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ACT.1 芽生え
 その数週間後。年が暮れかけたある真冬の事だった。
 相変わらずスタジオに入り浸っているメンバーのところに、マネージャーが入ってくる。
「黒川くん。あなたにお客よ」
「客? 俺に?」
 黒川と呼ばれた男の前に、一人の少女が姿を現す。
「奈月? なんで東京(ここ)におんねん!」
 彼女、奈月を見たとき、黒川一真が驚きのあまり叫んだ。地元に居るはずの妹が現れたのだから、驚くのも無理はない。
 彼は『sparkle』というロックバンドのメンバーである。一真はそのバンドでベースを弾いている。ちなみにメンバーからは『黒ちゃん』と呼ばれている。
 一真の叫びに驚き、こっちを見ているリーダーと呼ばれていた男が五十嵐衛。このバンドのボーカルである。他にギターの岡野和之、キーボードの東悠一、ドラムの安藤芳春(通称ハル)が同じように一真を見ている。
 一真の問いに、奈月は俯き、黙ったままだった。
「何か言えよ」
 一真はドカッと椅子に腰を下ろした。まだ奈月は俯いたまま、言葉を発しようとしない。一真は溜息をついて煙草を取り出し吸い始めた。
 しばしの沈黙が続くと、衛が沈黙を嫌うように口を開いた。
「まぁ、ええやんか。理由(わけ)、言いたくないんやったら言わんでもええよ」
 その言葉に奈月は衛を見上げ、また俯いた。
「今夜、泊まってくんやろ? そしたら今晩、パーティーしょうで。パーティー」
 突然後ろにいた悠一が提案する。
「それ、ええな」
 隣にいた芳春が相槌を打つ。
「それ、ただ単にお前らが酒飲みたいだけやろ?」
 二人の会話を聞いていた和之がツッコむと、悠一と芳春は「バレた?」と笑った。その隣で衛は溜息をついた。
 あの三人は今の状況を分かっているのだろうか? いつもどこかズレててよく分からない。
「とにかくちょっと待ってろ。仕事終わらせんと、家にも帰れんし。話はそれからや」
 一真が煙草をもみ消し立ち上がった。
 奈月を休憩室のソファに座らせると、自分たちは仕事を終わらせるため、スタジオに戻った。

 待っている間、奈月はどう説明しようかと悩んでいた。
 本当のことを伝えるべきなんだろうか?
 だけど、今言うには辛すぎる。まだ何も癒えていない。でもここに居る理由をきちんと言わないときっと追い返される。
 奈月は必死でどう説明するかを考えていた。

 仕事も終わり、メンバーは一旦自分の家に帰ったが、衛だけは一真の家に直接行くことにした。どうせ黒川家が宴会の場になるからだ。
 一真の家はワンルームでダブルの布団が敷きっぱなしだったりするので、結構狭い。黒で統一された部屋は少し暗い感じがした。
「黒ちゃん、台所借りるで」
 衛は席には座らず、台所に向かった。一真は布団を片付けながら「おう」と短く返事をする。
「で、奈月。お前、何しに来たんや?」
 もう一度訊く。すると今度は少し考え、口を開いた。
「・・・・・・遊びに来ただけ」
 ようやく口を開いた。果たしてこれで納得してくれるのだろうか。
「ほんまにそれだけか?」
「・・・・・・そう」
「なら、最初からそう言やーええやんか」
 奈月が黙り込んだので、一真は煙草を吸い始めた。数ヶ月前に会った時よりも様子がおかしいことには気づいていたが、事情を聞ける雰囲気ではない。沈黙が訪れる。
「黒ちゃんとこ、何もないやん」
 台所にいた衛が沈黙を破る。冷蔵庫などを物色したが、何も見つからなかったようだ。
「ああ、そう言やぁ、最近買い物行ってへんわ」
「なら何か買うてくるわ。奈月ちゃん、一緒に行かへんか?」
「えっ?」
 奈月はびっくりした顔で衛を見て、一真に目線を向けた。視線を受けた一真は「行ってこい」と軽く言い放つ。奈月は頷くと立ち上がった。
「黒ちゃん、何食べたい?」
「何でもええよ」
 玄関から呼びかけた衛の言葉に、適当な返事が返ってくる。そして二人は家を出た。

