font-size       
閉ざされた光。もう二度とこの目で光を見ることはできない。これから先、暗闇の世界だけで暮らさなければならない。他の人(みんな)と同じようには生活できない。

諦めと絶望が幼い少年の心に暗い闇を落とした。


それでも彼の傍には暖かく優しい家族が居た。こんな自分には勿体無いほどだ。部屋に引きこもってばかりもいられないことは分かっている。でも、怖かった。光を失った少年は、なるべく外に出ない生活を何年も送り続けた。


彼女に出会ったのは、本当に偶然だったのかもしれない。
その日敬祐は電話のベルで目が覚めた。家族は誰も居ないのだろうか、電話を取る気配も無い。敬祐は仕方なくベッドのサイドテーブルに置いてあった子機を取った。
「はい、結城です。」
『敬祐くんかい?』
電話越しの陽気な声に敬祐は脱力した。
「親父・・。どうしたんだよ?仕事じゃなかったのか?」
『お仕事だよ。今スタジオでお仕事中。』
あっさりと返ってくる呑気な声に敬祐は再びベッドに寝転がった。
「何の用事だよ。」
『察しがいいね。実は大事なネガを玄関に置きっぱなしにしちゃってね。取りに行く時間がないんだ。悪いけど敬祐くん持ってきてくれないか?』
「えー・・。」
嫌そうな声がつい漏れる。
『他に頼める人居ないんだよ。今日は皆出かけているんだろ?』
どうやらそのようだ。家の中はシンと静まり返っている。
「分かったよ。どこに持っていけばいいの?」
敬祐は観念してスタジオの場所を聞いた。
『よろしく頼んだよ。』
そう言うと電話は切れた。敬祐は溜息を吐きながら、子機を戻した。立ち上がり着替えを始める。着替えが終わると今度は顔を洗い、歯を磨く。
「ったく。朝っぱらから・・。」
ブツブツと文句を言いながらも敬祐は出かける支度を整えた。
「行くよ、クロ。」
クロと呼ばれたラブラドール・レトリーバーは寄り添うように敬祐の隣にやって来た。敬祐はクロに付けているハーネスを握り、玄関にあった父親の忘れ物を手に家を出た。

敬祐は幼い頃、原因不明の高熱により失明した。全くの暗闇と言う訳ではないが、光があるかないかの判断ぐらいしかできない。そのため家に引きこもることが多く、学校も行かず通信教育を受けた。少しでも外出させようと思った家族は敬祐に盲導犬を持つように勧めた。しかし盲導犬の数が足りず、なかなか出会えなかったのが現状だ。クロと出会ったのは二年前。敬祐が十七歳のときだった。初めは乗り気じゃなかった敬祐もクロと実際に触れ、心が動いた。クロが居ることで、敬祐は外に出るようになった。初めは家族も心配して一緒に着いて来ていたが、今では一人でも大丈夫と安心したのか、快く外出させてくれるようになった。

