−novela 【裏切り者】エントリー作品−
ACT.1 壊頽 1-2
案内された部屋は、よく刑事ドラマで見るような、無機質な部屋だった。その真ん中に真っ白な布をかけられた遺体が小さなベッドの上に横たわっており、奥にはお焼香が供えられていた。
「こちらへ」
若い刑事に顔が見える位置まで誘導され、美奈子はそこに立った。
顔の部分にかけられた白い布が外される。美奈子は思わず息を呑んだ。
「……っ!」
その顔を見た瞬間、全身が凍りついた。言葉を出そうにも何も出てこない。ただ、彼の顔を見つめることしかできない。
「石川さん、ご本人で間違いないですか?」
そう訊かれ、美奈子はようやくゆっくりと頷いた。
「はい。……間違いありません」
胸の奥が締め付けられる。
どうして彼が、こんなところで寝ているんだろう? 今、仕事の時間なのに……。
次の日曜には一緒に式場へ打ち合わせに行くって言っていたのに……。
「み、み……つくん」
ようやく口から出た声は、喉の奥でつっかえて震えていた。
ゆっくりと手を伸ばし、もう青白くなってしまった頬をそっと撫でる。
「何、やってるの? 今、仕事の……時間、でしょ?」
光俊はただ青白い顔をして、微動だにしない。温かかったはずの頬は、熱を失っている。
「次の日曜は……打ち合わせ、するんじゃなかったっけ?」
そう言った瞬間、美奈子の頬に涙が伝った。
もうあの笑顔は見れない。あの優しい声を聞くことも、温かい腕を感じることもできない。
そう実感せざるを得なかった。もうその瞼を開くことはないのだ。
止めどなく溢れる涙を止めることなどできなかった。
どれくらいその場にいたのか、正直覚えていない。
「美奈ちゃん」
突然声をかけられ、美奈子はようやく顔を上げた。
「冴子……先輩……」
そこには紛れもなく、冴子が立っていた。
「やっぱり……嫌な予感が……当たってたんだ」
冴子はベッドに横たわる光俊を見て、そう呟く。
「美奈ちゃん、いつまでもここにいちゃいけないわ。彼を連れて帰ってあげなきゃ」
冴子の言葉にようやく美奈子はその場を離れた。
最初に通された部屋で、若い刑事に色々と説明されたが、何一つ頭に入って来ない。そんな美奈子の代わりに、冴子が刑事の話を聞いていた。美奈子は何の説明を受けていたのか、よく覚えてない。
冴子が来てくれて良かった。自分一人では何もできない。
今だってあれは何か悪い夢だった気がしてならない。
「石川さんのご両親はどちらにいらっしゃるんですか?」
刑事に訊かれたのに答えない美奈子に、冴子が返事をするように促す。
「あ……実家は大阪の方です」
「そうですか……」
刑事はどうするか悩んだようだった。
「連絡先、分かりますか?」
「あ、はい」
刑事に訊かれ、美奈子は携帯電話を取り出した。電話帳を検索し、光俊の実家の電話番号を出す。
「ここです」
携帯電話のディスプレイを見せると、刑事はその番号をメモに取った。それが終わると携帯電話を美奈子に返す。
「ありがとうございます。連絡してみますね」
刑事はそう言って部屋を出て行った。
「……冴子先輩は、どうしてここに?」
ずっと気になっていた。どうして『嫌な予感』などと言ったのだろう?