 道中、奈月と来たものの衛は何を話せばいいのか分からず、なかなか会話を始められなかった。
 衛はふと奈月を見やる。以前よりも髪が伸び、その綺麗な黒髪は腰の辺りまで伸びていた。今はその髪で顔を隠すように俯いているが、時々見せるその横顔は大人びていた。
 しばらくしてやっとのことで話しかけた。
「そう言やぁ、奈月ちゃんって何年生やったっけ?」
「中三」
「そっかぁ。こないだ会ったのって、小学生のときやったから結構経ってんやね」
「・・・・・・」
 会話が続かない。十一歳離れているとはいえ、幼い頃から知っているので、なついてくれていたのに・・・・・・。
 こんなに喋らない子だったっけ? 前はもっと喋ってたような気がする。時が経つと人は変わるものだが、こうも変わるものだろうか。
 だがめげずにもう一度話しかけてみる。
「もう冬休みなん? 学校」
 奈月は軽く頷いた。
「いつまでこっち東京におれるん?」
「冬休み終わるまで」
 その言葉に一瞬止まってしまった。冬休みが終わるまでと言うと、約二週間はある。そんなにいて大丈夫なのだろうか。受験生なのに。
「中三やろ? 大丈夫なん?」
「ええよ。高校、行く気ないから」
(はいぃ?)
 何かすごいことを聞いてしまった気がする。
「行く気ないって、高校行かへんってこと?」
 衛の問いに奈月は曖昧に頷く。
 衛はどうしたらいいのか、分からなかった。近くのスーパーが物凄く遠くに感じた。

 他愛もない話をしながら買い物を済ませ戻ってきた衛は、早速料理を始めた。衛は意外と料理は得意なので、素早く支度をしている。
「うちは何したらいい?」
「ああ。座っとってええよ。俺がするから」
「え? でも・・・・・・」
「ええから!」
 衛は奈月の背中の押して一真がくつろいでいる部屋に押しやった。それでも奈月は納得しないようだ。
「あいつがやりたいんやから、やらせとけばええねん」
 一真のその一言で、奈月はしぶしぶ座った。

 料理ができた頃にようやく他のメンバーが揃ってやってきた。
 夕食を取った後は、奈月を除く五人には飲み会と化してした。しかし衛はあまり飲まないので、他のメンバーと違い、チビチビと飲んでいた。

 奈月は飲み会の間に風呂に入ることにした。酔った勢いで覗こうとする輩は一真によって容赦なくぶん殴られた。

 衛はビールを口にしながら、奈月が言った一言が気になっていた。
『高校には行かない』
 何度も頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 彼女に何かあったのだろうか? これは一真に言ってもいいのだろうか? 別に口止めもされなかったので言ってもいいのだろうが・・・・・・。
 衛は頭を横に振った。大事なことなんだから、本人が直接言うほうがいいに決まっている。そう一人で納得した。

「お前ら、とっとと帰れ」
 という一真の一言で宴会は御開きになった。ワンルームなので、奈月がゆっくり眠れないからだ。酔ってはいても、奈月のことを気にかけていたようだ。
 そうして衛以外のメンバーはふらふらと自宅へと帰って行った。無事に辿り着けるのか、衛は少し心配したが、タクシーを使うだろうと勝手に推測した。

 残った衛は、皆が食べた後の片付けをした。このまま放っておいてもいいのだが、一真も奈月も疲れているだろうという衛なりの親切だった。

 キッチンから戻ってくると、奈月はすでに眠りについていた。
「よっぽど疲れてたんやね」
「みたいやな」
 衛は微笑んだ。ずっとあまり笑わなかった奈月は、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。大人びた表情をしていても、やっぱり子供なんだと思ってしまう。
「黒ちゃん」
「ん? なんや?」
 衛が静かに声をかけると、一真は読んでいた雑誌から目を離した。
「奈月ちゃんって冬休み終わるまでおるらしいで」
 そう言い終わらないうちに、一真の返事が返ってくる。
「そうなん?」
「聞いてへんの?」
「聞いてない」
「なんで?」
「なんでって、奈月(こいつ)が言わへんのやもん」
 一真があっさりと答えた。衛は呆れたように、溜息をつく。
「黒ちゃんから聞けばええやんか・・・・・・」
「あっ、そっか」
 あまりにも素で切り替えされ、衛は呆れた。
「他になんか言うてへんかった?」
「え?」
 衛は悩んだ。高校に行かないことはやっぱり奈月本人が言うべきことだが・・・・・・。果たして奈月はちゃんと一真に言うだろうか。
「あんな、これ言うたこと、奈月ちゃんには言わんといて」
「? ああ」
「奈月ちゃん、高校行かへんねんて」
 衛は机を見つめたまま、静かに言葉を吐いた。一真は言葉に詰まった。
「っっ。嘘・・・・・・やろ?」
「嘘やない。本人からちゃんと聞いたんやから」
「何で?」
「理由は聞いてへん。何て言うたらええか、分からんくて・・・・・・。聞けんかった」
 衛は一真の目を見るのが、辛かった。一真は十一歳離れた妹をまるで自分の子供のように可愛がってきた。衛はそれを知っている。
 その妹が理由は不明だが、高校に行かないと言うのだ。ショックはどんなものだろう。しかし気にはなる。
 衛はそっと目を上げた。一真は目を大きく見開いて一点見つめになっている。かなりショックだったようだ。衛は彼に何て声をかければいいのか、分からなかった。