「あちぃ・・。」
敬祐は額から流れ出る汗を自分の腕で拭った。時は七月。既に本格的な夏になろうとしていた。既に蝉がけたたましく鳴いている。盲導犬のクロに指示を出しながら、父の仕事場にようやく辿り着く。建物に入ると涼しい風が敬祐の体を冷やした。受付の吉田さんが駆け寄ってくる。
「おはよう。敬祐くん。」
「おはようございます。あの・・父は・・。」
「案内するわ。」
そう言うと吉田さんは敬祐の手に自分の腕を掴ませた。敬祐は歩調を合わせてくれる吉田さんに感謝しつつ、父の居るスタジオに入った。
「ここよ。」
そう言われ敬祐は吉田さんの腕からそっと手を離した。
「ありがとうございます。」
一礼すると、吉田さんは恐らく笑顔で「どういたしまして。」と言った。
「結城先生、敬祐くん来られましたよ。」
「おう。ありがとう。」
父の声が遠くで聞こえた。
「じゃあ私、仕事に戻るわね。」
「ありがとうございました。」
敬祐はもう一度お礼を言った。
バタバタと近寄ってくる足音がした。この足音は父だ。
「いやぁすまなかったね。」
「これ?」
封筒を渡しながら、一応確認をする。
「うん。コレで合ってるよ。ありがとう。」
父は笑顔で言っているようだ。声のトーンで分かる。
「先生・・?」
か細い女の子の声がした。
「あぁ。真琴くん。紹介するよ。僕の二番目の息子の敬祐だ。」
父が自分を紹介していることに気づき、敬祐は軽くお辞儀をした。
「は・・じめまして・・。」
途切れ途切れに呟くように彼女は声を出した。
「敬祐くん、彼女は岡田真琴くんと言って僕の助手をしてくれてるんだ。彼女もプロのカメラマンを目指しているんだよ。」
「初めまして。」
敬祐も会釈をしながら挨拶をする。
「敬祐くん、彼女は耳が聞こえないんだ。」
「え・・?」
いきなり言われたので、敬祐は驚き入った。
「彼女は読唇術ができるから、僕らの唇を読み取って会話してるんだよ。でもゆっくりはっきり喋ってあげてね。」
敬祐とはまた違う障害。他人事とは思えない。
「真琴くん、見ての通り敬祐くんは目が見えないんだ。」
父親が説明している時、服がこすれる音がした。
「親父・・その音は・・?」
「ん?」
「結城先生、スタンバイできました。」
「今行く。」
スタッフからお呼びがかかる。
「敬祐くん、これで一回休憩入るから、ちょっと待っててくれないか?」
「あ、うん。」
「ココに座ってるといいよ。」
父は敬祐を椅子のあるところへ誘導し、座らせた。クロは敬祐の足元に伏せた。
「お茶、どうぞ。」
真琴がお茶を持ってきたらしい。
「ありがとう。」
受け取ろうと手をゆっくり上げると、真琴がそっとお茶を渡してくれた。
「耳は・・全然聞こえないの?」
「いいえ・・全くって訳じゃなくて、微かに聞こえるだけで・・。段々・・聴力がなくなってきたの・・。」
彼女の声のトーンが下がった。
「ごめん。嫌なこと・・聞いて。」
「ううん。気にしないで。」
彼女は優しくそう言ってくれた。

敬祐は父の仕事が終わるのをじっと待っていた。聞こえてくる声は、皆生き生きとしていた。
羨ましい。
そんな感情が自分にあるのだと言うことに、敬祐は驚いた。目が見えなくなって、自暴自棄になっていた。病気のせいとは言え、『何故自分だけ?』と言う思いがあった。
自分にできることは何だろう?
ふと浮かんだ疑問。見つけ出そうにもない。健常者(他の人)より自分ができる範囲が狭いように思えた。でも同じ障害者でも彼女、真琴は自分の夢を持っている。それを実現させようとしている。きっとすごく苦労してるだろう。夢を叶えるのは、例え耳が聞こえたって、目が見えたって、大変なものだろうから。
暗い考えばかりが浮かぶ。こんな自分が嫌だ。自分が変わらなきゃ、きっと何も変わらない。分かってるけど、どうやって変わればいいのか、全然分からない。溜息ばかり漏れる。

「敬祐くん、お待たせ。」
父の声がし、現実世界に引き戻される。考えすぎて、頭がボーっとしている。
「どうした?」
「何でもない。」
敬祐はゆっくりと立ち上がった。クロも立ち上がる。
「お腹空いた?何か食べたい物ある?」
父の問いに、敬祐は少し考える。いつの間にかもうお昼だったんだと気づく。
「んー・・特に食べたい物ないから、何でもいいよ。」
「そうかい?あ、真琴くん。一緒にお昼行くかい?」
父は隣に居たらしい彼女に声をかけていた。やはり服がこすれる音がする。
「いいんですか?でも・・息子さん、いらしてますけど・・。」
「いいんだよ。人数は多い方が楽しいからね。」
能天気な父に、敬祐は苦笑する。こんな父だからこそ、救われている部分があるのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」

