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ACT 2 close to you
四月に入り、莉緒は高校二年生になった。とりあえず無事に進級できてホッとする。でも相変わらず爽一は現れなかった。莉緒はもう期待しないことにした。バイトから家に戻るとき、見つけた人影にドキドキするのも、もうやめよう。このまま期待し続けていたら、きっと心が壊れてしまう。爽一は存在しなかった。そう思うことにした。 それから一週間後。莉緒は爽一のことを考えないようにしていた。それでもちらつく頭の片隅にあるあの日の残像。 (あんなことするからだ・・) 忘れようと思っても忘れられない。あの優しさに甘えなければ、今頃忘れていたのに。だけどあの時甘えたからこそ今の自分が居ることも否定できない。 「はぁ・・」 莉緒はまた深い溜息をついた。 「鈴原さん。上がりだよ〜」 「あ、はい。お疲れ様でした」 莉緒は喫茶店のバイトを上がった。 裏口を出ると、人影が見えた。 (まさか・・) 半信半疑のまま莉緒はその場に立ち尽くしていた。人影が近寄ってくる。 「久しぶり」 見覚えのある笑顔に、莉緒は言葉を失った。 「忘れられた?」 苦笑しながら爽一が言う。忘れる訳なかった。この二ヶ月弱、忘れようと思っても忘れられなかった。莉緒は、何だか胸の奥からこみ上げてくるのが分かった。何故か涙が溢れる。 「忘れるわけないじゃん!」 莉緒が涙を浮かべているのに気づき、爽一はぎょっとした。 「あたし・・ずっと・・嫌われてるのかと思ったのに・・」 そう言うと、爽一は莉緒に近づいた。ふわっと抱き寄せられる。暖かい腕に莉緒はまた安心感を覚えた。 「嫌うわけないじゃん」 莉緒と同じような言い方でそう言う。 「イジワル・・」 呟くと、爽一は苦笑した。 「ごめん。仕事、抜けれなくてさ。何度も会いに行こうとしたんだけど・・」 真由の予感的中で、莉緒は安心した。嫌われていなかった。それだけで嬉しかった。 「でも・・会いに行くことも迷った」 「え?」 爽一は抱き寄せていた莉緒の肩を持ち、少し離して、莉緒の目を見る。 「また会えなくなったりしたら、君を傷つけるだけじゃないかと思ったから」 その言葉に莉緒は思わず首を振った。 「そんな・・」 「このまま会わないでいたら、君も俺のことなんか忘れてくれるって・・。だけど、俺が我慢できなかった」 爽一ははにかんで笑った。 「ごめん・・。俺の我侭に付き合わせて・・」 莉緒は慌てて首を振った。 「いえ・・。あたしも・・会いたいって思ってました・・」 「え?」 爽一は思わず莉緒の肩から手を離した。 「あの時のお礼も・・ちゃんと言えてなくて」 「そんなのいいのに・・」 「いえ・・あの時、泣けたから、今のあたしがあると思うし・・。すごく・・心が軽くなったんです。本当にありがとうございました」 頭を下げると、爽一が慌てた。 「そんな・・。でも・・よかった。あ、そうだ・・」 爽一はコートのポケットを探った。携帯電話を取り出す。 「はい」 「え?」 取り出した携帯電話を莉緒に渡され、戸惑う。 「連絡、取れた方がいいと思って。俺の番号とメルアド入ってるから」 「あ・・でも・・」 「お金は俺が払うから心配しなくていいよ」 「いや・・あの・・」 「俺の我侭にもう少しだけ付き合ってくれる?」 「・・はい」 爽一の目が寂しそうに見えて、思わず頷いてしまう。 「あの・・一つ聞いていいですか?」 莉緒は気になっていたことを聞いてみることにした。 「うん?」 「どうして・・あたしなんですか?」 突然の問いに、爽一は驚いた。 「あたし・・特に取柄なんてなくて、美人って訳でもないし・・。普通の高校生だし。それに爽一さんなら周りの人がほっとかないと思うんですけど・・」 そう言うと、爽一は柔らかく笑った。 「莉緒ちゃんは、自分で気づいてないんだね?」 「え?」 「こんなに魅力的な女性なのに」 その言葉に、莉緒はボンッと顔から火を噴いた。それを見て爽一がクスクスと笑っている。 