 翌朝。奈月は昨晩はよく眠れたらしく、すっきりした顔をしていた。あの後、一真は酒を飲んで無理やり寝た。
「奈月。聞いたで。衛から」
「何? お兄ちゃん」
 奈月は朝食を作りながら聞き返した。内心は『何言ったんだ?』とかなりビクビクしていた。
「お前さぁ、冬休み、終わるまでおるんやて?」
「・・・・・・うん」
 なんだ、そのことか、とホッと胸を撫で下ろす。
「何でそんなにおんねん」
「だって・・・・・・父さんと母さんは、町内会のくじ引きで温泉旅行当たって、とっとと行ってしもたんやもん」
「でももう一人、素敵なオニイサマがおるやん」
 実は黒川家は三人兄弟だ。一真の二つ下に弟がいる。
「ちぃ兄ちゃんは、ほとんど家におらんし……」
「・・・・・・。にしても、こっち来るんなら連絡ぐらい入れとけ」
「急・・・・・・やったから」
 このまま言い合いしても仕方ないと、一真は話題を変えた。
「でもよく俺らがスタジオにおるって分かったな?」
「事務所に行ったら、教えてくれた」
 奈月の答えに一瞬驚く。事務所は普通居場所を教えないのだが、奈月の事を知っていたからかもしれない。

「どこ行くん?」
 朝食後、一真が玄関に立っているのを見つけた奈月が呼び止める。
「仕事」
「何の?」
「レコーディング」
「うちも行きたい」
「はぁ?」
 一真は思わず振り返った。
「だって、お兄ちゃんが仕事してるとこ、見たいし。家におったってつまらんもん」
 仕事場なら昨日見たじゃねーかと思いつつも、やっぱりかわいい妹にはすぐ折れる。
「・・・・・・。分ーった。ついてき」
 奈月は急いで支度をして、兄の後についていった。

「ちぃーっす」
 一真が挨拶してミーティングルームに入る。みんなが「おはよー」と挨拶したとき、衛は一真の後ろから入ってきた人物を凝視した。
「奈月ちゃん?」
 衛が言うと同時に周りが静まりかえる。一気に奈月に視線が集中する。
「ホンマや。でもなんで?」
 悠一はその場にいた全員が思ったであろうことを口にした。
「こいつがどうしてもついてくるって言うから」
 一真がとても短く説明する。
「お邪魔します」
 奈月はぺこっと頭を下げた。奈月が居るだけで、むさ苦しいムードが華やかになったのは言うまでもない。

「じゃあ、ドラムとベース、やってみようか」
 ディレクターが指示を出す。呼ばれたドラムの芳春とベースの一真が立ち上がり、ブースに入った。
 奈月はブースの外で二人を真剣に見つめた。他のメンバーは、自分たちのテイクを待ちつつ、譜面をチェックしている。
 ドラムとベースだけなので、曲がどんなものかは奈月には分からない。けどなぜか目が離せなかった。兄がこんなに真剣に仕事をしているのを見るのは初めてだったからかもしれない。だが、ブースに立っているのが、一真でなくてもきっと奈月は目を離せなかっただろう。

「はい、OK!」
 ブースの中で演奏していた時間はほんの数分だったが、奈月には長時間に思えた。
 衛は今まで死んでいたような奈月の瞳が輝いたのを見逃さなかった。二人が出てくると、入れ違いにギターの和之とキーボードの悠一が入った。
 これはいわゆる音の確認なので本番ではない。しかしメンバーの表情は真剣そのものだった。いつものおちゃらけた雰囲気はまったくない。ブースに入っているときだけの話だが。
「すごい」
 奈月はじっとブースの中を眺めながら、静かに口を開いた。悠一の鮮やかなキーボードと和之の軽快なギターを目の当たりにしたからだ。その声に衛が素早く反応した。
「やろ?」
 衛はまるで自分のことのように悠一たちを自慢した。奈月はブースの方に目線を向けたまま頷いた。
 この『sparkle』を結成したのは、ほぼ衛だった。元々『sparkle』は衛、悠一、和之の三人だったが、他のバンドで活躍していた一真とバンドが解散したばかりの芳春を引き抜き、今の『sparkle』があるのだ。
「はい、OK!」
 ディレクターの合図で二人が出てきた。さっきまで真剣そのものだった二人の表情はすっかり元に戻っていた。
「どーやった?」
 悠一が早速奈月に感想を訊いた。奈月はようやく目線をブースからメンバーの方へ向けるた。
「すっごい良かった」
 奈月は今までしなかったような笑顔で答えた。
 メンバーは全員、自分の目を疑った。今までずっと俯いてばかりだった奈月の顔がとても生き生きしていたからだ。
「奈月ちゃんさ、笑った方がかわいいで」
 悠一が照れもせずににこやかに言う。すると奈月はボッと顔が赤くなった。照れているらしい。
「きゃわいいっ!」
「きゃっ」
 奈月の隣にいた衛がそれに反応して、奈月に抱きついた。それを見た一真が衛を思い切り突き飛ばした。
「いてっっ! 何すんねんな」
 衛が地面に尻もちをついたまま抗議する。
「お前がいらんことするからやろーが」
 一真は衛を見下すように見る。明らかに目が怒っている。それを見て、他のメンバーに笑いが起こる。奈月も密かに笑っていた。

