novela 【裏切り者】エントリー作品− 

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  ACT.1  壊頽(かいたい) 1-3  

 葬儀は都内で行うことにした。
 弔問に訪れたのは、光俊の会社の人や学生時代の友人たち、本来なら結婚式に呼ぶ予定だった人たちだ。まさか葬儀に呼ぶことになるとは思いもしなかった。
 それはきっと向こうだってそうだ。美奈子の事に気づいても、どう話しかけていいか分からないのか、頭を下げて通り過ぎて行く。
 だがその方が有難かった。光俊の知り合いとはいえ、すべての人を知っているわけではない。そんな知らない人を相手に話をできるほどの精神を今は持っていない。

 遺影に映る光俊は、相変わらず優しく微笑んでいる。でももうこの笑顔を見ることはできない。
 そう頭の中では理解しているのに、心のどこかで夢なんじゃないかと思っている。胸が苦しくて息ができない。泣きたいのに、涙は一滴も出て来てくれない。
 夢なら早く醒めて欲しいのに、醒めることのない悪夢。
 実感なんて、全然ない。棺に入っている光俊は、誰か別人なんじゃないのか。そんな気さえしてくる。

 献花の際、棺の蓋が開けられた。棺で眠る光俊の頬にそっと触れてみる。
 やっぱり冷たくて、『死』を実感するには十分すぎるほどだった。
 だけど心のどこかで否定をしている。『これは悪い夢なんだ』って。夢から醒めれば、きっと光俊はあの温かい笑顔で迎えてくれる。
 そう思わずにはいられない。

「美奈子さん」
 火葬場へ行く途中で呼び止められ、美奈子は顔を上げた。目の前にいた人物は、確か光俊の友人だ。
「お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか? 後藤です。後藤忠和です」
 名乗った男性は何度か会ったことがあるので、美奈子は頷いた。
「本当に急、でしたよね」
「ええ」
 どう話をしていいのか分からない。だって彼に会う時はいつも光俊がいたから。
「事故、だったんですか?」
 そう訊かれ、美奈子は頷いた。
「はい。歩道橋から滑り落ちて……打ち所が悪かったんだろうって」
 美奈子は警察に言われたことをそのまま伝えた。それを聞いた忠和は溜息を漏らす。
「あいつにしてはマヌケな死に方ですね」
 美奈子はその言葉に少し笑った。
「ホントに」
「それにこんな綺麗な婚約者を残して逝くなんて……」
 その言葉に美奈子は曖昧に笑う。
「美奈子さん、困ったことがあったら何でも言ってください。光俊の代わりにはなれないですけど、何でもお力になります」
 忠和の言葉は、支えを失った美奈子にとって有難い言葉だった。
「ありがとうございます」
「そうだ。名刺……」
 忠和はスーツの胸ポケットから、名刺ケースを取り出し、名刺を美奈子に差し出した。
「ここに携帯番号やメールアドレスも書いてるので、良かったら連絡下さい」
 断る理由もないので、素直に受け取る。
「ありがとうございます」
「また落ち着いたら、飲みにでも行きましょう。愚痴でも何でも聞きますから」
 忠和はそう言って柔らかく笑った。
「はい。是非」
 美奈子がそう言うと、忠和は嬉しそうに頷いた。

 棺が火葬炉の中に入って行く。もうあの優しい笑顔を見ることも、その頬に触れることもできない。
 骨上げも参加させてもらった。だけど全く実感がない。
 これが本当に、光俊なのか? そう疑いたくなる。
 きっとここにいる全員が思っている。人間はこんなにあっさりと死んでしまうのかと。
 こんなに呆気なく終わってしまうのかと。

 すべてがあっという間で、葬儀が終われば皆は日常に戻って行く。
 それが当然なのだが、光俊がこの世からいなくなったことをすぐに忘れられてしまったようで、悲しい。

 悲しくて、何も喉に通らないはずのに、体は食べ物を要求する。
 こんなにも悲しいのに、通常どおり食べ物を摂取する自分が非情な人間に思えてきて、余計に悲しくなる。
 こうやって少しずつ忘れて行くのだろうか?
 二人で過ごした日々も、愛し合った温かい記憶も。