「な・・遊ばないでください!」 「遊んでないって。ごめんごめん。君があまりに素直だから」 爽一は笑いを堪えながら言った。むぅと膨れると、また謝る。 「ごめんって。でもさっきのは本心だよ」 『魅力的』なんて初めて言われたので、まだ顔が熱い。高鳴る鼓動を抑え、何でもないフリをする。 「帰ろうか」 爽一の言葉に頷き、二人は歩き始めた。 「爽一さん、ちゃんとご飯食べてます?」 「え?」 「少し痩せたような気がするんですけど」 「そう?」 莉緒が頷くと爽一は困った顔をした。 「うーん・・実は最近ちゃんと食べれてないんだよね・・」 「ダメですよ。忙しい人こそちゃんとご飯食べなきゃ」 「分かってるんだけどねぇ」 爽一は苦笑した。 「莉緒ちゃんが作ってくれたら食べるよ」 「へ?」 思わぬ回答に莉緒は変な声を出してしまった。その慌てぶりにまた爽一がクスクス笑っている。莉緒は顔がまた赤くなった。 「冗談だよ。冗談」 クククッと笑いを堪えている爽一に、莉緒は恥ずかしくなった。 (やっぱりからかわれてる?) 莉緒は爽一を盗み見た。何でもない顔をしているが、顔が青白い気がする。 「爽一さん・・」 「ん?」 「やっぱり本当に顔色悪いですよ?」 本気で心配すると、爽一は驚いた顔をした。 「ありがとう。優しいんだね。莉緒ちゃん」 「そんな・・。ホントにちゃんと食べないと、爽一さん・・倒れちゃいますよ?そうなったら・・」 「そうなったら?」 何かを期待してそうな聞き返し方に気づく。 「会社の人たちが困りますよ!」 莉緒は上手くかわしたと思ったが、そう言われた爽一の顔が少し寂しそうな笑顔になった。 「そうだね」 笑顔だが、どことなく寂しそうだ。 「ごめんね。心配までさせちゃって・・」 「そういう意味じゃ・・」 莉緒は上手い言葉が見つからずに、それだけしか言えなかった。沈黙が流れる。 「あのさ・・」 爽一が口を開く。その瞬間、爽一の携帯電話が鳴る。 「・・ごめん」 爽一はサブディスプレイを確かめ、携帯に出た。会社の人からのようだ。相変わらず忙しい人だ。しばらくして爽一は携帯電話を切った。 「相変わらずお忙しいんですね」 莉緒が言うと、爽一は溜息と共に「そうなんだよ」と言った。 「あの・・さっき何か言おうとしてましたよね?」 莉緒は電話がかかってくる直前に爽一が何かの話を切り出そうとしたことを思い出した。 「あー・・やっぱいいや」 「え?」 「また今度話すよ」 「気になるじゃないですか」 「大した事じゃないから」 莉緒はそれでも気になったが、これ以上聞いても爽一は言わないだろう。 いつの間にか莉緒の家が目前だった。もっとちゃんと話をしたかったのに・・。 少し寂しく思いながらも自宅のアパートの前まで着いてしまう。 「じゃあ・・ここで。メールならいつでもオッケーだから」 「あ、はい」 携帯をもらったことを今頃思い出す。 「じゃあね」 「あの・・」 思わず爽一を呼び止めてしまったが、引き止める話題もないことに焦る。 「ん?」 「あの・・ちゃんと・・食べる物食べてくださいね」 莉緒の言葉に一瞬驚いた顔をしたが、ぷっと笑い出す。 「ありがと。ちゃんと食べるよ」 違う。こんなことが言いたいんじゃなくて。 「えっと・・今度来るときは、ちゃんと・・メール下さい」 「分かった。行けそうだったらメールするよ。じゃあね」 爽一が背を向けて歩き出す。莉緒はさよならが言えず、その背中を見送った。 「で?携帯渡されたって?莉緒はどうだったのよ?」 真由が楽しそうに聞いてくる。今日はバイト帰りに真由に会ったのだった。 「携帯渡されて、これでいつでも連絡取れるって思った自分がいたのが何か悔しかった」 「ええー。悔しいって何よ」 「分かんないけど・・。そう思っちゃったんだもん」 「で?で?メールとかしたの?」 莉緒は真由をじっと見た。 「実はね・・。そのやり方が分かんなくて」 泣きそうな声で莉緒が訴える。 「ええ?何で?」 「だって・・あたし携帯持ったことないんだもん・・。説明書もなしだよ?」 携帯を裸で渡されたので、取扱説明書すらなかった。 