「あ〜。楽しかったぁ」
 奈月は家に入るなり、いきなり叫んだ。
 一真は今日の奈月の反応を見て、少し安心した。ずっと暗い顔をしていたのが、今日は笑顔だったからだ。
 音楽に対して、瞳が輝いていたのに気づいた。しかしそのことに関しては、複雑だった。この仕事の大変さは自身がよく知っている。音楽が悪いわけではない。でもそれを仕事にするとなると、話は別だ。
 いつの間にか、話が飛躍していた自分に、一真は思わず笑いが零れた。
「何?」
 兄が笑ってるのを見て、奈月が話しかける。
「いや、別に」
 一真は笑いを堪えた。いくら何でも考え過ぎだ。奈月はまだそんなことを言っていない。
「お兄ちゃん。お風呂、入ったよ」
「おう」

 そして順番に風呂で疲れを癒した二人は、仲良く眠りについた。

 翌日も奈月はレコーディングスタジオに来ていた。
「はい、どうぞ」
 奈月はなぜか、お茶汲みをしていた。しかしそれは強制ではなく、本人が勝手にしていることだった。
「ありがと。けど別に奈月ちゃんがせんでも、ええねんで」
 悠一は奈月から淹れたてのコーヒーを受け取りながら、言った。
「うん。でもこれぐらいしか、できることないし・・・・・・」
 奈月は苦笑いを浮かべる。
「やらせとけばええねん。こんぐらいでしか役に立たへんのやから」
 一真が冷たく言い放つ。その言い方に奈月は少しムッとした。しかし奈月が言い返す前に衛が立ち上がった。
「それはちゃうで、黒ちゃん! この男だらけでむさ苦しい仕事場(スタジオ)に若くてかわいい、奈月ちゃんがおる。それだけで『がんばろう』って気になるんやないかい。なっ、せやろ?」
 他のメンバーに相槌を求める。
「衛の言う通りや」
 悠一と芳春がうんうんと頷いた。
「衛、言いたいことは分かった。でもお前は奈月に近づくな」
 一真が怒るのも、無理はなかった。いつの間にか奈月の隣にいた衛は、奈月の肩に馴れ馴れしく腕を回していたのだ。
 それでも離れようとしない衛に一真が一言。
「そいつ、空手の段、持ってるんやで」
 その瞬間、衛は素早く手を離した。顔も強張っている。その場にいた人たちの時が一瞬止まった。しかし次の瞬間、皆は衛の反応に対して笑い出した。
「もう。お兄ちゃん。変なコト言わんといてよ」
 奈月がふてくされる。
「なんや、ウソかいな」
 衛がホッとしながら言うと、あっさり否定される。
「ううん。事実」
 奈月のその言葉に衛は凍りついた。
「事実なんやから、ええやないか」
 一真はコーヒーを片手に反論する。
「そーじゃなくて。ここで言わんでも、ええやんか」
 ここから凍りついている衛を無視し、黒川兄妹の軽い口喧嘩に突入するが、他の人はさっさと仕事に戻った。

 そしてあっという間に時間は過ぎ、夜中になった。
「奈月。お前、先帰って寝ろ。マネージャーにでも送らせるから」
 一見ぶっきらぼうに見えるが、一真なりに妹を気遣っていた。
「ううん」
 奈月は首を横に振った。
「なんで帰らんのや?」
「・・・・・・ここに・・・・・・おりたいから」
 奈月は少し言葉に詰まった。ただ居るだけなのだが、ここに居たかった。
「でもここじゃ、寝られんやろ?」
 一真はなおも奈月を帰らせようとした。
「ええやないか。奈月ちゃんがここにおりたい、言うてんねんから。なぁ?」
 衛が割って入ってきた。そして奈月に同意を求める。
「そうは言うても・・・・・・。・・・・・・衛」
「何や?」
「手を離せ」
 一真の声は少し怒りに満ちていた。衛はまた性懲りもなく、奈月の肩を抱いていたのだ。こういう時に余計なことをしないで欲しい。
「手を離せというのが、聞こえんのか? おのれは」
 一真は低い声で言いながら、衛の両方の頬をつねった。
「ひたたたたたっ。わかひまひは。ごへんははひ」(訳:分かりました。ごめんなさい)
 流石に痛かったのか、衛はパッと手を離した。それを見ていた周りからまた笑いが起こる。
「衛。やられるん、分かってんのにすんなや」
 悠一は衛の肩をポンッと叩き、笑いながらツッコむ。
「だってぇー」
 衛は頬を抑えながら泣きそうになっていた。まるで小学生だ。しかしこれは衛なりに場を和ませようとしていたのだった。
「まぁ、ええわ。眠ぅなったら言えよ」
「うん」
 一真は口調は呆れが入っていたが、奈月に優しく微笑んだ。奈月も微笑み返した。