三人はスタジオから程近い、喫茶店に入った。マスターと父が顔なじみで、敬祐もよくここに連れて来られ、何度か食事をしたことがある。
「やぁ。マスター。」
「いらっしゃい。今日は敬祐くんも一緒か。」
マスターの言葉に、敬祐は反射的に会釈をした。三人は窓際の席に座った。ここが父の特等席だった。
「今日は何にする?」
ウエイトレスのシホさん(と言ってもマスターの娘さん)が、早速テーブルに水とお絞りを持ってくる。
「うーん。そうだなぁ。日替わりは何?」
「今日は和風ハンバーグ定食よ。」
「じゃあそれ。敬祐くんは?」
「同じのでいい。」
結局真琴も同じものを頼んだ。シホさんはクスクス笑いながら、カウンターへ戻って行った。
「さて。真琴くん、写真見せて。」
「あ、はい。」
父の言葉に、真琴は慌てて鞄を開け、写真を父に見せた。どうやら真琴が撮った写真を父が見ているようだ。
敬祐は手持ち無沙汰になった。見たくても見られないのは今に始まったことじゃない。ただ・・この目が見えていたら、どんなにいいだろうと思ったことはある。もっと世界観も違ったんじゃないか?もっといろんなことに挑戦しようとしていたんじゃないか?でも今は『やりたいこと』よりも『できること』を探さなければならない。
父と真琴は料理が来るまで、仕事の話をしていた。改めて彼女はバイタリティがある人だと思った。自分は彼女のように、何かに打ち込むことはできるのだろうか?

お昼を食べてから、二人と別れた敬祐はそのまま真っ直ぐ家には向かわず、色々と寄り道していた。せわしない空気が流れている街中はあまり好きじゃない。
いつの間にか敬祐は、河原に来ていた。土手に腰をかける。爽やかな風が、敬祐の頬を撫でた。確かに気温は高いが、今日は風があるので、何だか涼しい気がする。
「あれ?お兄ちゃん?何してるの?こんなとこで。」
不意に頭の上で声がした。この声は妹の紗枝だ。
「紗枝?」
「そうよ。お兄ちゃんは何してんの?」
「散歩?」
「聞かれても・・・。」
紗枝は敬祐の隣に座った。
「紗枝は?学校じゃないっけ?」
今日は平日だ。紗枝はまだ高校生なので、今の時間学校へ行っている時間だ。
「今日はお昼で学校終わったのよ。」
紗枝は敬祐の隣にしゃがみこんだ。
「お兄ちゃん、帰らないの?」
「いや、もう帰るよ。」
敬祐はそう言いながら立ち上がった。紗枝も一緒に立ち上がる。
二人は他愛のない話をしながら、家路に着いた。

その日、家に帰ってきた父に疑問をぶつけてみた。
「親父、彼女と話すとき、妙に服のこすれる音がしたんだけど。あれ、何やってたの?」
「あぁ、真琴くんと会話するときは手話をしているだよ。」
「手話?」
「そう。読唇術ができるとは言え、そればっかりだと、彼女も疲れちゃうだろ?だから手話もすることによって、彼女の負担を減らそうと思ってね。今は少ししかできないけど、それでも随分会話がスムーズになったよ。」
「へぇ・・。」
手話。知らない訳ではない。だけどどんなものかよく分からなかった。
「敬祐くんもやってみるかい?」
「俺は・・いいよ・・。」
思わず断ってしまった。どうせ彼女とはあまり会わないだろうし・・。
「そうか・・。」
父の声のトーンが下がった気がした。

敬祐は暗中模索していた。
『自分には何ができるんだろう。』
彼女に出会ってから、刺激されたのか、そればかり考えている。もう一度、彼女と話してみたい。いつしか漠然とそんなことを考えていた。

それは呆気なく訪れた。ある日、真琴が家にやって来たのだ。どうやら父が夕食に招待したらしい。いつもはフラフラどこに行ってるのか分からない兄、大輔まで居た。
「真琴くんはお兄さんと二人暮しでね。今日はお兄さんが出張に行ってるみたいで、一人だと聞いたんで、夕食に招待したんだよ。」
父は明るく真琴を家族に紹介した。
「よろしく・・お願いします。」
彼女は緊張しているようだった。どうせ父に強引に連れて来られたんだろう。でも今日だけはそんな父に感謝した。敢えて口には出さないけど。
彼女が家族と打ち解けるのに、時間はかからなかった。それはやはり彼女の明るい性格に皆が惹かれたからだろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