「あーそっか。今その携帯持ってるっしょ?」 「うん」 莉緒は携帯を取り出して、真由に渡した。真由は慣れた手付きで携帯をいじり始めた。 「ふーん」 「何?そのふーんって・・」 「爽一さんって言うんだね?」 「うん」 確認するように問う真由に莉緒が頷く。 「メールの仕方教えてあげるからさ、試しに爽一さんに送ってみなよ」 真由が笑顔で提案する。・・・絶対面白がってる・・。それでも真由にしか聞けないので、仕方なく頷く。 「じゃあ、はい」 携帯を渡され、真由が横から画面とボタンの説明を始める。始めはちんぷんかんぷんだったが、段々と少しずつ分かってきた。 「飲み込み早いね。じゃあ、それでメール打ってみてよ」 「う、うん」 「ちゃんと爽一さんに送るやつだよ?」 「わ、分かってるよ」 念を押す真由に、莉緒は仕方なく返事をする。でも・・何を送ればいいのか分からない。 「どしたの?」 一向にメールを打とうとしない莉緒に真由が問う。 「何て打ったらいいの?」 「そうねぇ・・。携帯のお礼とか」 真由の言うとおり、莉緒はメールを打った。打ち終わったメールを真由がチェックする。 「・・硬すぎ」 「ええ・・」 真由先生がメールを打ち直す。さすがにメール打つのがめちゃくちゃ早い。 「こんなもんでしょ」 と真由に返されたメール本文は内容は変わっていないものの、絵文字がたくさん使われていた。 「何か・・何て言うか・・すごいね」 「すごくないわよ。皆こんなもんよ。それ、送信してね」 「は、はひ」 莉緒は教わった通りに送信ボタンを押した。 爽一は初めて鳴った着信に、驚いた。仕事の手を止め、ポケットから携帯を取り出す。莉緒と繋がっていたくて買った、二人だけの携帯電話。爽一は早速メールを開いた。 『莉緒です。この間は、携帯をありがとうございました。メールをするのが遅くなってごめんなさいm(._.*)m今バイトが終わったところで、友達と家に帰る途中です(。・・。)今度爽一さんが来られるときは、必ず連絡してくださいね(・ω・)ノ』 所々に絵文字が入っていることに気づく。女子高生らしいと言っちゃらしい。実は莉緒じゃなく、その友達が打ったんじゃないだろうか? 爽一は自分でも気づかずに笑顔になっていた。早速返信をする。 送信ボタンを押すと、携帯をまたポケットにしまった。 すぐに戻ってきた返事に莉緒は驚いた。まさかこんなに早く返ってくるとは思わなかったのだ。 「何て返ってきたの?」 真由がワクワクしながら、携帯画面を覗き込んだ。 『分かってる。明日は、行けると思う。はっきりしたことが分かったらまた明日メールするよ』 たった数行しかない返信に真由はつまらなそうに溜息をついた。 「これだけぇ?」 もっと何かリアクションしてもいいんじゃないのかと言いたそうだ。 「仕方ないよ。お仕事中かもだし」 莉緒は予想していた通りの返事だったので、それだけでも満足だと言うように言った。携帯を閉じ、鞄に入れる。 「でも・・もうちょっとリアクションくれてもよくない?」 「しょうがないって」 「・・莉緒がそう言うならそうなんだろうけどさ・・。爽一さんってそんなに喋らないの?」 「ううん。よく喋るよ」 「ふーん」 真由は信用していないようだ。でも莉緒は嬉しかった。たった数行だけの返信でも、そのために爽一が時間を割いてくれていると思うと、何だかくすぐったかった。会えなくても繋がっていられることが、何だか嬉しい。 自然と笑顔になっている莉緒に気づいた真由も、笑顔になっていた。 翌日。学校帰りに携帯が震えた。それに気づいた莉緒は制服のポケットから携帯を取り出した。着信はもちろん爽一からだった。携帯を開くと、今着信したメールが開く。 『今日のバイトは喫茶店だったよね?いつもと同じ時間に裏口で待ってる』 たったそれだけだった。莉緒は真由に教わった通りに返信をした。 『はい。今日は少しだけ時間もらってもいいですか?』 送信してから数分後に戻ってくる。 『大丈夫だよ。仕事終わらせて行くから。楽しみにしてるよ』 最後の一文に莉緒は嬉しくなった。