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ACT 3  a bride of June
あっという間に六月に突入するが、莉緒は相変わらず爽一に弁当を作り、爽一も会いに来る時間をなるべく取った。傍から見れば恋人同士なのだが、本人たちにそんな意識はないようだ。

「鈴原。あの彼氏とは上手くいってるみたいだね」
コンビニの店長がコソコソと近寄ってきてポツリと呟いた。
「なっ。か、彼氏じゃないです!」
商品を陳列していた莉緒は、商品をブンブン振って否定した。
「鈴原。商品は振らないで・・」
「あ、ごめんなさい」
莉緒は持っていた商品を陳列した。
「でもさ。毎回迎えに来てるじゃん?向こうは気があるんじゃないの?」
「・・それは・・ないと思いますよ」
「なんで?」
「何でも・・です」
莉緒はそう思い込もうとしていたのかもしれない。何かを悟った店長はそれ以上茶化さなかった。
「・・時間が解決してくれるよ」
莉緒の頭をポンと優しく叩くと、店長はレジの方へ戻っていった。
(時間が経っても癒えない傷ってあるんじゃないの・・?)
ふとそんな想いが過ぎる。莉緒は考えを振り払うように頭を振った。
(こんなんじゃダメだ)
よく分かってるはずなのに、後ろ向きになってしまう。
例えばもし、今父親が帰ってきたとしても、自分は父親を許せるんだろうか?
きっと絶対許せない。母が病気になったのだって、父のせいだとさえ思える。気苦労が絶えないから、無理して体を休めることをしないから・・。
「鈴原。上がりだよ〜」
「あ、はい」

バイトを上がった莉緒はいつもどおり裏口から出た。今日は爽一も真由も居ない。すっかり暗くなってしまった道を、ぼんやりと街灯が照らす。所々に深夜まで営業しているお店の明かりが漏れている。
「はぁ・・」
意味もなく溜息が漏れる。一人になると、妙に疲労感が襲ってくる。もう一年ほどこんな生活を送っている。慣れてきたとはいえ、やっぱり疲れる。
その時、携帯電話が鳴った。一瞬驚いて莉緒は慌てて携帯電話を取り出した。着信はもちろん爽一。メールではなく電話だと気づき、慌てて出る。
「も、もしもし」
『あ、莉緒ちゃん?今どの辺?』
「えっと・・」
辺りを見回し、分かりやすい目印を探す。
「あー・・ファミレスの近くです」
帰り道に一軒だけあるファミリーレストランを挙げる。
『じゃあ、そのお店の前に居てくれる?』
「あ、はい」
爽一はそう言うと電話を切った。莉緒は言われた通りレストランの前に立って待っていた。
今日は来られないと言ってたのに、急に来れるようになったんだろうか?

数分後、爽一が車に乗って現れた。今日は運転手付ではなく、自分で運転している。珍しいと思いつつも、莉緒は車に近づいた。爽一も車から降り、莉緒に近づいた。
「今日は車で送るよ。乗って」
「あ、はい」
爽一が助手席のドアを開け、莉緒を車に乗せる。ドアを閉めると、爽一は運転席側へ回った。自分も車に乗り込み、シートベルトを締めた。それにつられ、莉緒もシートベルトを締める。
爽一は慣れた手つきでギアを入れ替え、アクセルを踏んだ。

走り出した車の中で、莉緒は何だか違和感があることに気づいた。ふと爽一の顔を見る。いつもと変わらない・・気はする。けど・・何処かが違う。
「あの・・お仕事だったんじゃないんですか?」
とりあえず会話を切り出す。
「あー・・少し抜けてきたんだ」
そこで会話が途切れる。いつもなら、もう少し続く会話が続かない。やっぱり変だ。
「爽一さん・・何かあったんですか?」
「え?」
莉緒に突然聞かれ、爽一は驚いた。
「あー・・いや。何でもないよ」
爽一は否定した。しばらく沈黙が流れる。
家の前に着き、車を止める。
「莉緒ちゃん」
爽一がやっと口を開く。
「実は・・」
そう言いかけた時、携帯が鳴る。
「・・ごめん」
爽一は律儀に電話に出た。
「もしもし」
莉緒は電話中は手持ち無沙汰になるが、なるべく会話は聞かないようにしていた。だけど、車の中と言うこともあり、勝手に耳に入ってくる。話してる口ぶりから、家族のようだ。
「・・・知らないよ。・・真由に聞いてみれば?」
(え?)
莉緒は思わず爽一の顔を見た。今確かに『真由』と聞こえた。そんな偶然ってあるんだろうか?
「ごめん」
「あ・・いえ」
爽一はいつの間にか電話を切っていた。
「あ・・で、何ですか?改まって」
さっき言いかけていたことが気になり、莉緒は聞いてみた。
「あー・・実はね・・」
そう言いかけた時、タイミングを計ったかのようにまた電話が鳴った。
「・・・」
爽一は着信を確かめた。
「ごめん」
出なきゃいけない電話のようで、爽一は一言断ってからまた電話に出た。
(忙しい人だなぁ・・)
ぼんやりとそんなことを思ってしまう。自分が爽一との携帯しか持っていないので、他の人からかかってくることがないと言えばそうなのだが、携帯を持つと便利なようで不便だと実感する。
今度はどうやら会社からのようだった。こんな遅くまで毎日仕事して、皆疲れないのかな?なんて思ってしまう。
「分かった。すぐ戻る」
爽一は電話を切り、莉緒の方へ向いた。
「ごめん。会社に戻らなきゃいけなくなって・・」
「あー。いえ。大変ですね」
そう言うと爽一は曖昧に笑った。
「さっき言いかけたのは・・?」
気になって莉緒は聞いてみた。
「あー・・やっぱいいや。気にしないで」
「はぁ・・」
爽一は笑顔でごまかしたが、明らかにおかしかった。気にはなったが、会社に戻らなきゃいけないようなのでさっさと車を降りる。
「じゃあ・・また」
「おやすみなさい」
挨拶も程ほどに爽一は去って行った。

結局何の用事だったのか、さっぱり分からないが、初めて車を運転する爽一を見た。
(横顔・・綺麗だったな・・)
お風呂上りに服を着ながら、ぼんやりそんなことを思う。自分が何を考えているのかに気づいて、莉緒は慌てて頭を振った。
(違う違う。そうじゃなくて・・)
じゃあどうなんだ?と自問自答が繰り返される。
「・・・」
好きになんてならない。爽一はいい人で、尊敬はしてるけど・・。
莉緒は自分のほっぺたを両手でパンパンと叩いた。
「いてて・・」
少し強く叩きすぎた。洗面台の鏡に映る自分を見る。本当ならもっとおしゃれを楽しんでる年齢なのに・・。
「ダメダメ。こんなんじゃ」
莉緒はまた頭を振った。
「何がダメなの?」
「え?」
突然現れた母に驚く。莉緒は慌ててごまかした。
「何でもないよ」
「そお?」
「うん。あー、お風呂お先。部屋行ってるね」
「うん」

部屋に戻り、ベッドの上の座る。髪をタオルで乾かしながら、明日の予定を確認する。
「明日は学校休みだから、一日バイトっと」
商店街でタダでもらったカレンダーに書いてある予定をチェックする。本当はカワイイ動物の写真のカレンダーがよかったのに・・。愚痴りだしたらキリがないが、早くこんな生活から解放されたかった。女子高生なのに、妙に貧乏性になってしまった。それもこれもあのヘタレオヤジのせいだ。
「絶対許さない・・」
何かを決意するように堅くそう思う。許せるはずがない。家族にこんな生活を押し付けて一人だけ逃げたあの父を。