 真夜中。やっと仕事に一段落ついたところで家に帰ってきた。一真は疲れ果てたのか、即眠りについた。

 翌日。一真はいい匂いで目が覚めた。体を起こすと、布団がかかっていることに気付く。 どうやら家に帰ってきてすぐ寝ていたらしい。
 匂いにつられてキッチンを見ると、奈月がすでに起きて朝食の準備をしていた。一瞬、実家の母親とかぶって見えた。
「あっ、お兄ちゃん。おはよっ」
 起きた一真に気付いた奈月が微笑む。一真は短く「はよ」と返事する。
「お前、早いな」
「違うよ。お兄ちゃんが遅いんだって」
 奈月が微笑う。一真は頭を掻きながら、寝ぼけ眼で時計を見た。もう既に十一時を過ぎていた。そう、奈月は朝食ではなく、昼食を作っていたのだ。
 一真は昨日の服のまま、また床に転がった。今日も午後から仕事が入っている。今日は雑誌のインタビューだ。これから撮影がある。考えただけで、また疲労感が襲って来て、思わず溜息が漏れる。
 そうしていると、奈月が食器をテーブルに並べ始めた。
「お疲れですね。お兄様」
 奈月が転がっている一真に目をやって言った。
「おうよ」
 一真は返事しながら、ゆっくり身を起こした。今日の昼食は和食だった。実家で母がよく作ってくれたものだったので、何だか懐かしく感じた。もちろん見た目は母のように美味しそうではないが。早速煮物を口に入れてみる。
「・・・・・・美味い」
「ホント?」
 呟いた言葉に瞬時に奈月の反応が返る。一真はまたその煮物を口に運びながら頷いた。見た目はそんなに綺麗ではないが、味は母と同じた。急にふと母親の顔が浮かんび、いつの間にか微笑んでいた。
「どしたの?」
 奈月は不思議がったが、一真は微笑んだまま「何でもない」と食事をした。

 雑誌のインタビューのため、一真は都内の某スタジオに来ていた。今日もやっぱり奈月がついて来ている。
 そして今はソロで写真を撮っている。スタジオに組まれたシンプルなセットの中に堂々と立つ姿は威圧感があった。
 四番手の一真の撮影シーンに奈月は目を奪われた。楽器(ベース)を持って演奏していなくても本当はカッコいい人なのだということに初めて気付いた。
 シャッターを切る音がする度に変わる表情。傍目にはそんなに変わってないかもしれないが、奈月には分かった。一瞬一瞬の表情が微妙に変わっている
「はい。OK」
 カメラマンが合図する。一真は「ありがとーございました」と一礼をしながら戻ってきた。
「次は衛ちゃんやで」
 悠一が衛の肩を叩く。
「おう。見ててな。奈月ちゃん」
 そう言うと衛も同じセットの真ん中に立つ。同じセットなのに一真とは対照的な感じがした。
 奈月はいつの間にか衛から目が離せなかった。
 くるくる変わる表情。どんなポーズもカッコよく決める。さすが『sparkle』の五十嵐衛(フロントマン)。シャッターを切る度に動き回り、カメラマンとの息もぴったり合っている。いつものおちゃらけた雰囲気はない。まさにプロ。
 奈月はそんな衛を尊敬した。それと同時に苦手だとも感じた。苦手と言えば語弊があるかもしれないが、ただ自分との違いを思い知らされた。レコーディングの時にも感じた。
 衛はボーカリストとしても人間としても、自分にとても自信を持っている。誇りも持っている。もちろんいい意味で、だ。
 奈月はというと、衛とは逆に自分に自信も誇りもなかった。自分がどうすればいいかさえも分からない。
 ここにいるメンバーはみんな自信に溢れているように見えた。羨ましかった。自分もいつかあんな風に自信を持ちたい。だがその自信はどうやってつければいいのだろう。
 そんなことを考えながらも奈月は衛に見入っていた。
「なっつきちゃん。どうやった?」
 撮影が終わって、立ち尽くしている奈月に衛が声をかける。
「うん。すごかった」
 その一言しか出なかった。どう表現すればいいかさえ今の奈月には思いつかなかった。
「そういや、これ何?」
 芳春が奈月の持ってきた箱を指差す。
「あっ、これ差し入れ」
 その一言で我に返り、箱を開ける。中に入っていたのはクリスマスケーキだった。ブッシュドノエルを切り分け、食べやすいようになっていた。
「うまそー」
「ほんまや」
 口々に感想を述べる。
「今日って一応クリスマスやし。皆もお腹空いたかなって・・・・・・」
 奈月が少し照れながら説明する。
「これって手作り?」
 芳春が身を乗り出して訊くと、奈月は頷いた。
「やっぱ手作りに限るよな。ケーキは」
「なんかあったんか? 衛ちゃん」
 衛がしみじみ言うと、悠一が素早くツッコむ。
「いや。別に・・・・・・」
 衛は言葉を濁した。
「食ってもいい? 奈月ちゃん」
 芳春が涎を垂らしながら訊く。
「あ、うん」
 奈月が頷くと同時にメンバーの手が伸び、早速食べ始めた。
「おお。美味い」
「ホンマや」
「やっぱ手作りってええよなぁ」
 口々に感想を述べる。奈月は皆がおいしく食べてくれるのが、すごく嬉しかった。