短い時間会うことが、お互いの楽しみになっていると知って、安心した。 付き合っているわけじゃない。ただ会って話すだけ。だけど、それは莉緒にとって、確実にかけがえのない時間になっていた。爽一も同じ気持ちであって欲しいと思っていた。普段の生活では決して出会うことさえなかった二人。その二人が時間を共有していることが、不思議で、くすぐったくて、照れくさくて、嬉しいものだった。 莉緒は買い物を済ませて家に戻ると、着替えて、早速夕飯の支度をした。食事の支度は、ほぼ莉緒の仕事だった。家事は分担しているとは言え、ほとんどの時間働きに出ている母は時間的に家事を全てこなすのは無理だった。莉緒は夕飯の支度をしてからいつもバイトに出かけるのだった。 今日は少し多めに作る。皮肉なことに無駄なく食材を使う知恵もついてきた。料理は昔から好きで、よく母の手伝いをしていたので、決して苦ではない。 莉緒は母が好きな和食を作った。肉じゃがにワカメと豆腐のお味噌汁に焼き魚。魚はとりあえず一匹だけ焼く。肉じゃがをタッパーに入れ、味噌汁を小さな水筒に入れる。ご飯を弁当箱に詰め、焼けた魚も入れる。それを鞄に詰め込み、準備が整う。最後に母宛にメモを残す。 「よし」 弁当箱、水筒、お箸、お絞りがあるのを確認し、家を出た。 バイトが終わり、裏口から出ると、約束通り爽一が待っていた。 「お待たせしました」 「いや。さっき来たところだよ」 爽一はそう言って微笑んだ。スーツの上にスプリングコートを羽織っていた。二人は公園に入った。誰も居ない公園のベンチに座る。灯りの下のベンチなので、お互いの顔ははっきり見えた。 「で・・時間欲しいって言ってたのは?」 爽一が口火を切る。莉緒はどう言っていいか悩んだ。 「あの・・ご飯・・食べました?」 「あ・・いや。今日はまだだな」 「よかった」 「え?」 爽一は何のことだかさっぱり分からず、莉緒を見つめた。 「あの・・夕飯、作ってきたんです」 そう言いながら莉緒は弁当箱を取り出した。突然のことに、爽一は驚いた。 「え・・莉緒ちゃんが作ったの・・?」 「・・はい」 莉緒は照れながら答えた。弁当箱を自分と爽一の間に並べる。タッパーの蓋を開けると、爽一は驚いた。 「・・肉じゃが・・」 「あ、はい。あの・・もしかして嫌いでした?苦手なものとか・・聞くの忘れてて・・」 「あー、いや。大丈夫だよ」 本当は苦手だった。和食全般あんまり好きではなかった。だけどせっかく作ってきてくれたのに、嫌いだなんて言えない。 「無理しないでくださいね・・。勝手に作ってきたあたしが悪いんですから・・。」 「いやいや。・・でもスゴイね。全部莉緒ちゃんが?」 「はい・・。和食は母が好きで・・よく作るんです」 莉緒はご飯が入った弁当箱を開け、爽一に手渡した。 「こんなところでご飯なんて・・アレですけど・・」 割り箸を取り出し、爽一に渡す。そして水筒に入っている味噌汁を注いで、ベンチに置いた。 爽一は割り箸を割ると、早速肉じゃがに箸を付けた。じゃがいもがふんわりしているのが、感触で伝わる。肉じゃが入りのタッパーを持ち、汁が垂れないように口に運んだ。 その様子を莉緒が心配そうに見ている。 「・・美味い!」 「ホントに?」 莉緒の顔が明るくなる。爽一は深く頷いた。冷めているが、美味しさに変わりはなかった。 「初めてだよ。こんなに美味しい肉じゃが食べたの」 思いがけない褒め言葉に莉緒は照れ笑いを浮かべた。 「・・本当言うと、苦手だったんだ。和食」 突然カミングアウトをし始める爽一。莉緒は耳を傾けた。 「母が料理があんまり上手くないもんでね。和食は特に酷かった・・」 爽一は溜息を漏らした。 「それで・・変にトラウマと言うか・・苦手意識を持ってしまっていたんだ」 「そうだったんですか」 爽一にも苦手なものがあったことを知って、莉緒は何だか嬉しくなった。爽一は何処か全てが完璧のように見えていたからかもしれない。 「でもこれで苦手じゃなくなったよ」 爽一はそう言って微笑んだ。爽一は莉緒の手料理に舌鼓を打った。 