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act.5 進行と逆行
 優子は一旦健太と別れ、自宅へ戻った。
「ただいま」
 小さな声でそう言ったのに、足音が近づいてくる。
「おかえりなさい。優子ちゃん」
 出迎えてくれたのは、義理の母親。二年前、父と結婚した奇特な人。
「今日はクッキー焼いたのよ。食べる?」
 懐きもしない、こんなかわいげのない義理の娘に、義母は毎日のようにお菓子を作ってくれる。料理が好きなのかもしれないが、良く続くなと変に関心してしまう。
「うん」
 小さく頷くと、義母は嬉しそうに笑った。
 どうしてそんなに嬉しそうに笑ってくれるのだろう? どうしてこんな自分に優しくしてくれるのだろう?
「あの……着替えてきます」
 そう言うと、義母は笑顔で頷いた。

 義母の笑顔から逃げるように二階に駆け上がる。自分の部屋の扉を開け、後ろ手で閉めた。
 何だか良く分からない感情が胸の奥で渦巻いている。
 どうして自分はこうなんだろう? 優しく接してくれる義母《あの人》に対して、笑い返すこともできない。
(違う)
 優子は首を横に振った。笑い返すどころか、笑い方さえも忘れてしまったのだ。
 母が亡くなった、あの日から。もうずっと笑うと言う行為をしていない。
 心の奥底で黒い何かが渦巻く。
(蓋を……しなきゃ……)
 必死で抑え込む。ドアにもたれかかり、優子は深呼吸をした。
『俺はいつだって木元さんの味方だからね』
 翼の言葉がふと頭をよぎる。
 不思議だった。あの日、メールでそう言われただけなのに、それだけで何だか強くなれる。
 胸の奥がほんのり温かくなる。こんな気持ちは初めてだ。
 その時、手に持っていた鞄が震え始める。優子は慌てて鞄を漁り、携帯電話を取り出した。着信したのはメールで、健太からだった。
「はぁ……」
 よく分からない溜息が漏れる。
 どうして溜息が漏れるのだろう? この携帯電話が鳴るのは、昔から健太だけじゃないか。
 それなのにこんな溜息が漏れるのは、期待してしまうから。
 あの日、翼と番号を交換してから、一日に一度は必ず来る翼のメールを期待してしまうから。
 内容は本当にたわいもないことで、「今日の宿題やった?」とか「明日の授業で当てられそうな教科がある」とか「今日の夕飯はこれだった」とか日常のどうでもいいこと。
 でもそんなたわいもない会話が楽しくて、メールが遅いと不安になってしまう。
 他人が聞けば『そんなことで不安になるなんて……』と思うかもしれない。
 だけど他人との会話が苦手な優子にとっては、メールは唯一、人と繋がれる手段なのだ。
 今までは健太だけだったその相手が一人増えただけ。たったそれだけだけど、優子にとっては大きな出来事。
 ふと我に返り、健太からのメールを開く。
『今日の宿題と英語の予習しよう。勉強道具持っておいで』
 まじめな健太らしい誘いだ。優子は短く『分かった』と打つと、送信ボタンを押した。

 着替えて一階に下りる。クッキーを焼いてくれたと言っていたので、キッチンに立ち寄った。
 義母は嬉しそうに紅茶の準備をしている。今から出かけるとは少し言いづらい。
「あ、丁度お茶の用意ができたわよ」
 優子に気づいた義母が声をかけた。廊下に立っていた優子はゆっくりとキッチンに入る。
「あら? もしかしてどこかに行く予定があった?」
 鞄を持っている事に気づいた義母がそう尋ねる。優子は軽く頷き、口を開いた。
「う、うん。健太くん家に……」
「そうだったの。あ、それじゃ、クッキーは持って行くといいわ。健太くんと食べて」
 義母はそう言うと、手早くクッキーをタッパーに詰めてくれた。
 ふとテーブルに目を移すと、せっかく淹れてくれた紅茶が悲しげな湯気を揺らしている。
「……お茶、いただきます」
 優子はダイニングの椅子に腰掛けると、淹れてくれた紅茶のカップを引き寄せた。
 そんな優子の姿を見て、義母が優しい微笑みを向けてくれたことに優子は気づかない。

