見えた。兄は何を考えているのだろう?莉緒にあんな寂しそうな笑顔をさせるなんて。
でもこれ以上自分がしゃしゃり出ても効果はないと思っていた。修二郎は事の成り行きを見守ろうと決意した。

莉緒の想いが通じたのか、しばらくすると爽一郎も気持ちが安定してきた。麻子のことを全く思い出さなくなった訳ではないが、思い出す回数は減ったと思う。
「莉緒ちゃん」
爽一郎に呼ばれ、振り返る。
「おかえりなさい」
「はい。お弁当ありがとう。おいしかったよ」
空の弁当箱を莉緒に渡すと、嬉しそうに受け取った。
「よかった。明日は何がいい?」
「何でもいいよ」
「もー、いっつもそれじゃない」
莉緒が苦笑する。爽一郎は莉緒の笑顔が急に愛しくなった。
「莉緒ちゃん」
「え?」
突然抱き寄せられ、莉緒はびっくりした。顔が真っ赤になるのは、鏡を見なくても分かる。
「そ、爽一郎さんっ」
「ちょっとだけ」
耳元で囁かれ、莉緒は大人しくなった。
(急にどうしたんだろ?)
そうは思っても口には出さなかった。
しばらく抱きしめた爽一郎は、莉緒からゆっくり離れた。
「急にごめん。もう・・・・・大丈夫だから。心配かけてごめん」
爽一郎の言葉に、莉緒は横に首を振った。
「よかった」
莉緒は満面の笑みを浮かべた。


こんな幸せがずっと続くのだと、莉緒は信じて疑わなかった。


別れは突然やって来ることを、誰も予想しなかった。