髪を乾かし終わり、莉緒はタオルを洗濯機の方へ持っていこうと自室を出た。ふと通った母の部屋の戸が少しだけ開いていた。莉緒は何となく部屋を覗いた。
小さな和室の真ん中に布団が敷いてある。その脇に母が座っていた。少し壁の方へ向いているので顔はよく見えない。手に何か持っていた。
(写真・・?)
よーーく目を凝らして見てみるが、よく分からない。でも恐らく家族の写真ではないかと思う。
(お母さん・・)
何となくだが、泣いているのかもしれない。莉緒は覗くのをやめた。
母はまだ父のことを待っているんだろうか?帰ってきたら許すんだろうか?
いくらヘタレでも父のことは愛していただろうし、そんな簡単に嫌いになったりしないのだろうか?
莉緒自身、複雑な思いに駆られる。
タオルを置いて莉緒は自室に戻り、ベッドに倒れこんだ。頭の中はパンクしそうだった。いろんな思いが絡んでくる。
「はぁ・・」
大きな溜息が思わず出る。
(明日考えよう・・)
疲れも手伝ってか、すぐに眠りに就いた。

翌日。お休みの日は一日中バイトである。今日は和菓子屋でのバイトが入っていた。
しかしその予定は、呆気なく崩されるのである。

莉緒が店に入ろうとした瞬間、何者かに腕を捕まれた。慌ててその人物を確かめようとする。
「真由ちゃん?」
すごい形相でこっちを見ている。
「ど・・どうしたの?」
「いいから来て」
「え?」
そう言いながら、真由は莉緒を引っ張った。
「ちょっと!真由ちゃん!あたし、バイト・・」
「それは大丈夫だからっ!」
何が大丈夫なのかよく分からない。
「大丈夫って何?どこ行くの?」
「着いてから説明する。乗って」
莉緒は半ば強制的に車に乗せられた。隣に乗った真由を横目で見てみるが、いつになく真剣な表情をしていた。
バイトは・・修二郎か誰かが何とかしてくれているんだろうか?気になったが、何となく聞ける雰囲気ではなかった。
これからどこへ連れて行かれるのかさえ、全く予想が尽かない。莉緒は窓の外を見ながら、予想をしようとするが、車はどんどん莉緒の知っている道から外れて行った。

車がようやくブレーキを踏んだ。
「降りて」
真由が先に降り、莉緒を急かした。
「ここは?」
「あたしの家」
「え・・」
真由の言葉に凍り付いた。その家は豪邸と言うにふさわしく、莉緒からは考えられないほどの敷地面積の中に大きなお屋敷が立っていた。と言っても洋風と言うわけではなく、とても年代物の和風建築だった。
「何してんの?莉緒、こっち」
真由はさっさと先を歩いて行った。莉緒ははぐれないように真由の背中を追いかけた。

お屋敷の中には、当たり前のようにお手伝いさんがいた。玄関でお嬢様とそのご友人を出迎える。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「清水さん、お父様たちは?」
「はい。先ほど別荘の方へ向かわれました」
「そう」
真由はそう聞くと、数秒考えた。
「莉緒、こっち来て。」
「え?あ、うん」
莉緒は再び真由について歩いた。
家の中は、とても古く歴史の重みがあった。長い廊下が延々と続いている。移動距離だけで疲れそうだ。
しばらく歩くと、真由が立ち止まった。
「ここよ」
そう言われ、莉緒は真由が指差す部屋に顔を向けた。引き戸が閉まっていて、何の部屋なのかはさっぱり分からない。
「ここ?」
「そう」
真由は短く頷くと、部屋の戸を開けた。その瞬間、目に飛び込んできた光景に莉緒は驚いた。
「す・・ご・・」
それしか言葉が出てこない。そこに一軒のお店が収まっているかのように、洋服が並べられていた。真由は当たり前のように、ずかずかと部屋の中に入った。ちなみに内装は洋風になっていて、その部屋だけ明らかな違和感があった。
「うーん。どれがいいかしらねぇ」
「ま・・真由ちゃん。・・これは一体・・。」
「あたしの服よ」
あっさりと答えが返ってくる。
「ええ!」
「ここともう一部屋あるわ」
「・・・」
莉緒は絶句した。でもまぁ確かに、一度にあんなに洋服を大量に買っていたんであれば、それくらいあっても常識かもしれない。
「莉緒に怒られてからは買ってないわよ」
付け足すように言う。やっぱり気にしてたんだ。
「何してんのよ。早くこっち入ってきなさいよ」
真由は莉緒を急かした。莉緒はお店に入るような感覚に襲われながら、部屋に一歩を踏み入れた。
「ねぇ・・何が始まるの?」
「莉緒をお嬢様に仕立て上げるの」
「え?」
とんでもない台詞が耳に入り、莉緒は思わず聞き返した。
「お嬢様に仕立て上げるって・・?」
「そのままの意味よ」
真由は答えながら、選んだ服を莉緒にあてがっている。
「いや、だから何であたしをお嬢様に・・?」
「それは向こうに着いたら分かるわ。早くしないと、始まっちゃう」
「え?何が?」
莉緒は聞いたが、真由は聞こえていない様子だった。洋服選びに必死になっている。
「うーん。これでいっかぁ」
何度か服をあてがってみて、真由はやっと服を選んだ。
「これに着替えて」
「え?」
「早く。こっちで着替えたらいいから」
試着室のように部屋が仕切ってある。真由は莉緒と洋服を押し込むと無理やりカーテンを閉めた。何が何だかさっぱり分からないが、とりあえず言われた通りに服を着替えることにする。
「ねぇ・・真由ちゃん」
莉緒はカーテン越しに話しかけた。
「ん?」
すぐに返事が返ってくる。
「その場所に行けば・・真由ちゃんの正体とか・・・全部教えてくれるの?」
そう問うと、少しの間が空いた。
「うん。教える」
真由は短く答えた。着替え終わった莉緒はカーテンを開けた。
「靴はこれね。行きましょ」
莉緒は何かを決意し、真由に従った。

車内は無言だった。お互いに何かを話そうとは思わなかった。莉緒は真由が一体何者で、何を企んでいるのか、ずっと考えていた。お嬢様であることには間違いない。ただ何故莉緒自身をお嬢様へと仕立て上げようとしているのか、全く分からない。
正体を知ることは、少し怖かった。気になるけど、本当に正体を知ってしまって大丈夫なのだろうか?という気持ちになる。
怖いけど知りたい。複雑な思いが絡み合う。
車は高速に乗っていつの間にか、隣の県にまで来ていた。
「莉緒」
突然は名前を呼ばれ、莉緒は俯いていた顔を上げた。
「何?」
「・・あたしが今までしてきたこと。何が目的だったかって知っても・・驚かないでね」
真由は静かにそう言った。意味深だ。『驚かないで』という言葉が『嫌わないで』にも聞こえる。莉緒はただ頷くしかできなかった。
「うん・・」

高速を降りてしばらく走ると、車は山を登り始めた。一体どこに向かってるんだろう?と莉緒は進行方向へ注意を向けるが、周囲には特に何もなく、ただ山道が続いていた。
「今から行くところは、あたしん家の別荘よ」
「え・・?」
莉緒が気になっていると、気づいたのか真由が答える。
「莉緒」
「え?」
「あたし、莉緒のこと、信用してるから」
「う、うん」
真由が何を言おうとしているのか、さっぱり分からない。