「楽しそうね?莉緒。何かいいことあった?」 母に聞かれる。食事を作っていることを話すか少し迷ったが、隠し事はしないでおこうと話すことにした。 「やるじゃない」 思いもよらない母の反応に、莉緒はどう返していいか分からなかった。 「何よ。それ」 「男は肉じゃがに弱いのよぉ」 母は楽しそうに言った。 「何それ〜」 母はフフッと笑ってごまかした。 「莉緒、その人のこと好きなの?」 「え・・」 突然の問いに、莉緒は固まった。 「どうなのよぉ。お弁当作っていくくらいなんだから、好きなんでしょ?」 「えー・・」 どうなんだろう。自分でもよく分からない。 「わ・・分かんないよ・・。そんなの」 「エー」 母は不満そうな声を漏らした。だけど分からないものは分からない。 「それより・・母さん、顔色悪いよ?」 「そお?」 母はケロッと言ったが、どう見ても顔色が悪い。 「疲れたのかしらねぇ。ここんとこ忙しかったから。寝たら治るわよぉ」 母はどう考えても、莉緒に心配かけないように言っていた。心配だが、強く言ったとしても「大丈夫」と言うだけだろう。 「本当に?・・今日はもう休んだ方がいいんじゃない?」 「そうね。そうするわ。じゃあおやすみ」 「おやすみ」 母は莉緒の言葉に素直に従った。 それから莉緒は、時間が合う日は爽一に食事を作った。お節介かとは思ったが、爽一は喜んでくれた。 爽一はハンバーグやカレーやエビフライと言った子供が好きそうなものばかりが好きだった。何だかかわいくて、莉緒はそれを聞いたとき小さく笑ってしまった。 「・・今笑ったな」 爽一が照れたように言った。 「笑ってませんよ」 莉緒は何でもないフリをした。 「どうせ子供みたいと思ったんだろう?」 自覚はしているようだ。 「でも・・何か安心しました」 「え?」 「爽一さんもかわいいところあるんだなぁって」 莉緒の言葉にどう返していいか分からず、爽一はほっぺたをかいた。 「でも・・莉緒ちゃんが作る和食は・・好きだよ」 爽一の頬が少し赤いのが見えた。 「ありがとうございます」 莉緒は極上の笑顔を見せた。 その日も莉緒はウキウキ気分でバイトを終えた。店の裏口から出ると、爽一が待っていた。 「お待たせです」 「お疲れ様」 二人が歩調を合わせて歩き出したその時、裏口のドアが勢いよく開いた。大きな音に二人が振り返ると、店長が青ざめた顔をしていた。 「どうしたんですか?店長」 莉緒が駆け寄ると、店長が口を開いた。 「鈴原、お母さんが倒れたそうだ」 「え?」 思いがけぬ言葉に、莉緒の頭が真っ白になる。爽一が慌てて近寄ってくる。 「どこの病院ですかっ?」 「市民病院だ」 「莉緒ちゃん、行こう」 「え・・」 莉緒は震えていた。歩き出そうとしない莉緒の手を握り、爽一は駆け出した。 大通りに出ると、爽一が待たせてたらしい車があった。爽一は後部座席のドアを開け、莉緒を乗せた。自分も乗り込み、莉緒の隣に座る。 「市民病院へ。急いで」 「はい」 運転手は返事をすると、発進した。莉緒は状況が分からないだけに、ただ震えていた。数日前、顔色が悪かった。あの時、もっと強く言って病院に行くべきだったのかもしれない。 「大丈夫だよ」 爽一は震える莉緒の肩を優しく抱いた。 「大丈夫」 爽一は優しく莉緒に繰り返した。頭の上で響く爽一の言葉を、莉緒は心の中で同じように繰り返した。 病院に着くと、爽一はまた莉緒の手を握った。繋いだ手から伝わる温もりが、莉緒を安心させた。 「あの・・鈴原さんが運ばれたって・・」 莉緒の代わりに爽一が看護士に尋ねてくれた。一人じゃなくてよかったと実感する。 「鈴原さんのご家族の方ですか?」 「あ、はい」 「こちらです」 看護士が二人を案内した。母は既に病室で眠っていた。母の顔を見て莉緒はホッとした。それと同時に涙が溢れた。 「よかった・・」 気持ちよさそうに寝ている母に安心した。 「鈴原さん。お話が」 医者が顔をのぞかせた。莉緒は爽一と顔を見合わせた。不安そうな莉緒に爽一もついて行く事にした。 