 健太の家は、優子の家の二軒隣。幼いときからよく遊びに行っているので、高村家とは家族同然の付き合いだ。
 インターホンを鳴らすと、健太の母が出た。いつも通りすぐに通される。
 健太の部屋に入ると、健太は椅子に座って既に勉強をしていた。
「お。いらっしゃい」
「これ……お義母さんが焼いてくれたの」
 そう言って優子はクッキーの入ったタッパーを差し出すと、健太は嬉しそうに笑った。
「おー。美味そう!」
 その時部屋がノックされ、健太の母が入ってくる。
「勉強頑張ってね」
 お茶を出してくれた健太の母はそう言うと、部屋を出て行った。
「座れよ。始めよう」
 健太に言われるがまま、優子は部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に座り勉強道具を広げた。
 健太は足を怪我しているので、椅子に座り自分の机に向かっている。
 ふと足のギブスが目に入った。
「健太くん……怪我、大丈夫?」
 そう尋ねると、健太は驚いた顔をしつつも、笑顔になる。
「おう。もうだいぶマシんなった。風呂入る時とかめんどくせーけど」
「……ごめん、ね」
 小さく謝ると、健太は体ごとこちらを向いた。
「お前が気にすることねぇだろ。あれは事故だったんだし」
「そう、だけど……」
 自分の代わりに怪我をしたことには変わりはない。自分がもっと注意を払って歩いていれば、あんな事にはならなかったのに。
 そう思わずにはいられない。
 心が暗い闇で覆われていく。黒い物が沸いてきて、飲み込もうとしている。
『お前のせいだ!』
 どこかで悪魔の声が聞こえる。
『お前のせいでこうなったんだ!』
 それは自分でも十分すぎるほど分かっている。
『お前なんて生きている価値はない』
 冷酷なその言葉が、胸の奥で鳴り響く。
 そう、自分が怪我をしていればよかったのだ。自分さえいなければ、健太はこんな目に遭わなかったのだ。
 どうして自分が生きているのだろう。生きている価値さえない人間なのに……。

「優子?」
 突然俯いたままになってしまった幼馴染みに声をかける。しかし反応はない。
 また何かおかしな事でも考えているのだろうか?
 健太はこんな優子の姿を見るのが怖かった。
 どこかうつろな目をする彼女は、自分が知っている彼女じゃないようで、近寄りがたくなる。
 いつからこうなってしまったのか、健太はよく分かっている。
 それは、彼女の母親が彼女をかばって交通事故で亡くなった日からだ。
 何を考えているのかは分からない。だけどきっとよくないことだ。
 どうすれば彼女は、優子は前みたいに笑ってくれるのだろう?
 自分には、到底無理なのかもしれない。その術すら分からないのに、どうにかしたいなんておこがましいのかもしれない。
 それでも、それでもどうにかしたいって思うのは、彼女が、優子が好きだから。

 突然携帯電話が鳴り響く。今流行っている着うたなどではなく、ただ単調なメロディ。
 その瞬間、俯いていた優子が顔を上げた。
 その音を待ちわびていたかのように、携帯電話を取り出す。
「メール?」
 電話を耳に押し当てることをしないので、そう聞くと、優子は頷いた。
 メールなんて自分以外の誰が送るのだろう?
 そんなことをぼんやりと考えながら、メールを開く優子の姿をただ何となく見ていた。
「……!」
 瞬間、健太は自分の目を疑った。
 目の前にいる優子が、俯いて笑顔さえ見せなくなった優子が、今笑ったのだ。
 目の錯覚なんかではない。確かに今、優子は笑った。
 そう気づいた瞬間、ガラガラと何かが壊れていくような音がした。
 優子が笑顔を見せることがなくなってからの五年間、どうにかして笑顔を取り戻して欲しくて、健太は傍にいることを誓った。
 それなのに、今優子は確かに笑った。今まで為す術もなく見守っていた自分の目の前で。
 嬉しい反面、どこか複雑な気持ちになる。
 今までどうやっても笑ってくれなかったのに、メールだけで笑顔にできる人間がいるのかと思うとどうにも悔しい。
「誰から?」
 聞かずには居られなかった。誰が、どうやって、優子を笑顔にしたのかが気になって仕方がない。
「……翼くん」
 優子は短く名前を告げた。
「翼って……転校生の?」
 その問いに、優子は頷く。
 その瞬間、健太はぎゅっと拳に力が入ったことに自分でも驚いた。胸がざわつく。わめき散らしたい衝動を抑えるのに必死だった。
「……珍しいな」
 ようやく言葉を吐き出す。優子は次の言葉を待っているようだった。
「良かったじゃん。俺以外にも友達ができてさ」
 そう言うと、優子は恥ずかしいような嬉しいようなほんの少し笑みを浮かべて頷いた。