「同じことがあったのよ。私の弟が事故に遭った時もね、警察からかかって来た時に『忘れ物を預かってるから取りに来てくれ』って言われたの」
だから美奈子が警察から『荷物を取りに来てくれ』と言われた時に、様子がおかしかったのだとようやく気づく。
「警察の人はね、亡くなったことを先に伝えて、ここに来るまでに動揺してその人が事故に遭わないように、そうやって言うのよ」
冴子の言葉に納得した。確かにそれを先に聞いていたら、ショックで自分が事故に遭いかねない。
「だからね、課長や社長に説明して追いかけてきたの。……来て、正解だったわね」
冴子が優しく微笑んだ。その優しい笑顔に、美奈子は思わず抱きついた。
「先輩!」
涙がまた溢れて来る。どうしていいのか分からない。
「どうしたら、いいんですか? 私、どうしたら……?」
壊れた玩具のように呟く。光俊がもういないなんて、考えられない。この先、どうしたらいいのか全く分からない。
「美奈ちゃん……」
冴子もどう言葉をかければいいのか、分からなかった。ただそっと美奈子を抱きしめた。
そうこうしているうちに、若い刑事が戻って来る。抱きついていた美奈子は冴子から少し離れた。
「石川さんのご両親は、夕方頃お見えになるそうです。その間、どうなさいますか?」
そう訊かれ、冴子は少し考えた。
「じゃあ一旦会社に戻って、荷物を取ってきます」
「分かりました」
そう言うと、若い刑事はそこに広げているままになっていた光俊の荷物を片付け始めた。
「先輩?」
「一旦戻りましょう。会社のみんなには私から説明してあげるから」
その言葉に頷き、二人は会社に戻ることにした。
本当に、冴子がいてくれてよかった。
今も頭が正常に回転していない美奈子は、冴子に支えられながら会社に戻ってきた。
「美奈ちゃんは帰る準備しておいで。私が課長たちに話してくるから」
「はい」
素直に冴子の言う通りにする。自分も行くべきかもしれないと思ったが、行ったところで何をどう説明したらいいのか分からない。ここは冴子に任せておいた方が得策だ。
美奈子がデスクに戻って来ると、課長が話しかけようとしてきた。それを冴子が遮るように立つ。
「課長、お話よろしいですか?」
「あぁ」
課長と冴子が社長室へと入って行ったのを、目の端で捕らえた。
未だに信じられない。どうしてこんなことになってしまったのか、分からない。
でもただ呆然としているだけじゃ、ダメだ。これからやるべきことはたくさんある。
だが、光俊のご両親にどう説明したらいいだろう?
美奈子はデスクに肘をつき、両手に顔を埋めた。
同僚は声をかけてこない。気を使ってるんだろうか?
でもそれは有難かった。今何を話しかけられても、答えられる心境ではない。
ふとデスクに山積みになっている書類が目に入った。やりかけのものと、今朝課長が置いて行ったままのまだ手を付けてないもの。
顔をあげ、その書類に手を伸ばそうとして、マウスに手が当たる。すると、省電力モードになっていたディスプレイが、ゆっくりと明るくなった。映し出された画面は、午前中に開いていたエクセル。お昼に出る前に上書き保存はしておいたが、念のためにもう一度上書き保存をして画面を閉じる。
やりかけの書類に付箋を貼り、まだ手を付けてない書類と分けて置いた。
その時、社長室から冴子が出てきた。
「美奈ちゃん、午後から休み頂いたから、一緒に帰りましょう」
「え? 冴子先輩も?」
聞き返すと、冴子は頷いた。
「せめて……彼のご両親が来られるまで、一緒にいようと思って……」
何とも心強い言葉だ。一人じゃきっと精神が保てない。
「だから帰る準備しましょう」
冴子の言葉に美奈子は素直に頷いた。
警察署に戻り、光俊の両親が来るのを待った。その間、ずっと冴子が隣にいてくれたのは、本当に心強かった。
「何かの……悪い夢、なんでしょうか?」
美奈子の呟きに、冴子はどう返事すればいいのか、分からなくなる。
「何かの……間違いであって欲しい……」
そう願わずにはいられない。
「……現実って……残酷よね」
冴子の言葉に、美奈子は俯いていた顔を上げた。
「これも……運命なんでしょうか……」
「それは違うと思う」
美奈子の言葉は、すぐに冴子に否定された。
「そう言いたくなるのも分かるけど、そんな簡単なものじゃない。……人間はいつか死ぬわ。抗っても、それは変えられない。いつ死ぬか、どうやって死ぬかなんて、誰にも分からない。でも総てが運命で決まっているのだとしたら、生きてる意味なんて、あるのかしら?」
冴子の言葉は、胸の奥の奥を揺さぶった。
「運命のせいにしたい気持ちもよく分かる。だけど、そんな簡単なものじゃないでしょ?」
冴子の言葉にただ頷くしかできない。そうだ。冴子だって弟を事故で亡くしているんだった。大切な人を亡くした悲しみを、冴子は痛いほど分かってくれることが、嬉しくもあり、悲しくもあった。
「美奈子さん」
声をかけられ、美奈子は顔を上げる。目の前には光俊の両親がいた。
「お義父さん、お義母さん……」
口から出た言葉はやはり震えていた。何をどう話せばいいのか、分からない。
「さっき警察の方に全部聞いたわ」
何を言うのか迷っていると、光俊の母がそう言った。義父が美奈子の肩を優しく叩く。
「辛い想いを……させてごめん」
その言葉に、美奈子は首を横に振った。辛いのは、みんな一緒だ。
「そんな……。お義父さんやお義母さんだって、そうじゃないですか」
そう言うと、二人は優しく泣き出しそうに微笑んだ。
それから美奈子と光俊の両親は、結婚式場のキャンセルをし、葬儀の準備に追われた。
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