「お母さんは過労で倒れたようです」 「過労・・ですか」 「たくさんお仕事されてたみたいですね」 「あ、はい」 そりゃ、一日十時間以上働いていたら、過労で倒れてもおかしくはないだろう。 「それから・・。先ほど色々検査したんですが・・」 医者は少し口ごもった。 「癌に・・侵されているようです」 「え?」 莉緒は奈落の底に突き落とされたような宣告を受けた。 「と言っても初期段階なので、すぐに手術をすればすぐに治りますよ」 「・・手術・・」 莉緒は悩んだ。手術費用がないのだ。莉緒が何で悩んでいるかに気づいた爽一が口を開いた。 「すぐに手術できるんですか?」 「ええ。もちろん」 「お願いします」 莉緒の代わりに爽一がそう言った。 「手術費用は私が出します」 「爽・・」 莉緒が何かを言おうとしたのを、爽一が制する。 「分かりました。手術の日程はおいおい決めましょう。入院の手続きなどをしますので、受付へお願いします」 「よかったね。初期で見つかって」 「爽一さん・・。あの・・手術費用のことなんですけど・・返しますから!いつになるか分からないけど・・」 莉緒の言葉に爽一はゆっくりとこっちを向いた。 「莉緒ちゃん。返さなくていいよ。俺がそうしたいって思ったんだから」 「でも・・」 「莉緒ちゃんが全部荷物を負わなくてもいいんだよ」 爽一は優しく諭すように言った。妙に複雑な思いになる。 「甘えられるときに甘えるのも必要だと思うよ」 爽一は莉緒の肩を優しく叩いた。 母の手術は三日後の昼間に行われた。莉緒は学校を休んで、母に付き添った。 「心配しなくても大丈夫よ」 自分の病気を知った母は、心配そうに顔を覗き込む莉緒にそう言った。 「がんばってね」 莉緒は何とか声をかけた。その言葉に母は笑顔で頷く。手術室へ運ばれていく母を、莉緒は見送った。 『手術中』のランプが灯った。莉緒は椅子に座り、待つことにした。すぐに終わる、と自分に言い聞かせた。震える手を自分で抑えた。 しばらくすると、足音が聞こえてきた。莉緒は顔を上げて、足音の方へ顔を向けると、人影が見えた。 「爽一さん・・」 「やぁ」 短くそう言うと爽一は莉緒の隣に座った。 「お仕事は?」 「今日の分は片付けたよ」 そうは言ったが、きっと嘘だろうと、莉緒は直感した。 「無理に来なくても、良かったのに」 莉緒の呟きに、爽一は反論しようとしたが、莉緒の方が早く口を開いた。 「でも、来てくれてよかったです。大丈夫って分かってても・・一人で待つのは怖くて・・・」 莉緒は目を伏せた。爽一は優しく莉緒の肩を引き寄せた。 「大丈夫だよ」 母が倒れた日、病院に向かう車内で言った言葉を再び繰り返した。 「大丈夫」 数時間後。手術室のランプが消えた。それに気づいた二人は立ち上がった。医者が出てくる。 「あの・・」 「手術は無事に終わりましたよ。もう大丈夫です」 医者はにっこりと笑った。その言葉にこれまでになく莉緒は安心した。ゆっくりと母が運ばれて出てくる。 「お母さん」 呼びかけたが、返事はしなかった。 「まだ麻酔が効いてますから」 看護士が優しくそう言った。莉緒は母の穏やかな顔に胸を撫で下ろした。その瞬間、莉緒はフラッとよろけた。 「おわっ」 隣にいた爽一が慌てて抱きとめる。 「あ・・ごめんなさい」 「大丈夫?」 爽一に聞かれ、体勢を直しながら莉緒は頷いた。 「安心・・しちゃったみたいで・・」 「腰抜けた?」 爽一が笑いながら問う。莉緒ははにかんだ。 母は順調に回復していった。莉緒の生活は少しだけ変わった。学校へ行き、一度家に帰り、着替えなどの準備をしてからバイトへ出かけ、バイトが終わると病院へ向かった。そして病院で寝泊りして、そこからまた学校へ行くのだった。 「莉緒のお母さん、大事に至らなくてよかったねぇ」 いつものように真由がバイト先に現れ、病院まで一緒に向かってくれた。 「うん。爽一さんのおかげ」 「あー、そっか。手術費用、出してくれたんだったね」 「うん。ホント・・感謝しても感謝しきれないくらい」 「莉緒ってさ」 「ん?」 「爽一さんのこと、好きなの?」 「え・・?」 