そうこうしているうちに車は真由の家の別荘に到着した。だが、何やら人が多く、騒がしい。
「莉緒、こっち」
真由について、莉緒は歩いた。パーティ会場なのか、ドレスアップした女性が多い。
(妙に女性多いなぁ・・)
そんなことを思いながら、莉緒はきょろきょろと辺りを見回した。皆綺麗で、根っからのお嬢様のようだ。
(このパーティ呼ぶためにお嬢様に仕立てられたのかな・・)
と言っても、着せられた真由の服は高そうではあるが、ドレスではない。
「莉緒」
呼ばれて我に返る。真由が手招きする方へ小走りで駆け寄る。
「ちょっとここで待ってて」
「うん」
真由はそう言い残すと、何処かへ消えた。

しばらく手持ち無沙汰になる。周りに莉緒を知っている人はいないし、どう考えても自分がこんな所にいるのは、はっきり言って場違いだ。
だが、逃げ帰る訳にはいかない。
(だって・・正体を教えてもらうって約束したんだもん)
そう、それだけはどうしても聞きたかった。ここ一年、ずっと聞きたいと思っていた事なのだ。これまで腫れ物のようにその話題は避けてきた。それが、今日解禁されるのだ。
莉緒が顔を上げたその時、男の声が会場中に響き渡る。
「皆様、長らくお待たせいたしました。今日はこのよき日にお集まりいただき、ありがとうございます」
男は簡易ステージのような台の上で、マイクを持って挨拶をした。
「さて。今日お集まりの皆様はご存知でしょう。きっとこの日を心待ちにしていたはずです」
何かイベントが行われるらしいその司会を莉緒はただボーっと見ていた。
「それでは、ただいまより『桐谷杯 爽一郎の花嫁は誰だ?!レース』開催致します!」
観客が一斉に沸く。しかし反対に莉緒は固まった。
でかでかとレース名が書かれた垂れ幕には、紛れもなく『春日爽一』と名乗っていた彼の顔写真が一緒にプリントされていたからだ。
「爽・・一・・郎・・?」
名前さえも嘘だったのかと、莉緒は胸に痛みを覚える。大体このふざけたレースは何なんだ。
「・・どういう・・こと・・?」
莉緒の思考回路はパニックになっていた。昨日、爽一・・じゃない爽一郎が電話していた時に聞いた『真由』という名前もやっぱり真由のことだったんだと、そこで確信する。
一体自分は何のために連れてこられたんだろう?この事実を見せるため?だったら、拉致みたいな真似なんかしないで、その場で言ってくれれば良かったのに。どうしてこんな・・。
「莉緒」
呼ばれ、振り返ると真由がいた。
「あのね・・」
「どういうこと?」
真由が口を開いたと同時に莉緒が問い詰める。
「何で爽一さんの写真があんなでかでかとプリントされてるの?真由ちゃんは爽一さんとどういう関係なの?・・あたしの話聞いて、ホントは心の底では・・笑ってたんでしょ?」
莉緒の声が震えた。涙はがんばって堪えた。溢れてきた涙が零れないように、必死で堪えた。
こんな酷い展開、あるだろうか?親友のように接してきた友人に、一気に裏切られた。少なくとも莉緒はそう感じた。
「落ち着いて。全部話すから」
真由は莉緒を抱きしめた。
「ごめんね。騙す結果になるって分かってたのに・・」
真由は耳元で呟いた。莉緒の両腕を持って、優しく引き離す。
「『春日爽一』は桐谷爽一郎。今の桐谷和菓子屋の副社長」
真由の言葉に莉緒は再び固まった。桐谷和菓子屋は莉緒のバイト先である。
「じゃあ・・爽一さんがあの日お店に来たのは・・」
初めて会ったあの日、あの時は副社長直々にお店の様子を見に来たのだろう。
「そして・・あたしの一番上のお兄さん」
「あぁ・・そういうこと・・」
何となく話は繋がってきた。真由は桐谷真由と言う名で、修二郎は桐谷家の次男。爽一郎が爽一と名乗っていたのは、修二郎と面識がある莉緒に勘付かれないためだろう。
「一つだけ言うとね。あたしや修二郎兄さんが莉緒に絡んだことと、爽一郎兄さんが莉緒に絡んだたこと、全然関係ないから」
「・・どういうこと?」
真由の言っている意味がよく分からない。
「あたしたちは・・このレースが開かれることを知って、爽一郎兄さんにふさわしい人を探そうと思ったの。でも莉緒に会ったのは、本当に偶然で・・。あたしの直感って言うか・・。莉緒と友達になって試してみようって思ったの。・・いつかは本当のことを話さなきゃいけないって分かってたんだけど、タイミングが掴めなくって・・」
真由は利緒とは目を合わせなかった。ずっと地面の方を見ていた。少し考え、目を上げる。
「でね、あたしは爽一郎兄さんが莉緒と接触したって知ったの。しかも二度目に会ったときなんて、莉緒と話したいって時間割いたって聞いて・・。」
それはきっと爽一郎と一緒にいた会社の人に聞いたのだろう。
「悪いと思ったけど・・少しだけ見張ったりしてた。・・二人を見てて、思ったの。爽一郎兄さんは莉緒に気があるんじゃないかって・・。莉緒も兄さんのこと気になってるみたいだったし・・。本当はそれで二人がくっついてくれたりしちゃったらいいのになぁって思ってた」
真由は自嘲したように笑った。
「だから・・莉緒を焚きつけるようなこと言ったりしてたの。・・ごめんね」
メールを送れと言ったのも、確かに真由だ。何となく話の流れは分かってきた。
「ねぇ・・爽一・・郎さんは、どうして『春日』って・・」
「お母様の旧姓よ。きっと『桐谷』って言えば、すぐに正体が分かってしまうからじゃないかな?・・兄さんが莉緒に正体を隠してたのは、副社長だからとか、自分のバイト先の上司だからとかじゃなくて、普通に接して欲しかったんじゃないのかな?・・推測だけど・・」
莉緒は爽一郎の顔を思い浮かべた。確かに自分のバイト先の上司と知っていたら、あんなに親しくはなれなかったかもしれない。
「・・あ、でも・・このレースは一体・・」
莉緒の問いに、真由は溜息をついた。
「全ての元凶は・・うちの父なの」
真由は側頭部を指で揉んだ。頭痛がしてきたのだろうか?
「好きなのよ。こういうイベントが」
真由は呆れたように言った。
「でも・・一年前から・・計画してたってこと?」
莉緒の質問に深く頷く。
「そう・・。兄さんの身を固めなきゃいけないとか何とか言い出して、令嬢を品定めして、このレースに呼んでるの。・・でも兄さんは絶対反対すると思うのね?」
「だよね・・。爽一郎さんは?」
この会場に居るのだろうか?
「今修二郎兄さんが状況を説明しに行ってる。・・けど来るのには時間かかるかもしれない」
「で・・あたしは何で呼ばれたの?」
「莉緒にこのレースに出て欲しいの!」
真由が懇願する。
「は?」
莉緒の思考回路が再び停止する。この令嬢たちが参加しているレースにどう参加しろと言うのか。
「本当はこの馬鹿げたイベント自体を終わらせればいいんだけど・・。お父様を止められるのが爽一郎兄さんだけなの。本来ならちゃんと前日までに止めさせるんだけど・・。あたしたちにも秘密で開催しててさ。知ったのが、今朝なのよ」
だからあの鬼のような形相で迎えに来たんだと察しがつく。
「でも・・あたしが出たとしても、止められないんじゃ・・」
「莉緒には優勝してもらわなきゃ困るの!」
「え?・・・ちょ・・ちょっと待ってよ!そんなこと言われても無理だよ!」
「無理じゃない!絶対優勝しなきゃ、兄さんの将来にかかってくるの!」
それは分かるが、どうして自分なのか。
「兄さんの将来、引いては桐谷家の将来、あたしの将来にもかかってくるのー!」
それが一番の本音じゃないのか。
「って言っても・・あたし本当に何もできないよ?」
「大丈夫。このレースは花嫁レース。基本的な家事をこなせれる莉緒なら優勝間違いなし!」
その真由の自信は一体どこから来るのだろう?レースに出るのは莉緒なのに。
「それにねっ、賞金もあるらしいの!」
ぴくん、と莉緒の耳が動いた。
「賞金?」
「うんうん。バイトだと思ってさー。やれるだけやってみてよ!」
賞金と聞いて心が動いたものの、しばし考える。
これは花嫁レース。優勝者が爽一郎の花嫁になる。花嫁、と聞いてあまりピンッとは来ないが、少なくとも爽一郎に他の女性が居るのは何となくムカッとくる。
「真由ちゃん、あたし出る」
「ホント?」
真由の顔が明るくなる。
「優勝できるかは分からないけど・・爽一郎さんに婚約者ができるって・・気分いいものじゃないから」
莉緒自身は気づいていないんだろうか?既に爽一郎に惹かれていることに・・。例え今気づいていなくても、このレースが終わればきっとはっきりするんだろう。
「ありがとう、莉緒。こっち来て」