彼女を送り届けることになった敬祐と大輔は、帰り道をゆっくりと歩いた。大輔が身振り手振りで彼女と楽しく会話をしているのが、敬祐にも分かった。何だかもどかしかった。自分の目さえ見えていれば、兄のように身振り手振りで会話できるのに。妙な疎外感に襲われる。
「真琴ちゃんって敬祐と同い年だったんだな。」
「はい。」
兄の言葉が耳に入ってくる。そうだったのか。なのに、彼女とは差がありすぎる気がした。
「真琴ちゃんは、何でカメラマン志望なの?」
聞きたかったことを、兄が代わりに聞いてくれた。敬祐は耳を傾けた。
「ある時、すごく綺麗な夕焼けを見たんです。空は、毎日同じようで、毎日表情が変わるって気づいて、その日その日の表情を撮りたいなって。表情のある結城先生の写真に感動して、無理を言って弟子入りさせていただいたんですよ。」
彼女は楽しそうに言った。
「親父がねぇ・・。信じらんね・・・。」
大輔の言葉に敬祐は思わず頷いてしまった。父がどんな写真を撮っているのかを実際に見た事はないが、誰かが感動するような写真を撮っている事が驚きだった。
「大輔さんは、夢とかあります?」
「夢かぁ。そうだなぁ・・。俺、音楽大好きだから音楽に関われるような仕事がしたい。」
そんな夢、初めて聞いた。
「ミュージシャンとか?」
敬祐は思わず聞いた。
「俺にミュージシャンは無理、無理。ギターぐらいしかできねぇし、曲も書ける訳じゃないし。何でもいいんだ。関われれば。」
大輔の声は今まで聞いたことのないほど、楽しそうな声だった。
「敬祐は?」
不意に聞かれ、返答に困る。
「俺は・・。まだ分かんない。」
「そっか。・・・真琴ちゃんはすごいね。」
「あたしは別に。きっとふとしたときに見つかるかもしれないですよ。」
明るく言う彼女の言葉に、勇気付けられた。
「ありがとう。そうだと・・いいな。」

真琴を送り届けた後、兄と二人でゆっくり歩いて帰った。
「兄貴、俺にも何か見つかるかな・・?」
「大丈夫だよ。」
大輔はそう言って敬祐の肩を優しく叩いた。
「俺も未だに何ができるのか、よく分からないんだ。ただ漠然とこうなりたいっていうのしか分からなくて・・。敬祐は何をしている時が一番楽しい?」
大輔の問いに、敬祐はしばし考えた。何をしている時が一番楽しいんだろう?
「音楽を・・聴いてる時かな・・。」
「敬祐も音楽好きだもんな。敬祐は音楽やってみたいって思わない?」
「え?」
突然言われ、驚いた。
「敬祐はきっと俺より感性いいと思うし、ギターだってやってるじゃん?」
「そ・・だけど・・。」
引きこもりだった敬祐は大輔にギターを教えてもらった。飲み込みが早かった敬祐は、ギターにハマっていった。
「何でもいいさ。何が向いてるかなんて、誰にも分かんない。だから試行錯誤しながら、がんばるんだよ。」
兄の言葉は、敬祐の心に染み入った。

家に戻った敬祐は、ギターを抱えてみた。いつも敬祐は、好きな曲を音で聴いて耳でコピーをしていた。そんなことを繰り返していたので、耳は鍛えられていると思う。
「俺に・・できるのかな・・。」
不安が過ぎる。だけど音楽は好きだし、ギターを弾いている時や、音楽を聴いている時が一番楽しい。
「やってみようかな・・?」
敬祐はコードを何気なしに、弾いてみた。不思議とメロディーが浮かんできた。今までで初めてのことだった。浮かんでくるメロディーを覚えながら、鼻歌を歌う。地味で淡々としたその作業が妙に楽しかった。初めて曲を作ることが、こんなに楽しいと知った。
『やれそうな気がする。』
敬祐は音楽活動をやれるだけやってみようと思った。

次の日も敬祐は、ギターを抱えていた。昨日作ったメロディーを思い出すように弾いてみた。
「お?いい曲だな?」
ふと声がして、弾くのを中断する。この声は大輔だ。
「兄貴、俺・・音楽やってみようと思うんだ。」
「いいじゃん。今の曲、敬祐が作ったのか?」
「うん。」
「へぇ。聴かせてよ。」
大輔の言葉に、敬祐は初めから弾き始めた。歌詞なんてないので、鼻歌だ。
最後まで静かに聞いていた兄は、弾き終わると絶賛し始めた。
「すごいじゃん!初めて作ったにしては、よくできてると思うよ。」
大輔に褒められ、敬祐は照れた。
「そ・・かな・・?」
「うんうん。歌詞とかつけてみるといいかもね。」
「歌詞か・・。俺、文才ないからなぁ・・・。」
「文才とか関係ないと思うよ。俺は。曲のイメージで書けばきっと書けるよ。」
「うん。やってみる。」
敬祐はこの際だからいろいろと挑戦しようと思った。