いつかの母の質問と同じことを聞かれ、莉緒は動揺した。 「その反応は好きっぽいな」 ニヤニヤと真由が笑っている。 「な・・何よ、それ。そんなんじゃないって!」 「何否定してんのよ?お弁当だって作ってるんでしょ?」 「それは・・爽一さんがちゃんとご飯食べないから・・」 自分で言ってて言い訳がましく聞こえる。 「素直に認めたら?その方が楽になるよ?」 容疑者を尋問する警察のようだ、と莉緒は思った。真由のイキイキした顔を見ると、余計に素直になれない。 「・・違うもん」 「まだ言うかぁ!」 真由は莉緒のほっぺたを軽く引っ張った。 「らってぇ・・」 「もう!素直にならないで損するのは莉緒なんだからねっ!」 分かってはいる。だけどまだ怖い。裏切られるかもしれない恐怖を持つくらいなら、好きにならない方がいいような気がした。 「莉緒?どうかした?」 俯いた莉緒を真由が覗き込む。莉緒は慌てて顔を上げた。 「え?ううん。何でもない」 「そう?あたし変なこと言った?」 「ううん。違うの。何でもない」 「ならいいけど・・」 二人はいつの間にか病院の前に来ていた。 「いつもありがとね。真由ちゃん」 「ん?お礼言われるようなことしたっけ?」 何でお礼を言われたのか分からず、聞き返す。 「色々・・だよ」 「何それ?」 真由は思わず笑ってしまう。莉緒も笑った。 「じゃあ、ここで。またね」 「ばいばい」 真由と莉緒は病院の前で別れた。 「ここが入院先ね」 真由はそう呟くと、夜の闇に消えた。 翌日。学校が早く終わった莉緒は一度家に帰り、バイトの準備をして病院へ向かった。開け放たれた相部屋に入る。 「こんにちは」 周りの患者さんに挨拶をして、奥のベッドに向かう。すると、見慣れない女性が立っていた。年齢的に母と同じくらいだろうとは思う。 「あ・・の・・」 その声にようやく莉緒の存在に気づいた女性は、こちらに顔を向けた。母はよく眠っているようだ。 「母の知り合い・・ですか?」 「あー・・貴女が莉緒ちゃんね」 「え・・あ、はい」 どうやら自分の存在も知っているようだった。 「明子、よく寝てたから、起こさずに寝顔を見てたの。顔色もいいみたいね」 「ええ。手術は成功したので」 母の病状をどうやら知っているようだ。やっぱり母の知り合いなのだろう。 「それを聞いて安心したわ」 女性はそう言うとベッドから離れた。 「莉緒ちゃん。明子、強がりだからあまり弱いところを見せないとは思うけど・・支えになってあげてね」 「はい」 母の性格をよく知っている人物のようだ。 「じゃあ・・これで失礼するわ。あ、これ。お見舞いね」 女性に果物かごを渡される。 「あ、ありがとうございます」 そう言うと、女性は柔らかく笑った。一瞬どこかで見たことがある気がしたが、それがどこでなのか思い出せなかった。 女性は病室から出て行ってしまった。 「あ・・名前聞くの忘れちゃった・・」 母が目覚めてから、女性の話をしたが、母は首を傾げた。 「えー・・莉緒、どんな人だった?」 「どんな・・」 莉緒は女性からもらったかごに入っていたリンゴを剥きながら、思い出した。 「上品な感じだったよ。お母さんのこと、よく知ってたみたいだし」 「うーん。上品ねぇ・・」 自分にそんな友達がいたのだろうか?と記憶をひっくり返しているようだ。 「お母さんと年は変わらないと思うんだけど・・」 莉緒は皮を剥いたリンゴを母に渡した。 「ありがと」 母は受け取って食べ始めた。それでもまだ考えている。 「あ」 莉緒はふと思い出した。 「何?」 「柔らかく笑う人だったよ」 「柔らかく?」 莉緒はうんうんと頷くが、母はまた首を傾げた。莉緒は何となく時計を見ると、もうバイトの時間が迫っていた。 「あ・・お母さん、ごめん。バイト行ってくるね」 「うん。いってらっしゃい」 莉緒は荷物を持って準備をした。 「あ・・」 母に呼び止められ、莉緒が振り返る。 「莉緒、無理に病院来なくていいのよ?」 「何言ってんのよ?」 「だって学校行ってバイト行って病院もって大変でしょ?」 「大丈夫よ。