爽一郎は久しぶりにゆっくり眠っていた。いつもなら朝早くから業務に追われているのだが、今日はお休みだった。どういう風の吹き回しか知らないが、社長である父からゆっくり休むように言われた。
遅めに起きた爽一郎は服を着替えると、洗面所で歯を磨き、顔を洗い髭を剃る。毎朝やっている事を、今日も繰り返した。
その時、静寂を破る足音がバタバタと近づいてきた。
「兄貴!大変!大変!」
修二郎が爽一郎を発見して飛び込んでくる。
「何だよ。騒がしいぞ」
「親父がまた変なことしてる!」
慌てる修二郎に比べ、爽一郎は冷静だった。
「今度は何だ?」
「『花嫁レース』だって・・」
修二郎がそう言うと、爽一郎の目つきが変わった。
「誰の?」
「・・兄貴の・・」
目が怖すぎる。修二郎は自分が怒られている気分になってくる。
「どこで?」
「・・別荘で」
「誰が?」
「親父が・・開催してる」
「修二郎、行くぞ」
そう言うと、爽一郎は家を飛び出した。

「どうして早く言わない?」
爽一郎は自分で運転しながら、助手席の修二郎を睨んだ。
「今朝知ったんだよ。イキナリ親父が別荘に行くって言い出して・・ついてったら、レースの準備してて・・。俺は慌てて家に戻ったんだ」
「・・電話で言えよ」
「兄貴知らないのか?あそこ電話線繋がってない上に携帯も繋がらないんだぜ?」
爽一郎は頭痛がしてきた。あの親父のことだ。電話が繋がらないから別荘で開こうと計画したに違いない。多分母には何も言わず、子供たちにも詳しくは伝えず、このレースを開催したに決まってる。
「あの・・クソ親父・・」
爽一郎のこめかみがピキピキとなっていることに、修二郎は気づいて身震いした。

その頃、別荘では花嫁レースがスタートしようとしていた。このレースの真意は一体何なんだろう?『爽一郎の花嫁』を決めることをレースにするなんて、おかしすぎる。
司会の男性が、ルール説明を始める。
「ルールは簡単。出場者は、これから基本的な家事をこなしていただきます。効率的にこなしていただき、短時間でこなした上位三名が最終選考へと進むことができます」
家事。莉緒はある程度自信はあった。だが、本当に最終選考へと進めるのかが不安だった。
「各部屋ごとに出場者一名ずつ入っていただきますが、準備している部屋は十部屋しかございません。まずその部屋を探すことから始めていただきます」
つまりは、その部屋を見つけた十名だけしか参加できないと言うことだろう。最初からハードではある。
「それではスタートです!」
パーンと乾いた音がレースの始まりを告げる。出場者は一斉にスタートした。莉緒はその参加者の多さに驚いた。十人、二十人どころではない。三十人、四十人・・いや、五十人くらいいるのかもしれない。一体どこからこんなに集めてきたのだろう?
(真由ちゃんのお父さんって・・変わってる人なんだな・・)
そう莉緒が思ってしまうのも、無理のないことなのだろう。大体花嫁をレースでは普通決めない。
(まずは部屋を見つける)
ルールを思い返しながら、莉緒たち出場者は広い別荘の中に入った。その部屋数を見て、莉緒たちは唖然とした。この建物の中に五十部屋くらいありそうだが、そのうちの十部屋だけが、試験会場なのだ。
莉緒は立ち止まって考えた。早くしなければいけないのは分かってる。他の参加者たちは、片っ端から部屋を開けていた。
(落ち着け・・。自分が主催者ならどうする?)
少し意地悪をしたいと思うかもしれない。
(確かこの階以外にも部屋はあった。司会者はこの建物の中としか言わなかった。てことはこの階じゃないかもしれない)
ここは一階。すぐに見つけては面白くはないはず。
『好きなのよ。こういうイベントが』
真由の言葉が頭に浮かぶ。イベント自体も楽しむような人だ。きっと企画にだって参加してるはず。
走り始めた莉緒は部屋ではなく、階段を探した。階段は奥まったところに隠されたように据えられていた。
(どうか勘が当たってますように)

「社長。一人階段を上がってくる少女が居ます!」
モニターを見ていた部下が、社長・・つまり真由の父、桐谷正樹に報告をする。
「おお。勘のいい娘だな」
そう言いながら、モニターに近寄る。その顔を見て、正樹は首を傾げた。
「・・このお嬢さん、見たことないな・・」
「あたしが連れて来たのよ」
突然部屋の中に、真由が現れる。
「真由。この子はどこのお嬢さんだい?」
「普通の一般人よ」
その言葉に父、正樹は反応した。目を細め、娘を見やる。
「一般人?」
「そう。どこぞの大きな会社の令嬢様なんかじゃないわ」
「ほぉ」
真由は父が一般人を嫌っていることを知っていた。桐谷家の長男には名家の令嬢がふさわしいと思っていることも知っていた。ある意味これは賭けだった。
父はモニターに目を移した。真由もモニターに目を移す。
階段を上がってきたのは、まだ莉緒しかいない。二階には十五部屋あった。莉緒は一度立ち止まるが、また走り始める。そして一番奥の部屋を開けた。

部屋の中はぐちゃぐちゃにされていた。倒された本棚、乱された服。空き巣にでも入られたかのような状態になっていた。莉緒はきょろきょろしながら、部屋に一歩を踏み入れた。すると、どこからか声が聞こえた。
「おめでとうございます」
莉緒は驚いたが、それが備え付けられたスピーカーから発せられたものだとすぐに分かる。
「えー・・」
司会者らしき男性の声が一瞬止まる。
「鈴原・・莉緒さんですね?」
問われ、莉緒は「はい」と頷いた。こちらの声は聞こえているんだろうか?
「では、この部屋を掃除と散らかった服の洗濯をしてください。ただし、一人で行うこと。こちらからはカメラで監視していますので、不正行為が行われるとその時点で失格となります。いいですね?」
「はい」
「掃除が終了した時点で、次のお題が出されます。掃除が終わったら、ボタンを押してください」
「ボタン?」
莉緒は周りを見たが、そんなものは全く見つからない。
「掃除をすれば、見つかります。それでは、健闘をお祈りしています」
そう言うとスピーカーから男性の声が消える。
莉緒はまず倒れた本棚から手をつけることにした。