 それからも奈月は一真に連れられてレコーディングスタジオに顔を出していた。
 そんなある日のことだった。
「奈月ちゃん。レコーディングしてみんか?」
「は?」
 衛のいきなりすぎる提案に奈月だけでなくその場にいた全員が衛を凝視した。
「何言うてんの。衛ちゃん」
 悠一が笑いながらツッコむ。冗談だと思ったからだ。
「やから奈月ちゃんに歌入れしてもらおうって言うてるんやんか。もちろん、遊びやけど」
「そんな時間あるんか?」
 一真にツッコまれ、衛の顔は一瞬曇った。
「大丈夫っ」
 衛は何事もなかったかのようにVサインを出した。
「「「大丈夫ちゃうやんっ」」」
 和之以外のメンバーがツッコミを入れる。
「だ、大丈夫やって!」
 衛は言い張る。メンバーは顔を見合わせた。
「まぁでも。それもおもろいかもな」
「やろ?」
 芳春が衛に賛同すると、衛の顔が輝いた。
「ったく。お前が責任持てよ」
 一真はぶっきらぼうに言い放った。言い出したら聞かないのはよぉく知っている。
「うん。そりゃあ、もちろん」
 衛は笑って頷いた。
「どうする? 奈月ちゃん、やってみる?」
 和之が隣に座っている奈月に声をかけた。
「うん。ちょっとやってみたいかも」
 奈月は頷いた。
「じゃあ、決まりね」
 衛は嬉しそうに微笑んだ。

「緊張せんでええよ。遊びやから。そーやなぁ、カラオケやと思ってくれたらええで」
 衛がブースの外から奈月に声を掛ける。
「準備ええか? 行くで」
 そしてイントロが流れ出す。それはsparkleの曲だった。
 奈月は音が流れ出したと同時に瞳を閉じた。曲のイメージをつかみながら、奈月は歌い始めた。
 衛とは違った歌い方。それが妙に新鮮だった。それはもちろんsparkleのメンバーにも、その場にいたスタッフにも。奈月の歌声に全員が引き込まれた。とびきり歌が上手い訳ではない。だが、なぜか引き込まれていった。
 歌い終わると、奈月は力が抜けた。ブースの外では拍手が起こっていた。
「良かったで」
「何かすごい引き込まれたわ」
 ブースの外に出ると、皆が口々に感想を述べた。
「ありがと」
 奈月ははにかんだ笑顔を見せた。
「どうやった?」
 衛が奈月に感想を聞く。少し考えながら奈月は答えた。
「うーん。一言で言うと楽しかった。でもなんかすごい緊張した」
「そう? 全然そんなことなかったで」
「そうそう」
 横から悠一が会話に入り、その隣で芳春が頷く。
「聴いてみる?」
 衛の提案に奈月は頷いた。

 奈月は目を閉じて集中して聴いていた。初めて聞く自分の歌声。
(あっ、外れた)
 時折間違う音程が恥ずかしかった。何より周りのスタッフも聴いているのが一番恥ずかしい。奈月はただ黙って聴いていた。
「どうだった?」
 聴き終わり、衛が声を掛ける。
「うん。いっぱい音外れてた」
「そう? そんなに外れてないと思うけど」
 衛がきょとん聞き返した。この時スタッフ全員から溜息が漏れた。なぜ自分で作曲した曲なのに分かっていないのか。
「えっ? 何? みんなどうしたの?」
 やはり本人だけが分かってないようだ。全員、面倒くさいので何でもないとそっぽを向く。
「あれ? どしたの? 奈月ちゃん」
 曲は終わっているのに、何だか険しい顔をしていた奈月に芳春が声を掛ける。
「え? 何でもないよ」
 奈月はそう言って笑みを浮かべる。
 その時、一真は何となくだが奈月の異変に気付いた。しかしその場では何も言わず、ただ黙って奈月を見守った。

 次の日も奈月はやはりスタジオに来ていた。メンバーやスタッフとも仲良くなり、奈月は笑顔を見せるようになっていた。
「奈月ちゃん。よう笑うようなったな」
 和之が一真に話しかける。遠くで衛たちと雑談している奈月たちに目をやる。
「ああ。元は結構明るい性格やからな」
 一真は奈月を見ながらそう言った。何だか遠い目をしている。和之は何かを察したのかそれ以上何も聞かなかった。