お母さんの元気な顔見たら、あたしも元気になれるから」 「そお?・・バイト、がんばってね」 「うん。いってきます」 莉緒は母に別れを告げ、病室を出た。莉緒が居なくなっても、母はまだ考えていた。 「・・もしかして・・?・・・でも・・・」 思い当たる節を見つけるが、母は首を振った。 「まさかね」 今日は『行けないかも』とメールをくれていた爽一が来ていた。 「仕事・・大丈夫なんですか?」 「うん。疲れたから明日に回したよ」 「え・・。大丈夫ですか?」 莉緒は慌てて爽一の顔を覗いた。以前よりは明るくはなっているが、疲れが見える。 「こんなとこ来ないで、お家で休んでた方がよかったんじゃないですか?」 そう言うと、爽一は莉緒を見つめた。 「莉緒ちゃんの顔見てた方が、よっぽど疲れも取れるよ」 その言葉に、莉緒の顔はボンと赤くなった。本心なのか、冗談なのか掴めない。 「お母さん、退院できそう?」 急に話題を変えられ、莉緒は一瞬口ごもった。 「あ・・。はい。ありがとうございました」 莉緒は一礼した。 「手術費・・爽一さんが出してくれなかったら、ホント・・どうしようかと思いました」 「それはいいんだけどね」 爽一は苦笑した。会う度にお礼を言われるのもちょっと恥ずかしい。 「退院の日って決まった?」 「このまま急変しなかったら、今週の土曜日には退院できるみたいです」 「そっか。退院できるといいね」 「はい」 莉緒は笑顔で頷いた。 そして土曜日。母の経過は良く、予定通り退院できることになった。 お世話になった医者や看護士に別れを告げ、二人は病院を出た。その二人の前に一台の車が止まる。 「莉緒ちゃん」 後部座席の窓が開き、名前を呼ばれる。 「爽一さん!」 莉緒は心底驚いた。爽一は車を降り、母の荷物を持った。 「どうぞ。乗ってください」 運転手がトランクを開け、荷物を爽一から受け取るとそこにしまった。 「送っていきます」 「え・・でも・・」 二人が渋るが、爽一の言葉に甘えることにした。 車に乗り込むと、自己紹介が始まった。ちなみに席は莉緒を真ん中に座っている。 「初めまして。莉緒ちゃんにお世話になっている春日爽一と申します」 「莉緒の母です」 母は思わぬ美形に驚いているようだ。 「お母さん、この爽一さんが手術費用、出してくださったの」 「そうだったんですか。その節はありがとうございました」 「いえ。お役に立てて何よりです」 爽一の笑顔が眩しい。 「ちょっと莉緒。上玉じゃない!」 母がそっと莉緒に耳打ちする。 「何言ってんのよ!」 こんな時にそんな話に繋げないで欲しい。 「美形だし・・社長さんなんでしょ?」 「そうだけど・・。そんなんじゃないってば」 「あの・・?」 耳打ちが全く聞こえていない爽一は、声をかけた。二人は何でもないと微笑んで返した。 「そう言えば、爽一さん、お仕事中じゃなかったんですか?」 「大丈夫。弟に代わりやらせてるから」 にっこりと爽一が言った。 「弟さんいらっしゃるんですか?」 「うん。三つ下にね。一応大学生なんだけど・・フラフラしてるから、暇なら手伝えって無理やりね」 「それでよく逃げ出しませんね」 「あぁ。母が見張っているからね」 「お母さん、厳しいんですか?」 「怒るとおっかないからね。弟も母を怒らすとろくなことないって分かってるから、なるべく母には逆らわないようにしてるみたいだ」 「へぇ。」 莉緒は想像して思わず笑った。兄弟がいるってどんな感じなんだろう?とふと思う。 しばらく雑談していると、あっという間に自宅のアパートに着いた。荷物を運ぶのを手伝ってくれた。 「お茶でも飲んでってください」 「あー・・そうしたいのは山々なんだけど・・仕事に戻らなくちゃいけないんだ」 爽一は本当に残念そうだった。 「そっか・・。じゃあまた今度、お茶してください」 「そうするよ」 「あ、今日は・・来れます?」 「うーん。まだ分からないから、後でメールするよ」 「はい」 莉緒は笑顔で返事した。 「じゃあ、また」 「「ありがとうございました」」 母と二人でお辞儀をして、爽一を見送った。 |