 胸が張り裂けそうだった。精一杯放った言葉で、優子は少しだけ笑ってくれた。
 嬉しいはずなのに悲しい。
「宿題、やろっか」
 そう言って教材を広げて、机に向き直る。優子も鞄から宿題を取り出し、準備を始めた。
 翼は入院している間に転校してきた。だからどういう風に友達になったのか分からない。
 優子に友達ができたことは喜ばしいことだと思う。だけどそれが寄りによって男だなんて……。
 優子は健太以外の男が苦手だ。それは元から優子がおとなしく、小学生の頃、よく男の子にイジメられていたからだ。
 そして必ずと言っていいほど、健太が助けに入っていた。
 もちろん、男女を意識してから遠ざかろうともした。だけどやっぱり放っておけなかった。優子のことが好きだと気づいたのは、その頃だ。
 ずっと優子の隣にいるのは自分だと思っていた。それは揺るぎないことだと。
 それがこうも簡単に崩されるなんて……。
 ここまできて、引き下がれない。負けてなんていられない。

 翌日の昼休み。健太は翼を呼び止めた。
「何?」
 笑顔でそう聞かれると、どう切り出していいのか悩む。
「話がある」
 そう短く告げ、誘導して、二人は今は誰も使っていない教室に入った。
「何? 話って」
 翼は屈託のない笑顔で尋ねてくる。
「お前は……優……木元さんのこと、どう思ってるんだ?」
 そう聞いて、健太は『しまった』と思った。あまりにも唐突に核心に触れてしまった。
 翼を見ると、やはりきょとんとしている。
(しまった……直球過ぎた)
「好きだよ」
 後悔してるとあっさり答えが返ってきた。一拍遅れて、その返事に気づく。
「え?」
「もちろん、友達としてね」
 翼はそう付け加えた。
「だけど、この先どうなるか分かんないよ。俺はまだ転校してきたばかりで、木元さんのことよく知らないし。だからもしかしたらもっと好きになるかもね」
 翼は屈託のない笑顔でそう言った。その無邪気さに殺意が湧く。
「でも何でそんなこと聞くんだ? あ、もしかして、高村って木元さんのこと……」
 そう言われた瞬間、健太はどうしようもない恥ずかしさに見舞われた。
 そりゃあれだけ直接聞けば、誰だって気づくに決まってる。自分が悪いのだが、それどころじゃない。
「ああ、そうだよ! 俺は優子のことが好きだよ! 悪いかよ!」
 半ばムキになってそう言い返すと、翼はプッと笑った。
「何だよ。笑ってんじゃねぇよ」
「ごめんごめん。あまりにも素直すぎて……」
 翼はそう言いながらも笑っている。なんだかやっぱり恥ずかしくなって、顔が真っ赤になったことに自分でも気づいた。
「でもさ、そのことどうして本人に言わないの?」
 一頻り笑った後、翼がそう突っ込んでくる。そりゃ言いたい。言ってすっきりしたい。
「言えるわけねぇよ。まだあいつには……」
「まだ? 何かあるのか?」
 言葉の端を捕らえられ、健太は口をつぐんだ。
「おーい。高村ぁ?」
 黙り込んだ健太の目の前に、翼の顔が現れる。
「お前には関係ねぇよ」
「何だよそれー。呼び出しといてそれはないだろ」
 翼の言い分はもっともなのだが、これ以上情報をこいつに漏らしてたまるかという気持ちの方が遙かに勝っている。
「まぁ話したくないなら、それでいいんだけどさ。……これだけは言っておくよ」
 そう言いながら、翼は健太に向き直った。
「俺はお前の味方でもあるから」
「は?」
 突然の脈略のない台詞に健太は思わず顔をしかめた。
 だけどその真っ直ぐな瞳に、瞬間身動きが取れなくなる。
「俺は高村とも友達になりたいんだよ」
 そう言って翼は笑う。
「お前は既に大勢の友達がいるだろ」
 ついこの前転校してきたとは思えないほど、翼の周りにはいつもたくさんの人がいる。
「うん。だけど、俺は高村とも友達になりたいんだ」
 その真っ直ぐな言葉に、健太はどう返せばいいのか、分からなくなる。
「ダメかな?」
 まるで子犬のような目で見られては、突き放すことなんてできない。
「……友達は言葉で作るもんじゃねぇよ」
 そう言うと、翼は笑った。
「あぁ、そうだな」

 二人が空き教室を出て、渡り廊下に出た時だった。目の前を何かが通過した。
「え? 優子?」
 その瞬間、翼が彼女を追いかけ始めた。健太が驚いて出遅れていると、後ろから谷沢由美と中田真由子が優子を追いかけてきた。
「あ、委員長! 木元さんはどっちに?」
 由美に話しかけられ、ようやく二人に気づく。
「あっち……ってか今翼が追いかけてったけど……」
「そう……」
「何があったんだ?」
 そう聞くと、二人はお互いの顔を見合わせて黙り込んだ。
「何だよ。黙ってたら分からないだろ? 言いたくないことか?」
 健太の問いに、由美が顔を上げる。
「委員長。後でもいい? 今は木元さんを追いかけないと……」
「あぁ、そうだな」
 上手くはぐらかされたと思ったが、とりあえず優子を追いかけて行くことにした。