父が選んだ令嬢の中で、一番に莉緒が試験会場に到着した。真由は驚きつつも、顔には出さなかった。
父を見やると、彼の口が動いた。
「いいだろう。彼女も例外として認める」
「おと・・」
「但しレース開催中にお前があの子に近づくのは許さない。もし一度でも近づいたらその時点で失格にする」
条件を出され、真由は下唇を噛んだ。でもこれくらいのことは仕方のないことだ。
「分かりました」
真由はモニター越しに莉緒を見守ることにした。

他の令嬢たちがようやく二階の存在に気づいた頃、莉緒は本棚を元に戻し終わっていた。本はちゃんと並べ、ほとんど掃除が完了したような気分になる。だが、まだ終了ボタンが見つかっていない。莉緒は本棚から離れ、散らかった服を拾い集めた。一箇所に集めると、部屋をうろうろして、洗濯機を見つける。他の人が同じ課題をやっているかどうかは知らないが、この家に十台も洗濯機があるのだろうか?
考えると頭痛がしてきそうなので、莉緒は洗濯物を持って洗濯機の前に立った。どの洗剤があるかを見て、白い服と色柄ものを分けた。いつもやっていることなので、当たり前のように淡々と進めれる。
(簡単すぎじゃない?)
そう思ったが、よくよく考えると自分以外は令嬢様なのだ。もしかしたら自分でこんなことはしたことないかもしれない。
ふとある服のポケットに紙切れが入っていた。
(なるほど。ポケットチェックまで採点に入るのね)
ポケットの中に紙が入った状態で洗濯した日には・・運が悪ければ、もれなく全ての洗濯物に水で濡れて粉々になった紙が張り付くことになる。そうなると『二度手間』になることは必至である。
更には食べこぼしのシミなんかもあった。莉緒は漂白剤をチョイスして色柄ものでも使えるかチェックした。最近の漂白剤は、色落ちしないのでありがたい。シミ部分に漂白剤を染み込ませ、洗濯機に突っ込む。
その作業を繰り返し、洗濯機を動かし始めた。全自動洗濯機。しかも最新型だ。
(最新のかぁ・・。うちのもまだ使えるけどねぇ)
何となく新しいものが欲しくなるのは人間の常かもしれない。
洗濯機を動かした莉緒は部屋に戻る。本や服を片付ければ、結構床が見えてきた。転がっている置物等をきちんとあるべき場所へ戻していた時。
「これがボタンか」
何と言うか、周りが高級品ばかりなために、それだけが陳腐なものに見えた。ファミレスでウェイトレスを呼ぶために鳴らすチャイムのようだった。
莉緒はとりあえずそれを机の上に置き、掃除機を探した。掃除用具が部屋の隅に固めて置いてあった。必要なものは全て揃っているようだ。莉緒は迷わず掃除機を取り出しコンセントをプラグに差し込んだ。
掃除機をかけるのは、結構好きだった。埃や糸くずが掃除機に吸い込まれ、綺麗な床が見えてくる。
莉緒は、レースということを忘れて家事をこなした。それは莉緒にとっては日常の当たり前のことで、ただ掃除している部屋が違うだけだった。
掃除機をかけ終わると、今度は雑巾を取った。洗面台で洗い、まずは棚の上から拭く。埃が適度に溜まっているのはわざとなのだろうか?
レースというよりも家事を楽しみ始めた莉緒は、徹底的に掃除を始めた。

父はモニターに見入っていた。真由としては、何としても莉緒を優勝させたいと思っていた。真由は父を見た。表情からは何も読み取れない。だが、莉緒を見ているのは分かる。莉緒のモニターをずっと気にしているようだった。
他の出場者たちはやっと部屋に辿り着いたものの何からしていいのか分からず、パニクっている姿が多かった。
(莉緒の一人勝ちかしら・・)
そう思いながら、全てのモニターを見ていた。すると一人テキパキと掃除をしている姿が映し出されていた。
「この方は?」
「萬田扶美様。萬田物産の社長令嬢です」
モニターの監視役の一人が答える。社長令嬢なのに家事をこなすとは・・。
真由は父を盗み見た。口の端が上がっている。
(このお嬢様がお父様のお勧めって訳ね)
狙い通りだとでも言うような顔をしている。真由は莉緒のモニターを見た。まだ見る限りでは莉緒の方が有利に見える。普段家事をしない真由にはよく分からないが。

莉緒は部屋の掃除が終わると、乾燥までかけ終わった洗濯機から、洗濯物を取り出した。取り出した洗濯物は、きちんとたたんでタンスの中へ入れた。Yシャツやブラウスなどアイロンをかけた方がいいものは、分けておく。アイロンを探し当て、慣れた手つきでシャツの皺を伸ばす。アイロンをかけ終わったシャツはクローゼットを開け、余っているハンガーにかける。
莉緒はやり残しがないか、部屋の中をチェックした。
「よし」
出されたことは、ちゃんとすべてやった。莉緒は机の上に置いていたスイッチに手を伸ばし、軽く押す。するとまた声が聞こえた。
「お疲れ様でした。では次は第二ステージ。三階へ移動してください」
「三階・・」
莉緒は呟くと、部屋を出た。

部屋の外に出ると、誰も居なかった。莉緒はとりあえず言われたとおり、三階へ向かった。三階には誰も居なかった。三階には二階よりも広く部屋が取られているようだった。何処かの部屋に入るべきなのだろうか、とウロウロしていると、一人の男性がどこからか出てきた。
「こちらへどうぞ」
男性に案内され、一つの部屋に入る。そこにはたくさんの服が置いてあった。まるで真由のクローゼットのようだった。
「ここで服を選んで、着替えてください。ドレスコードは『遊』です」
「ゆう?」
「遊ぶの『遊』です。着替えが終われば、一階へ降りてきてください」
「はぁ・・」
男性はそれだけ言うと、部屋を出て行った。莉緒は服を物色し始めた。高そうな服が並んでいる。
「遊・・かぁ・・」
莉緒はドレスコードを呟いた。服を見渡すが、どれも全て高そうなものだった。
(『遊』ってことは・・遊び着みたいなのでいいのかなぁ・・)
答えはきっと審査員である真由のお父さんしか知らないだろう。莉緒は深く考えるのをやめた。とりあえず今はいているスカートははき慣れていないので、パンツ系にしようと思う。
莉緒は黒のパンツを手に取った。流石にサイズも揃っている。
(このレース終わったらこの服たち、どうなるんだろう・・)
妙なことを心配してしまう。要らないのなら欲しい・・と思う貧乏性な自分が嫌だ。
トップはあまり派手ではないものを選ぶ。見て回っていると靴のコーナーもあった。莉緒はパンプスやミュールが並ぶ中、スニーカーを手に取った。
(こんなもんかなぁ・・)
とりあえず着替えてみよう。莉緒は試着室のように区切られている区間に入った。