数日後、敬祐は初めて作った曲に、詞をつけてみた。だけど、あんまり納得がいっていない。どうしてだろう?メロディーにはちゃんとハマっているのだが、何となくイメージが違う。
「敬祐、どした?」
通りかかった大輔に、歌詞に悩んでいることを伝えると、大輔は思いついたように言った。
「じゃあ、俺のツレ呼んでみよう。」
「え?」
突拍子のない大輔の言葉に敬祐は焦った。大輔はちょっと待っててと言うと、携帯電話でどこかへかけ始めた。大輔のツレを呼び出しているようだ。すぐに電話を切る。
「すぐ来るって。」
「来るって・・・誰が?」
「来てのお楽しみ。」
兄はのほほんと言った。

数分後、ものすごい音を立てて、誰かが入ってきた。
「大輔ぇぇぇぇえ!」
叫びながら、入ってきた彼は、大輔を揺さぶった。
「お前、何握ってやがる!」
「さぁ?自分の胸に聞いてみたら?」
意地悪い兄の声に、敬祐は溜息を漏らした。脅して呼びつけたな・・・。悪魔め。
「そうだったな!お前はそういうやつだよなっ!」
大輔のツレは、泣きそうになりながら言った。
「まぁお前を呼んだのは、他でもない。俺の弟に歌詞の書き方を伝授してやってくれ!」
大輔はツレの肩をポンッと叩いた。
「は?」
いきなりの展開についてこれないようだ。まったく兄貴は外でもこうなのか・・敬祐は溜息を吐いた。
「これ、俺の弟の敬祐くん。かわいいでしょ?」
もう十九にもなる弟にかわいいはないだろうと思ったが、口には出さなかった。
「初めまして。」
とりあえず頭を下げる。
「初めまして。あぁ、君がいつも大輔が話してる敬祐くんか。」
相手は自分のことを知っていた。何を言ったんだ・・。変なこと言ってないだろうな。
「音楽始めたって言ってたな、確か。」
その問いに、敬祐は頷いた。相手は目が見えないことを知っているようで、特に触れてこなかった。ちょっと嬉しい。
「敬祐、こいつバンドやってて、これでもヴォーカルらしいよ。」
「これでもって何だよ。」
兄と友達のやり取りに思わず微笑んだ。
「もっとまともな紹介あるだろ・・。俺は日野裕也。こいつと同じ大学行ってんだ。」
「バンドいつからやってんだっけ?」
「高校生ん時からだよ。・・で・・詞の書き方だっけ?」
「そうそう。敬祐も曲作ったんだけど、歌詞が気に食わないんだって。」
大輔が説明すると、裕也は少し悩んでいるようだった。
「うーん。書き方って言ってもな・・。人それぞれ違うだろうし、一概にコレとは言えないよ。」
「使えねぇな。」
「お前なぁ・・・。」
大輔の無情な言葉に裕也は溜息を漏らした。
「日野さんは、どうやって歌詞書いてるんですか?」
「裕也でいいよ。俺はインスピレーション。」
「インスピレーション?」
「そう。曲もそうだけど、作りこむ人とそうでない人がいて、俺はどっちかってと、ささって作っちゃうタイプ。だからパッて思いついたことを曲や詞にしちゃうんだ。曲が先にできた場合、詞は曲のイメージから作るよね?だけど曲を作るときにある程度のイメージはできてるんじゃないかい?」
そう問われ、敬祐は頷いた。メロディーが浮かんだ時、少しだけイメージが浮かんだ。
「じゃあそのイメージを言葉にしたらいいだけだよ。最初は難しいかもしれないけど。段々慣れてくるから大丈夫だよ。」
裕也の言葉に、少し安心した。
「メロディーを作ったからって、無理やり歌詞を合わせなくてもいいし。その時に臨機応変にやればいいよ。」
「はい。」
「なっ?素直でかわいいだろ?」
大輔が突拍子もない話をする。何を言い出すんだか。
「お前と違ってな。」
裕也が皮肉を言うと、大輔は「だろ?」と切り替えした。敬祐は皮肉をもろともしない兄に溜息を吐いた。