「なっつきちゃーん。今日もレコーディングしてみぃひんか」
 衛がノリノリでやってきた。
「ええけど・・・・・・。自分はやらんでええの? レコーディング」
「うっ」
 痛いところを衝かれ、衛は一瞬止まった。
「大丈夫っ」
「どこがやねん」
 間髪入れず、後ろから一真に楽譜で頭をパシッと叩かれる。
「いったいなぁ。何すんねんな」
「お前が歌入れせな、曲が完成せんのやけど?」
 一真が無表情で衛を見る。だがその瞳には呆れが入っていた。
「そうそう。俺らはもうやってんねんで」
 悠一が横で笑う。他の二人もうんうんと頷く。
「えっ? マジで? いつの間に」
「衛ちゃんが奈月ちゃんとだべってる間に」
 悠一があっさりと返事する。
「ってか、歌えるようになったんか?」
 和之がツッコむ。
「うーん。多分」
「多分やあかんやろっ」
 一真がまた後ろからチョップをかます。
「とりあえず衛のレコーディングが先やな」
 芳春の提案に、衛以外の全員が頷く。衛は渋々、ブースの中に入っていった。

 イントロが流れ、衛が歌い始める。悠一作曲のこの曲は、メロディラインがとても難しい。さらっとは歌いこなせない曲だと奈月は思った。
 それを歌いこなす衛を奈月はブースの外から見守っていた。ただ聴き入っていた。真剣な眼差し。それに気付いた一真は昨日抱いた奈月の異変を確信した。
(あいつやっぱり・・・・・・)
 ただやはりここでは口には出さなかった。

「そういやぁ、奈月ちゃんって宿題とか終わったん?」
 不意に芳春が尋ねる。確かに勉強している姿をメンバーたちは見ていない。一真もよく考えると家の中でさえそんな姿を見たことがなかった。奈月は笑って答える。
「そんなのとっくにやっちゃったよ」
「すごっ。いつくらいに?」
 芳春が拍子抜けする。
「冬休み入る前ぐらいかな」
「マジでぇ? 俺なんていっつもギリギリやったもんな」
「うん。そんなカンジする」
 芳春の言葉に奈月が間髪入れず頷く。
「やっぱり?」
 芳春が聞き返してきたので、周りで聞いていた人たちに笑いが起こった。自分のコトよく分かってらっしゃる。
「でも受験勉強はせんでええの?」
 和之が鋭くツッコむ。衛はその質問に冷や冷やした。ここで『高校に行かない』とは言いづらいだろう。
「えっ・・・・・・と・・・・・・。うん。まだどこに行くかも決まってないし」
 奈月は何とか誤魔化す。
「ふーん。やっぱ将来のこととか考えてんの?」
 悠一が横から会話に入る。
「うん。まーね」
「なりたいもんとか決まっとん?」
 芳春に聞かれ、奈月は少し考えた。はにかんだ笑顔を見せながら答える。
「うーん。まだ分からんけど。でも音楽関係の仕事に就きたいなって」
 そのとき少し離れて聞いていた一真と衛が顔を見合わせる。
「おお。ってことは俺たちと同じような仕事ってことか」
 芳春が歓喜を表す。
「まだ分からんけど・・・・・・」
 奈月は肩をすくめる。
「分からんで。もしかしたら何年か後には俺らの上司になってるかもしれへんし」
 和之が笑う。
「そうかもしれんな」
 悠一も笑いながら返事する。ただ一真と衛は曖昧な笑みしか浮かべられなかった。


 そして年末がやってきた。今年はsparkleのメンバーが一真の家に集まり、年越し蕎麦を食べながら、カウントダウンを待った。
「五・四・三・二・一・・・・・・おめでとおー」
 みんなでカウントし、拍手する。
「今年もよろしくー」
 芳春が一番に叫ぶ。
「今年もええ曲いっぱい作れるようにがんばろうな」
 衛が励ますように言った。たまにはまともな事を言う。
「ええ詞もな」
 和之が笑いながらツッコむ。
「分かってるよ」
 歌詞担当の衛はふてくされた。
「でもさ、ええよな。こうやってみんなで年越すのも」
 悠一がのんびりと言うと、一同頷いた。
「そういやー、も少ししたら奈月ちゃん、帰ってまうんやな」
 芳春がしんみりと言うので、皆しんみりしてしまった。
「うん。学校あるしね」
「そっか。まだ中学生やもんなぁ」
 悠一がミカンに手を伸ばしながら言う。
「でも今年から高校生やんな」
 和之がビールに口をつける。
「うん」
 奈月が複雑な笑みを浮かべる。
「まぁ、そうゆう話は置いといて。そろそろ寝ません?」
 衛が提案する。どうやら睡魔が襲ってきたらしい。飲めない酒を飲み、連日のレコーディング作業で疲れもたまっているのだろう。全員一致で寝ることにした。