「待って!」
 後ろで誰かに呼ばれた気がした。それでも優子は気づかないふりをして走り続ける。
 行く宛なんて、全くない。だけど、なぜか足は止まらない。
 どうしようもなく、怖くて堪らない。
 嫌な過去が、蓋をしたはずのあの黒い過去が、染み出てくる。
 このまま、誰も知らない、誰もいない遠いところへ行けたらどんなにいいだろう。
 視界がぼやける。
 そう、大好きだった母の元へ行けるなら、どれだけ幸せだろう。
 もうすぐ校門だ。ここを飛び出せばきっと……。

 不意に誰かに右手を掴まれ、引き寄せられる。
「捕まえた」
 頭上で声がした。抱きしめられ、身動きが取れない。
「どうして……」
 優子は小さく呟いた。
「え?」
「どうして……死なせてくれなかったの……」
 その声はあまりにも小さすぎて、か弱かった。だけど翼の耳には十分聞こえていた。
「どうして……」
 壊れたように呟く優子の頭を優しく撫でる。
「もう大丈夫だよ。大丈夫」
 その言葉にようやく優子の瞳から涙が溢れ出た。

 バタバタと足音が近づいて来ることに翼が気づく。追いかけてくるメンバーを見て、翼はようやく優子の言動の理由が分かった。
 恐らく彼女は、過去のことを思い出してしまったのだろう。
 ふと腕に重みがかかる。どうやら優子は精神的疲れから眠ってしまったようだ。
「優子!」
 一番に駆け寄ってきたのはやはり健太だった。心配そうに優子をのぞき込む健太に、翼が声をかける。
「大丈夫。気を失ってるみたいだ」
 そう言うと、ホッと安堵の溜息を漏らした。
「とりあえず彼女を保健室へ連れて行こう」
 翼はそう言うと、優子を抱き上げて保健室に向かう。それに付き添って健太も松葉杖をつきながら翼を追った。
「どうしたらいいの?」
 取り残された真由子は隣にいる由美に呟いた。
「あたしたちも行こう」
「でも……高村が……」
 真由子はそう言って、そこから動こうとしない。見かねた由美は真由子の手を取った。
「大丈夫だよ。翼くんがいるから、きっと何とかしてくれる。だから行こう」
 何でそんな言葉が出たのか由美自身もよく分からない。だけど、きっと翼なら上手く事を運んでくれる気がした。
「分かった……。行こう」
 真由子はようやく顔を上げ、保健室に向かった二人を追った。
 
 翼が優子を保健室へ連れてくると、気を失っている優子を見て、養護教諭は驚いた。しかし特に怪我もしていないのでホッとしてベッドを貸してくれた。
「高村、悪いけど彼女の傍に付いててやってくれる? 先生には『足が痛む』とか言ってさ」
 優子をベッドに寝かせた後、翼にそう耳打ちされ、健太は頷いた。
 案の定、教諭からは教室に戻るように言われたが、『足が痛いので休ませてください』と言うと、教諭は仕方なく休憩することを許してくれた。

 ベッドに横たわった優子は、静かな寝息を立てて眠っている。
 健太は思わず自分の拳を握った。
 もしかして自分は優子のことを何も知らないんじゃないのだろうか?
 知っているつもりだった。だけどきっと自分はほんの少ししか知らないのかもしれない。
 どうして優子が逃げ出して、しかも気を失ったのか、その心当たりさえ全く分からない。
 悔しいが、現時点では翼と変わらない。いや、もしかしたら翼に負けている。
 傍にいることしかできない。優子の心を開くこともできない。
 好きなだけじゃダメなんだと思い知らされる。
 正直、もうどうすればいいのか分からない。
 優子の中の闇は深くて、きっと自分なんかじゃ到底光を射すことすらできない。
「ハァ……」
 思わず溜息が漏れる。
 優子を見やると、穏やかな顔をして眠っていた。起きている時は、何かに怯えているような表情しかしない彼女が安らげるのは、夢の中だけなのかもしれない。
 そう思うと悔しくて堪らなくなる。どうして自分は何も出来ないのだろう? 自分には何も出来ないのだろうか?
 自然と涙が込み上げてくる。それに気づき、健太は制服の袖で涙を乱暴に拭った。
 こんな事で泣くなんて、男らしくない。
 きっと一番泣き出したいのは、優子だ。母親が亡くなった時でさえ、涙を流す姿を見ていない。どんな時も、何があっても、優子の涙を見たことがない。
 あの日、母親を亡くした日から一層固く心を閉ざしてしまった。そんな彼女をどうすれば明るく笑うようになんてできるのだろう?
 何をすればいいのか、全く分からない。
 それは途方もない事のような気がした。