「お父様、これは一体・・?」
真由は莉緒のモニターを見ながら、隣にいる父に聞いた。
「もちろん服のセンスのテストだよ。言われたドレスコードに合った服をどれだけ選べるか。もちろん十人とも違うドレスコードだ」
「服のセンス・・」
莉緒の服のセンスはよく分からないが、普段着を見ている限り、そんなに心配しなくても良さそうだった。同じ服でも組み合わせを変えて着こなしているし、大体莉緒はどんな服でも似合うと思う。
(がんばって。莉緒)
モニターを見ながら応援だけしかできない自分が歯がゆい。でも・・父に勝手に決められるくらいなら、莉緒にがんばってもらって、爽一郎とのことを認めてもらったほうがいい。
その時、扉が大きな音を立てて開いた。思わず扉に顔を向ける。
「兄さん」
爽一郎が冷ややかな目で父を睨んでいる。
「どういうことですか?」
爽一郎は父に真っ直ぐ近寄った。あまりの迫力に父はのけぞる。
「いや・・その・・」
言葉に詰まると、爽一郎が口を開く。
「聞きましたよ?『花嫁レース』なんて下らないことやってるんですよね?」
「あ・・あぁ」
父は頷いた。
「でも!爽一郎、お前のためを思ってこうやって選りすぐりのお嬢さんから・・」
「レース開いてるんですよね?」
爽一郎は父の言葉を遮り、『レース』を強調した。父がたじたじになっている。
「こういうことするために一体いくら使ったんです?」
そう聞かれ、父は口をつぐんだ。
「・・お母様は知ってるんですか?」
そう問うと、父は首を小さく振った。つまり、無許可。
「よくやりますよねぇ。怒らせると恐ろしいと知っててやるんですから」
爽一郎は呆れていた。爽一郎より、母の方が数倍恐ろしい。
「即刻取りやめてください」
「しかしだな・・」
「まだやるつもりですか?」
「兄さん」
真由が間に入る。腕を引っ張り、爽一郎をモニターの前に連れてくる。
「・・何で莉緒ちゃんがいるんだ?」
「あたしが連れてきたの」
そう言うと、爽一郎の顔つきが変わる。真由を睨む。
「ごめん。全部言っちゃったの。兄さんのことも、あたしのことも・・」
「・・真由・・」
「兄さんが莉緒と会ってること、知ってたの。あたし・・莉緒の友達だったから・・。でも兄さんのことは、隠してたの。あたしの家柄も」
爽一郎は真由を見据えたまま、聞いていた。
「今日、レースするって聞いて、チャンスだと思ったの。隠してても、いずれはバレてしまう・・。だったら、いっそのこと全て言おうって。それから莉緒に・・『レースに出て欲しい』って言ったの。莉緒は全部聞いてから、自分で出るって決めたの。だから、こうやってがんばってる。兄さんが莉緒を好きなように、莉緒も・・兄さんのこと・・。」
爽一郎はもう一度莉緒を見た。複雑な想いになる。
「このレースは止められんぞ」
持ち直した父がそう断言する。爽一郎は父に向き直った。
「もし・・彼女・・莉緒が優勝したらどうするんですか?」
父は一般人が嫌いだと爽一郎もよく知っていた。
「もちろん婚約者として認めよう。優勝すればの話だがね」
父は意地悪く言った。爽一郎は少し考えた。
(優勝すれば、認めてもらえる。でも・・)
爽一郎はモニター越しに莉緒を見つめた。

着替え終わった莉緒は、部屋を出た。莉緒と入れ替わるように、違う参加者が入ってきた。莉緒を一瞥すると、彼女は男性に連れられて部屋に入った。
(やっぱりクリアできる人いるんだ・・)
「鈴原さん、こちらへ」
違う男性が莉緒を案内する。
付いて行くと、大きな厨房に連れて来られる。
「ここで料理を作っていただきます。作っていただくものは『お弁当』です」
「お弁当・・ですか・・?」
「こちらにお弁当箱があります。これに入るだけのものを入れてください。材料は冷蔵庫やこちらにあるものを使っていただいて結構です」
男性は冷蔵庫と野菜などが置いてある棚を指差した。
「分かりました」
「制限時間はありませんが、これがレースであることをお忘れにならないように」
そう忠告すると、男性は厨房から消えた。莉緒はとりあえず何があるのかを確かめるべく、冷蔵庫や材料棚を確認した。材料はすばらしいほどの品揃えだった。
(お弁当か・・)
弁当と言って思い出すのは、爽一郎の顔だった。莉緒が作った弁当を、彼は嬉しそうに『おいしい』と食べてくれた。それだけで何だか嬉しい気持ちになった。
「よし」
莉緒は食材をチョイスして、調理を開始した。

莉緒が一品目を作り終わった頃に、第二ステージですれ違ったお嬢様が入ってくる。男性は莉緒と同じ説明をして出て行った。
彼女は莉緒を一瞥した。
(何か敵意剥き出しだな・・)
目つきがキツイ。まぁ気にしないでおこう。考え直した莉緒は、二品目を作り始めた。
「あんた、一般庶民でしょ?」
「え?」
突然そんなことを言われ、莉緒は驚いた。
「・・えぇ・・まぁ」
曖昧に流す。一般庶民だから、こんなに敵意剥き出しなんだろうか?
「あんたには負けないから」
強くそう言うと、彼女も材料を物色し始めた。
負けたくない=爽一郎の花嫁になるのは私。だからあんたはすっこんでな!
そんな方程式が勝手に莉緒の頭の中に浮かんだ。
(そりゃ一般庶民になんて負けたくないんだろうけど・・)
だからと言って莉緒も譲れない。莉緒だって負けたくない。変に意地になる。
チラッとお嬢様の方を見やる。彼女も慣れた手つきで材料を切っている。
(料理が趣味とかかな・・?)
莉緒のように必要に迫られてやっている訳ではなさそうだ。
(早く作らなきゃ・・)
ライバルの偵察はこれくらいにしておかないと・・。莉緒はフライパンに卵を流し込んだ。

爽一郎はモニターをじっと見ているだけだった。真由は何かを言いかけてやめた。
何を考えているんだろう?兄もやはり莉緒のことが好きだったんだろうか?もしもこのレースで莉緒が勝てば、父が認めざるを得なくなる。それを狙っているんだろうか?
「父上」
不意に爽一郎がモニターから目線を上げ、父に向き直った。
「男に二言はないですよね?」
冷ややかな目つきに、父は「・・あぁ」と頷くしかなかった。
(やっぱり・・莉緒のこと・・)
真由は嬉しさで胸がいっぱいになった。
「だ・・だが、お前も覚悟を決めるんだな。このレースの優勝者と結婚するんだからな」
父がそう言うと、爽一郎は不敵に笑った。
「望むところです」

そんな話し合いがなされていることなど、知る由もない莉緒は見事に弁当を完成させた。それをモニターで見ていたであろう男性が入ってくる。
「鈴原さん。最終ステージへそのお弁当を持ってお越しください」
男性に言われるままに、莉緒は作ったお弁当を持って部屋を出た。

最終ステージ。莉緒は大きな広間に連れて来られた。
「お弁当はこちらへ」
言われたとおり、男性に弁当を渡す。
部屋を見渡すと、グランドピアノ、バイオリン、フルート、クラリネット等々たくさんの楽器が置いてあった。
「最終ステージは音楽性のテストです。この中からお好きな楽器を選んで演奏していただきます」
男性は淡々と説明をした。
「楽器が決まりましたら、あちらの扉より隣の部屋にお入りください」
男性が指した方には扉があった。男性は説明が終わると、また何処かへ消えた。
「どうしよ・・」
莉緒は困り果てた。楽器なんて演奏したことがない。最低限学校で習ったものしかできない。かと言ってピアノが弾ける訳でも何か他に楽器ができる訳でもない。
(せいぜいカスタネットとかハーモニカとかだもんなぁ・・)
莉緒は見渡した楽器を見て思った。やはり英才教育を受けている人はこれらの楽器を演奏できるのだろうか?