 上司は気遣って、もう少し休んでもいいと言ってくれたが、 美奈子は三日で復帰した。
 家にいても辛いだけで、仕事をしていた方が気が紛れる、と上司に説明すると納得してくれた。
 それでも社内のみんなが気を使ってくれているのが分かり、居心地はいいものではなかった。
 ただ一人。冴子を除いては。

「美奈ちゃん、これお願いね」
 冴子はそう言って大量の書類を机に残して行った。
 美奈子としては、気を使われるより、そうやっていつも通り仕事を頼んでくれた方が有難い。
 そんな冴子の影響もあってか、同僚たちもいつしか以前と同じ様に接するようになってくれた。

 光俊のマンションは、彼の両親が引き払い、遺骨も地元へ連れて帰ってしまった。
 美奈子の手元に残るのは、彼の眼鏡だけ。両親にお願いして、頂いたものだ。
 いつもはコンタクトレンズを入れている彼だったが、家にいて寛いでいる時はこの眼鏡をかけていた。
 そのリラックスしている姿が、美奈子は一番好きだった。
 いつも柔らかく笑う彼の笑顔を、この眼鏡が一層引き立てていたからだ。

 だけど最近では、浮かんでくるはずの光俊の笑顔は曖昧で、その声がどんなものだったかも思い出せない。
 どんな笑顔だった? どんな声で話してた?
 忘れたくないのに、靄がかかったように思い出せない。
 部屋に飾ってある写真に目を向けると、光俊はいつものように笑ってた。ずっと見てきたはずの笑顔なのに、心の奥にぽっかり穴が開いて、それを受け止められない。

 忘れたくないのに、消えていく。
 浸食されていくようにゆっくりと。

 整然としていたものが、何かの衝撃で一瞬で崩れ去るように、あの日からすべてが変わってしまった。
 音を立てて崩れてゆく、未来への希望。

 これからどうやって生きていけばいいのだろう?
 未来を約束した彼はもういない。

 もう枯れてしまったのか、ふとしたことで出てきた涙すらも出てこなくなった。

 こうして亡くなってしまった人を忘れて、生きていくしかないのだろうか?


 いつの間にか四十九日を迎え、美奈子は大阪の光俊の実家まで足を運んだ。
 相変わらず彼の両親は温かく迎えてくれた。お互い、未だに実感がないまま、法事は終わってしまった。


 ある日ふと目に入ったのは、棚に置いたままになっていた名刺。取り上げてみると、そこには『後藤忠和』という名前が書いてある。
『ここに携帯番号やメールアドレスも書いてるので、良かったら連絡下さい』
 そう言って渡された名刺。あの日以降、忘れてしまっていた。
『困ったことがあったら何でも言ってください。光俊の代わりにはなれないですけど、何でもお力になります』
 彼はそう言ってくれた。あの言葉は、本当に嬉しかった。
 電話をしてみようか……?
 ふと名刺の肩書を見てみると、『副社長』と書いてある。そう言えば彼は父親の会社の手伝いをしていると光俊が言っていた。
 忙しいだろうか? 邪魔になってしまうだろうか?
 あれはつい口から出てしまった言葉だったのだろうか? 本当に心から言ってくれた言葉だったのだろうか?
 悩んだってその真意が分かるわけない。
 何故か急に誰かに、光俊をよく知っている誰かに、会いたくなった。
 メールをしてみよう。メールならきっと、忙しくない時に見てくれる。
 それにいきなり電話をするのは、おこがましい気がする。
 そう思い立つと、美奈子は早速メールを打ち始めた。

 今日は土曜日で、美奈子の会社は休みだったが、忠和の会社が休みかどうかなんて分からない。副社長なら、土日関係なく働いているだろうか?
 時計を見ると、一時を過ぎていた。せめて十二時なら、昼休みだったかもしれない。副社長に昼休みがあるのかは分からないが。
 そんなことをぼんやりと考えていると、携帯電話が鳴った。
 驚いてすぐに携帯を取り上げると、忠和からの返信メールだった。早速開いてみる。
『ご連絡ありがとうございます。もしお昼がまだでしたら、一緒にランチなどはいかがでしょうか? 時間は少ししか取れませんが、私もお会いしてお話したいと思っていました』
 丁寧な文章に好感を持った美奈子は、もちろんOKだと返事をした。
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