父は相変わらず真琴を家に招待していた。父にとって、弟子である以上に娘のような存在なのだろう。紗枝を始めとして、家族全員と打ち解けている。両親を早くに亡くした彼女からしたら、父や母の存在がきっと新鮮で、心地いいのだろう。
「本当の家族と思ってくれていいからね。」
と言う父の言葉通り、最初は気後れしていた彼女も、月日を重ねるごとに気兼ねなく訪ねてくるようになった。それは敬祐にとって一番嬉しい変化だった。

「敬祐くん、音楽の道に進むの?」
リビングにいると、真琴に突然問われ、敬祐は驚いた。声のした方へ顔を向け、ゆっくり話す。
「どこでそんな話を・・・。」
「大輔くんが言ってた。」
彼女はそう言って笑った。オシャベリめ・・・。
「はっきりとは・・・決めてないけど・・。俺にできることって、こういうことしかないような気がして・・。」
「そっかぁ。素敵だね。」
真琴の言葉に妙に照れる。
「お兄ちゃん、曲作ったんでしょ?聴かせてよ。」
「でも・・・真琴が・・・。」
弾いたってきっと聞こえない彼女には、辛いんじゃないだろうか?
「あたしも聴きたい。聴かせて?」
真琴の言葉に、我が耳を疑った。まさかそう言うとは思っていなかった。
「まこちゃん、ちょっとなら聴こえるんだよ?だから聴かせて。」
紗枝に押し切られ、敬祐は仕方なく曲を披露することにした。
「部屋にギター置いてるんだ。だから、俺の部屋でいい?」
「うん。」
三人は敬祐の部屋に移動した。

敬祐はギターを抱えると、大きめの声で歌った。真琴にも聞こえるように。
一方真琴も、必死に音を聞き取ろうとしていた。
紗枝はそんな二人を見て、何だか胸が熱くなった。
弾き終わると、拍手が起こった。敬祐は驚いた。
「お兄ちゃん、すごい!」
「素敵だったよ。敬祐くんが作ったんでしょ?」
真琴の問いに、頷いた。そこまで褒められると正直思っていなかったので、ちょっと拍子抜けした。
「これ、初めて作った曲?」
「そだよ。ってこれしか作ってないけど・・。詞に苦戦してたから・・。」
敬祐の言葉を紗枝が手話で真琴に伝えていたのが、分かった。
「紗枝も手話できるの?」
「うん。少しだけど・・・まこちゃん、ずっと唇読んでたら疲れるだろうから、こっちの方がいいと思って。」
「そっか。」
「敬祐くんの曲、もっとたくさん聴きたい。」
真琴は呟くように言った。
「耳がまだ聞こえてるうちに・・・覚えておきたい。」
真琴の台詞が悲しく響く。
『まだ聞こえてるうちに・・・。』
彼女の聴力は少しずつなくなっていっているのだ。突然失うのと、少しずつ失うのと、どっちが辛いんだろう?どっちが怖いんだろう?
「分かった。頑張って曲書くよ。できたら、聴かせる。」
これが敬祐にできる精一杯のこと。
「ありがとう。」
彼女の声が喜んでいるのが、敬祐にも分かった。

真琴が家に帰った後、紗枝が敬祐の部屋にやって来た。
「お兄ちゃん。まこちゃんとの約束、ちゃんと守ってね?」
「分かってるよ。軽はずみに言った訳じゃない。」
「なら・・よかった。」
紗枝は敬祐の隣に座った。
「お兄ちゃん・・。まこちゃんの力になってあげて?」
「え?」
「まこちゃん、表には出さないけど、とっても怖いんだと思う。段々聴力が落ちてきて、いつか何も聞こえなくなるって・・・。」
紗枝も敬祐と同じように考えていた。
「あたし・・・分からないから・・。どうやって言葉をかけてあげたらいいかとか・・まこちゃんの気持ち、分かってあげたいけど、分かってあげられないから・・。」
「紗枝・・。」
「だから・・お兄ちゃん、力になってあげてね?」
紗枝の声が震えていた。泣いているのかもしれない。敬祐は隣にいる紗枝を抱きしめた。
「うん。大丈夫。真琴には紗枝も俺も・・兄貴も、親父もお袋もいる。だからお前は明るいままで居てあげて。真琴が不安にならないように。笑顔で居てやって。」
敬祐の言葉に紗枝は頷いた。