莉緒が困り果てるのを見て、真由はとっても焦った。莉緒は楽器なんてできないんじゃないのか。父が莉緒を優勝させる気なんてないことは一目瞭然だった。
(このテストがあるから、莉緒の出場を許したのね・・)
真由は父を睨み付けた。爽一郎だってハメられたと思っているに違いない。かと言って助けることすらできない。自分の無力さに真由は心底腹が立った。

莉緒が困り果てていると、審査員が待機しているであろう部屋と反対方向のドアが少し開いた。じっと見ると、修二郎が顔をちょこっと出していた。無言で手招きされる。
「?」
莉緒は不思議に思いながらも、修二郎の方へ歩み寄った。

「何処に行ったんだ?」
父がふと声を漏らす。莉緒はカメラの死角に入ってしまった。莉緒に限って逃げたりするとは考えにくいが、真由は不意に不安に駆られた。
「たまたま見えないところに楽器でも見つけたんじゃないんですか?」
爽一郎が整然と言う。そうかもしれない、と真由は思い直した。
「フン」
父は鼻を鳴らす。気に入らないのだろう。
(それはこっちの台詞だってーの)
真由は心の中で毒づいた。
それにしても、莉緒は何をしているんだろう?
真由はもう一度モニターに視線を戻した。

「修二郎さ・・?」
「シー」
修二郎は人差し指を立て、顔の前に突き立てた。莉緒は口をつぐむ。
「莉緒ちゃんさ、何か楽器できる?」
修二郎は小声で莉緒に問いかけた。莉緒は首を横に振った。
「じゃあさ、歌うのは好き?」
莉緒は少し考えて、頷いた。
「だったら、歌えばいいよ」
「え?」
莉緒はパニックになった。
「アカペラで、ですか?」
小声で問うと、修二郎はうんうんと頷いた。
「大丈夫。莉緒ちゃんならできるって」
無責任とも取れる言い方に莉緒は戸惑った。
「で・・でも・・」
「莉緒ちゃん、兄貴のことどう思ってる?」
「え?」
突然の問いに莉緒は返答に困った。
「これで兄貴の将来は決められたようなもんだ。親父に仕組まれた政略結婚しなきゃいけない。俺はそんなことさせたくないんだ」
いつになく修二郎は真剣だった。
「莉緒ちゃんが本当に兄貴のことを想ってくれてるなら、がんばって欲しい」
修二郎の言葉が胸に響く。
「莉緒ちゃん、よく考えて」
そう言うと、修二郎はドアを閉めてしまった。莉緒は修二郎の言葉を考えながら、再び部屋の中央へ戻った。

「・・莉緒、何も持ってない」
真由はカメラの前に現れた莉緒を見て思わず口を開いた。その言葉に爽一郎も父も釘付けになる。確かに莉緒は手ぶらだった。
「どうする気だろ・・」
真由が呟く。爽一郎も同じことを考えた。
ただ見守るだけの自分。爽一郎は今すぐにでも莉緒のところに行きたかった。だけどそれさえもできない。
(どうか・・がんばって・・)
そう祈ることしかできなかった。
「社長、そろそろ」
「うむ」
一人の男性が呼びに来る。
「お父様どこへ?」
真由が問うと、父はあっさりと答えた。
「もちろん、最終ステージの審査だよ」

莉緒は考えながら、部屋の中央に立ち尽くした。見渡す限り、自分に演奏できるような楽器はない。
(歌か・・)
確かに歌うことは好きだ。けれど上手いかと言うと自信はない。同級生たちのようにカラオケに行きまくったことなんてもちろんない。理由は金銭的な問題だったが。時々バイトの先輩のおごりで連れてってもらうくらいだ。
(でも・・)
かと言って何か楽器が演奏できるわけじゃない。早くしないと、彼女が来てしまう。
その時、扉が開く。あの彼女が先ほどの男性に連れられて部屋に入ってきた。一通り説明を受けると、男性は再び出て行った。
迷ってる時間はない。彼女は楽器を選んでいる。莉緒は手ぶらで審査員がいる部屋の扉を開けた。

審査員席には五人の審査員が座っていた。
「鈴原莉緒さんですね」
「はい」
莉緒は問いかけた審査員を見据えながら頷いた。
「楽器を持っていないみたいですが?」
莉緒は深呼吸して、緊張をほぐした。
「実は・・私、楽器を何も演奏できないんです」
「それじゃあ・・」
『失格』と言いそうな口ぶりに莉緒が先に口を開く。
「歌を歌います」
「え?」
審査員たちが困惑している。
「でも・・」
「これは音楽性のテストですよね?歌は音楽に含まれないんですか?」
莉緒の言うとおりだった。
「社長・・」
一人が呟いた。
(社長・・と言うことは真由たちのお父さん・・)
そしてこの馬鹿げたレースの開催者。
正樹は莉緒を見据えた。目つきが恐ろしく、莉緒の鼓動は高鳴った。
「いいだろう。ここに居る審査員五人中三人がOKを出せば、このテストは合格だ」
五人中三人・・・。莉緒は審査員を見渡した。就職面接を受けているような気分になる。果たしてこの中で歌えるのだろうか?歌えたとしても三人もOKを出してくれるんだろうか?
急に不安が押し寄せる。
(だけど・・やらなきゃ)
莉緒は覚悟を決めた。

「どうする気だろ・・。莉緒」
真由はモニターを見ながら呟いた。爽一郎もモニターを見つめ、同じように思っていた。
どうして莉緒にあんなことをさせているんだろう?父と同じく自分勝手なのかもしれない。大体、莉緒にここまでしてもらう義理なんてない。恋人でもないのに・・。
(無理・・させてるよな・・)
深い溜息が漏れる。
「真由」
隣に居る妹に話しかける。
「ん?」
「俺は・・やっぱり自分勝手なんだろうか?」
「え?」
突然の兄の言葉の意味が分からず、真由は首を傾げた。
「莉緒ちゃんと付き合ってる訳でもないのに・・彼女がこのレースで勝ってくれる事を願ってる。止めに来たはずなのに・・・俺は・・・」
何て自分勝手なんだろう。
「兄さん。違うよ。莉緒が選んだんだよ?このレースに出るって決めたのは、莉緒自身なの。そりゃ・・兄さんにとったら、こんな風に正体がバレるのは、不本意かもしれない。けど、止められない以上、莉緒が優勝するように見守るしかできないじゃない」
肩を落とす爽一郎に、真由が励ます。
「・・そうかもな」
爽一郎はもう一度モニターを見やった。

莉緒は大きく息を吸って、歌い始めた。
(この曲は・・)
正樹は耳を疑った。これは妻が好きな曲ではないか。
『親友とよく練習したの』
妻の洋子は昔の思い出を語りながら、よくこの曲のCDを聞いていた。
曲名『HYMNE A L'AMOUR』。日本では越路吹雪が『愛の讃歌』という日本語詞で歌って一世を風靡したその原曲。
驚いたのは、莉緒のような若い娘がこの曲を知っていること。有名とは言え、高校生なのになぜ知っているんだろうと言う疑問が過ぎる。更には、日本語詞の『愛の讃歌』ではなく、原曲のフランス語で歌っていること。フランス語は完璧だった。歌も文句のつけようがなかった。いつの間にか莉緒の歌に聞き入ってしまっている自分に気づく。
(まさか・・一般人の小娘に・・)
それが何だか悔しかった。今までのレースも完璧だった。一階の部屋という罠も見破り、すぐに二階に上がってきたのは、莉緒だけ。掃除も洗濯も一番効率がよかった。服を選ぶセンスも、料理も完璧だ。ただ家柄だけは納得がいかない。それでも莉緒の歌で、そのことさえも忘れられた。
気づくと、正樹以外の審査員は○の札を挙げていた。歌が終わった時点で、正樹も腹をくくった。
静かに○の札を挙げる。
すると、緊張が解けたのか、莉緒は笑顔を見せた。
「おめでとう。五人全員がOKを出した。このドアをくぐれば、ゴールだよ」
正樹がそう言うと、莉緒は「ありがとうございます」と一礼して、ドアを開けた。

