novela 【つばさ】エントリー作品−   

モドル | ススム | モクジ

  act.5 進行と逆行 5-2  

 健太の家は、優子の家の二軒隣。幼いときからよく遊びに行っているので、高村家とは家族同然の付き合いだ。
 インターホンを鳴らすと、健太の母が出た。いつも通りすぐに通される。
 健太の部屋に入ると、健太は椅子に座って既に勉強をしていた。
「お。いらっしゃい」
「これ……お義母さんが焼いてくれたの」
 そう言って優子はクッキーの入ったタッパーを差し出すと、健太は嬉しそうに笑った。
「おー。美味そう!」
 その時部屋がノックされ、健太の母が入ってくる。
「勉強頑張ってね」
 お茶を出してくれた健太の母はそう言うと、部屋を出て行った。
「座れよ。始めよう」
 健太に言われるがまま、優子は部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に座り勉強道具を広げた。
 健太は足を怪我しているので、椅子に座り自分の机に向かっている。
 ふと足のギブスが目に入った。
「健太くん……怪我、大丈夫?」
 そう尋ねると、健太は驚いた顔をしつつも、笑顔になる。
「おう。もうだいぶマシんなった。風呂入る時とかめんどくせーけど」
「……ごめん、ね」
 小さく謝ると、健太は体ごとこちらを向いた。
「お前が気にすることねぇだろ。あれは事故だったんだし」
「そう、だけど……」
 自分の代わりに怪我をしたことには変わりはない。自分がもっと注意を払って歩いていれば、あんな事にはならなかったのに。
 そう思わずにはいられない。
 心が暗い闇で覆われていく。黒い物が沸いてきて、飲み込もうとしている。
『お前のせいだ!』
 どこかで悪魔の声が聞こえる。
『お前のせいでこうなったんだ!』
 それは自分でも十分すぎるほど分かっている。
『お前なんて生きている価値はない』
 冷酷なその言葉が、胸の奥で鳴り響く。
 そう、自分が怪我をしていればよかったのだ。自分さえいなければ、健太はこんな目に遭わなかったのだ。
 どうして自分が生きているのだろう。生きている価値さえない人間なのに……。

「優子?」
 突然俯いたままになってしまった幼馴染みに声をかける。しかし反応はない。
 また何かおかしな事でも考えているのだろうか?
 健太はこんな優子の姿を見るのが怖かった。
 どこかうつろな目をする彼女は、自分が知っている彼女じゃないようで、近寄りがたくなる。
 いつからこうなってしまったのか、健太はよく分かっている。
 それは、彼女の母親が彼女をかばって交通事故で亡くなった日からだ。
 何を考えているのかは分からない。だけどきっとよくないことだ。
 どうすれば彼女は、優子は前みたいに笑ってくれるのだろう?
 自分には、到底無理なのかもしれない。その術すら分からないのに、どうにかしたいなんておこがましいのかもしれない。
 それでも、それでもどうにかしたいって思うのは、彼女が、優子が好きだから。

 突然携帯電話が鳴り響く。今流行っている着うたなどではなく、ただ単調なメロディ。
 その瞬間、俯いていた優子が顔を上げた。
 その音を待ちわびていたかのように、携帯電話を取り出す。
「メール?」
 電話を耳に押し当てることをしないので、そう聞くと、優子は頷いた。
 メールなんて自分以外の誰が送るのだろう?
 そんなことをぼんやりと考えながら、メールを開く優子の姿をただ何となく見ていた。
「……!」
 瞬間、健太は自分の目を疑った。
 目の前にいる優子が、俯いて笑顔さえ見せなくなった優子が、今笑ったのだ。
 目の錯覚なんかではない。確かに今、優子は笑った。
 そう気づいた瞬間、ガラガラと何かが壊れていくような音がした。
 優子が笑顔を見せることがなくなってからの五年間、どうにかして笑顔を取り戻して欲しくて、健太は傍にいることを誓った。
 それなのに、今優子は確かに笑った。今まで為す術もなく見守っていた自分の目の前で。
 嬉しい反面、どこか複雑な気持ちになる。
 今までどうやっても笑ってくれなかったのに、メールだけで笑顔にできる人間がいるのかと思うとどうにも悔しい。
「誰から?」
 聞かずには居られなかった。誰が、どうやって、優子を笑顔にしたのかが気になって仕方がない。
「……翼くん」
 優子は短く名前を告げた。
「翼って……転校生の?」
 その問いに、優子は頷く。
 その瞬間、健太はぎゅっと拳に力が入ったことに自分でも驚いた。胸がざわつく。わめき散らしたい衝動を抑えるのに必死だった。
「……珍しいな」
 ようやく言葉を吐き出す。優子は次の言葉を待っているようだった。
「良かったじゃん。俺以外にも友達ができてさ」
 そう言うと、優子は恥ずかしいような嬉しいようなほんの少し笑みを浮かべて頷いた。

 胸が張り裂けそうだった。精一杯放った言葉で、優子は少しだけ笑ってくれた。
 嬉しいはずなのに悲しい。
「宿題、やろっか」
 そう言って教材を広げて、机に向き直る。優子も鞄から宿題を取り出し、準備を始めた。
 翼は入院している間に転校してきた。だからどういう風に友達になったのか分からない。
 優子に友達ができたことは喜ばしいことだと思う。だけどそれが寄りによって男だなんて……。
 優子は健太以外の男が苦手だ。それは元から優子がおとなしく、小学生の頃、よく男の子にイジメられていたからだ。
 そして必ずと言っていいほど、健太が助けに入っていた。
 もちろん、男女を意識してから遠ざかろうともした。だけどやっぱり放っておけなかった。優子のことが好きだと気づいたのは、その頃だ。
 ずっと優子の隣にいるのは自分だと思っていた。それは揺るぎないことだと。
 それがこうも簡単に崩されるなんて……。
 ここまできて、引き下がれない。負けてなんていられない。
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