 奈月と一真がテーブルを片付ける。一真の部屋はお世辞にも広いとは言えない。男が五人も寝転がれば、もういっぱいいっぱいだった。
「ハル、お前ベランダで寝ろ」
 衛が無茶苦茶なことを言う。
「無茶なこと言うなや」
「いいよ。うちが台所で寝るから」
 奈月がそんな無茶なことしないように言う。
「えんやって。じゃあ、ハル。お前が台所の方で寝ろ」
 衛が指示する。
「えー。寒いんちゃうん。カーペットないし」
 芳春が嫌そうな顔をする。
「なら、ここの布団使え」
 一真が指差す先にいつも一真が使っている布団があった。芳春は渋々布団を持って、台所に布団を敷いた。
「そんじゃあ、おやすみ」
 衛はホットカーペットの上に寝転がった。よっぽど眠たかったのだろう。すぐに寝息が聞こえてくる。そんな衛に奈月が毛布をかける。
「そいつに毛布かけたら俺らが寒いで」
 一真が言うと、奈月が切り返す。
「あと、コタツ布団があるやん」
「小っこいがな」
「うーん・・・・・・」
「とりあえず、俺らも衛ちゃんと水平に寝て、布団を一緒にかけたらどうや?」
「そうしょう」
 悠一の提案に全員が乗る。

 そうして和之、悠一、衛、奈月、一真の順に寝転がった。一真としては奈月を衛の隣には寝かせたくなかったが、衛が部屋の真ん中に寝ているし、端だと奈月が寒いだろうと思い、こんな並びになってしまったのだった。
「おやすみー」
「おやすみ」
 電気を消し、全員眠りに就いた。

 翌日。メンバーはいい香りに反応して起き上がった。
「なんや、ええ匂いがするで」
「ホンマや」
 台所で包丁の刻む音がする。
「なんかええな。こうゆうの」
 衛が想像を膨らます。
「あ。起きた? おはよう」
 奈月がこちらに顔を向ける。
「「「「おはよー」」」」
「何作ってんの?」
 衛が芳春を蹴飛ばしながらやって来る。
「ありふれた朝食」
 奈月は鍋に手をかけた。蓋を開けると味噌の匂いが広がる。
「上手そうな味噌汁」
 衛は思わず涎を垂らしそうになった。
「あはっ。良かった。材料なかったからさ。急きょ和食になったけど。良かった?」
「うん。和食好きだし」
 衛が笑顔で答え、奈月が微笑む。衛は楽しみにしながら部屋へ戻ると、既に一真がこたつを出していた。朝食を並べるのをメンバーも手伝い、朝食の準備が整い、早速朝食にありつく。
「お前ら。ちっとは遠慮しろや」
 一真がガツガツ食べるメンバーに怒鳴る。
「うるさいな」
 衛が睨むが、全然迫力はない。
「・・・・・・。衛、その犬食いはやめろ」
 一真は呆れた。

 そして翌日からはまたスタジオにこもりっきりだった。春に出す予定のアルバムを仕上げるため、何度となくレコーディングが繰り返された。
 奈月は全ての作業を興味津々に見ていた。一真はやはり何も言わなかった。

「なぁ。奈月ちゃん。キーボード弾けるんやったよね」
 衛が声をかける。
「うん。弾けるけど。どうしたん?」
 奈月がきょとんと答える。
「ちょっと手伝ってほしいんやけど」
「いいけど。何を?」
「この譜面通りに弾いてみてくれる?」
 衛は楽譜を奈月に差し出した。奈月はそれを受け取るとキーボードの前に置いた。そして弾き始める。
 楽譜にはメロディーだけしかなかったので、奈月は右手でメロディーを弾きながら、左手でコードを合わせた。
 それが弾き終わっても、しばし衛は沈黙していた。しばらくして口を開く。
「悪いけど、もっかい弾いてくれん?」
 いつになく真剣な衛の言葉に頷くと、奈月はもう一度弾き始めた。
 衛はじっと奈月を見た。その手つきと顔を。奈月は楽しそうに弾いていた。が、その瞳は真剣そのものだった。
 そして衛はその音色に聴き入った。目を閉じ、イメージをさらに膨らます。曲を弾き終わると衛が笑顔でお礼を言った。
「ありがと」
 奈月は首を横に振った。お礼言われると何だか照れくさい。
 衛はメロディーを口ずさみながら楽譜に何やら書き込んでいる。奈月はその作業をただ見つめていた。

 そしてあっという間に奈月が帰る日が来てしまった。長いようで短い冬休みだった。メンバーは全員で駅まで見送りに行った。
「奈月ちゃん。元気でな」
 芳春が涙ながらに別れを告げる。
「もー。ハルくんってば。永遠の別れちゃうんやから」
 奈月が苦笑する。
「でもホンマ、気ぃつけてな」
 和之が微笑む。
「うん」
 奈月も微笑む。
「また遊びに来てな」
 衛が和之の横に割って入る。
「うん」
 奈月は笑顔で返事をした。そしてホームに入ってきた電車に乗り込む。
「じゃーね。曲作り、がんばってね」
 暗い顔で現れた奈月は帰る時には笑顔だった。皆も笑顔で見送った。
 ホームに残された五人は、電車が見えなくなるまで見送った。

 帰りの新幹線の中で、奈月はいつになく胸が高鳴っていた。やはり兄のところに行ったのは正解だった。いろんな体験をさせてもらい、音楽を作る現場に立ち会えたのは、貴重な経験だ。
 高校なんて行ってる時間がもったいない。今すぐにでも兄たちのようになりたい。
 彼女の中に、ほんの少し何かが芽生えた。