爽一郎は莉緒の歌声に魅了されていた。それだけじゃない。自分勝手なこんなレースに出場してくれただけでもありがたかった。
胸の内に込みあがってくる愛しい気持ち。
審査員である父が○の札を挙げたのを見て、爽一郎も真由も驚いた。
「まさか・・」
真由はモニターを見ながら呟いた。あの頑固者がOKを出すなんて・・。しかも審査員は全員○を出していた。
「莉緒・・すごい」
それしか言葉が出てこない。
その瞬間、爽一郎は走り出していた。
「兄さん?」
真由の驚いた声が遠くで聞こえた。

扉を開けると、パーティ会場のような場所に出た。しかし会場には誰もいない。莉緒がよく分からずにいると、反対側のドアが勢いよく開いた。
「爽・・一・・さん」
莉緒は目を疑った。目の前には確かに爽一郎がいる。爽一郎は何も言わず、莉緒に近づいた。まるで映画のワンシーンのように、何だかやけにスローモーションに見える。
爽一郎は莉緒の目の前で止まった。
「爽一さ・・」
口を開きかけると、いきなり抱きしめられる。
「え??」
何が何だか分からない。すると耳元で爽一郎が口を開く。
「ごめん。ごめんね・・」
何で謝られているのか分からない。
「何で・・爽一さんが謝るんですか?」
その言葉に爽一郎は莉緒の肩を持って引き離し、莉緒の目を見つめる。が、すぐにそらしてしまう。
「ごめん・・。俺、このレースを止めに来たはずなのに、君なら勝つような気がしてたんだ。だから・・」
「あたしが・・・あたしが出たいって言ったんです。真由ちゃんに出て欲しいって言われて・・。それに・・」
莉緒は少し口ごもった。少し間を置き、爽一郎の顔を見る。
「それに、嫌・・だったんです」
「え?」
莉緒は思わず目をそらした。
「爽一さんに・・婚約者ができるの・・」
その言葉に思わず笑みが零れる。
莉緒は顔を赤らめながら、ちらりと爽一郎を盗み見た。嬉しそうに微笑んでいるのを見て、恥ずかしくなりまた目をそらす。
「莉緒!」
爽一郎が入ってきた扉から今度は真由が飛び込んでくる。
「真由ちゃん」
「おめでとー」
爽一郎を押しのけ、真由は莉緒を抱きしめた。
「莉緒ならやってくれると思ったのー」
「真由ちゃん・・」
「喜ぶのはまだ早い」
正樹の声が響き渡る。一斉に振り向く。
「第三ステージで作ってもらった弁当の評価がまだだ」
正樹の言葉に、弁当箱を持った男性が現れる。更には音楽テストを行った部屋から、莉緒と争っていた参加者が現れた。
「最後のテストは、この弁当の評価だ」
正樹は弁当を机の上に置くように指示した。弁当箱が二つ並べられる。同じような弁当箱で、作った本人しかどっちがどっちだか分からなかった。
「これは爽一郎、お前が審査員だ」
「え?」
「この二つのうち、お前が美味いと思った方が優勝だ」
「そんな・・」
爽一郎は困り果てた。思わず莉緒と顔を見合わせる。もう一人の参加者、扶美は表情を変えることなく事を見守っている。
「分かりました」
爽一郎はそう言うと、弁当箱を持ってきた男性から箸を受け取った。
まず左側の弁当箱から、おかずをつまみ口へ運ぶ。そして味を確かめるようにして飲み込む。次に右側の弁当箱に箸をつけた。同じように味を確かめた。
莉緒は今までのどんな出来事よりも緊張した。爽一郎に初めて弁当を食べてもらった日以来の緊張感だった。
箸を置いた爽一郎は、静かに口を開いた。
「両方とも、本当においしいです」
そう前置きした後、爽一郎はゆっくりと右の弁当箱を指差した。
「でもこっちのお弁当の方が俺の好みです」
一瞬辺りが静まり返る。弁当箱を持ってきた男性が弁当箱の蓋を同時に表に返す。すると名前が書いてあった。右の弁当箱の名前は・・。
「莉緒の弁当・・?」
真由が呟く。莉緒は嬉々として頷いた。
正樹は小さく舌打ちをした。爽一郎が正樹に向かって振り向く。
「これで決まりましたね」
正樹は爽一郎を睨んだ。しかし爽一郎は全く動じない。莉緒の近くにより、肩を抱く。
「これで正式に鈴原莉緒さんと婚約ですね」
爽一郎の言葉に、莉緒は驚いた。爽一郎の顔を見る。
「男に二言はないんですよね?」
爽一郎が挑発するように父に言うと、正樹は仕方なく頷いた。
「わ、分かってる。婚約発表はこれから一時間後。準備してこの会場に来なさい」
正樹はそう吐き捨てるように言うと、踵を返して歩いて行った。
莉緒はホッと胸を撫で下ろしたと同時に、とんでもない事にやっと気づいた。
「え・・っと・・婚約?」
確かに花嫁レースなので、そうなるとは予測できた。だが、莉緒の頭は完全にパニックになっていた。
その様子に爽一郎も気づいたようだった。真由は二人きりにしようと、部屋を出た。敗者の扶美もいつの間にかいなくなっていた。
「莉緒ちゃん」
パニックになっている莉緒を優しくリードし、椅子に座らせた。爽一郎自身は、莉緒の目の前に膝をつく。
「イキナリこんな展開になって、パニックになってると思う。そんな時に、こんなことを言うのは卑怯かもしれない。俺は・・ずっと莉緒ちゃんのことが好きだった」
突然の告白に、莉緒の頭は真っ白になった。爽一郎は続けた。
「勝手に期待してたんだ。あの短い時間、話し相手になってくれることも、莉緒ちゃんが弁当を作ってくれることも・・。莉緒ちゃんも俺のこと、好きでいてくれるんじゃないかって。だけど・・怖くて言えなかった。嘘をついてたから・・それを知った時に嫌われるんじゃないかって。前に・・言ってたよね?『裏切られるのが怖い』って・・。俺が嘘をついてることは・・その裏切り行為になるんじゃないかって、ずっと思ってた。だから・・余計に言えなかったんだ」
爽一郎は莉緒の真っ直ぐな瞳から目をそらした。少し落ち着いた莉緒は、やっと口を開いた。
「確かに・・驚きました・・。だって・・バイト先の副社長だったなんて・・」
少しの間が開く。
「でも・・あたしもいつの間にか・・爽一さん・・ううん、爽一郎さんに、惹かれていたのかもしれません」
その言葉に爽一郎は顔を上げた。恥ずかしくなったのか、今度は莉緒が目をそらす。
「莉緒ちゃん」
静かな声に莉緒は爽一郎と目を合わせた。
「俺と結婚を前提に付き合ってもらえますか?」
莉緒は自分の鼓動が高鳴るのを感じた。必死で抑えながら、頷いた。
「はい。喜んで」