力になってあげるなんて、大層なことはできやしないのは分かっている。だからこそ、敬祐は真琴の為に曲を書こうと思った。彼女の不安を消してしまうような、暖かい曲。
それでも煮詰まることもあった。そんな時、大輔に連れられて、裕也のライブに顔を出すようになった。ライブハウスの熱気は凄まじく、酔ってしまいそうだった。だが、ライブに感化されて、色んなアイデアが浮かぶようになり、新しい曲を生み出せるようになっていた。音楽が好きな大輔は、いつしか敬祐と共に曲作りをするようになっていた。敬祐が曲を、大輔が詞をつける。出来上がった曲は、遊びにきた真琴に聴かせる。できるだけたくさん。でも真琴に負担をかけないように数曲だけ。
そんな毎日を繰り返していた時だった。
「路上ライブ?」
「そう。やってみたら?勉強になるよ。」
突然やってきた裕也に路上ライブをしてみるように勧められた。
「でも・・。」
他人に聞かせるような曲じゃない。真琴の為に作った曲ばかりだ。大輔も困っているようだ。
「曲って成長するんだよ。」
「え?」
裕也の言葉の意味が分からず、戸惑う。
「曲は作って終わりじゃない。何回か演奏しているうちに、変化していくんだ。それは誰かに聞いてもらって初めて少しずつ変わり始めるものなんだよ。」
何となく分かったような分からないような・・・。
「既に何曲かストックあるんだろ?」
「あるけど・・・。そんな無理だよ・・。」
いつもの大輔からは考えられないような弱気だ。
「大丈夫だって。最初は恥ずかしいけどさ、やり始めると楽しいから。」
のんきに言う。敬祐は躊躇したものの、少し興味が沸いた。
「路上ライブをしてる人はたくさんいるの?」
「最近多くなったな。俺らがやるのも聞きに来てみる?」
「行きたい。」
敬祐は即答だった。
「おけー。じゃあ今から行くか。」
「今からかよ!」
大輔は思わず突っ込んだ。
「善は急げって言うじゃん。」
「善なのか?」
相変わらずな二人に笑いながら、敬祐は出かける支度をした。

裕也に連れて来られたのは、駅前だった。確かにここなら人がたくさんいる。
「お、やってる、やってる。」
裕也の言う通り、あちこちから音楽が聞こえる。
「裕也。」
「お、真一。悪かったな、呼び出して。」
「いや。お前は突発的に路上やるの好きだからな。」
真一と呼ばれた男性は、そう言って苦笑した。
「紹介するよ。これ、俺のバンドのギタリストの宮野真一。大輔は知ってるよな?こっちは大輔の弟の敬祐。」
「よろしく。」
そう言われ。敬祐も「よろしくお願いします。」と頭を下げた。
「真一ちゃん呼んだのは、お前がギター弾けないからかっ!」
大輔が突っ込む。
「当たり前じゃん。アカペラでなんて誰がやるか!」
「やめんか。」
言い合う大輔と裕也の間に真一が割って入る。どうやらこの人がツッコミ役らしい。
「お前ら子供か?敬祐くんも呆れてるじゃないか。」
「あ、いつものことですから・・・。」
敬祐がそう言うと、真一は大声で笑った。
「あはは。確かにそうだ。お前らより敬祐くんの方が大人だなぁ。」
真一は肩をポンッと叩いた。敬祐は思わず苦笑した。
「それより、ライブやるんだろ?」
真一が話の路線を戻す。
「おうよ。こいつらにどんなもんか教えてやろうと思ってな!」
「裕也、上から物を言うのはやめなさい。」
「はぁい・・。」
こんな二人の会話を聞いていると、親子のような関係に思えてくる。真一はギターを取り出しながら、裕也と何をやるかを相談し始めた。
「よし、やるか。」
真一はギターを抱え直した。
「敬祐こっち。」
大輔が敬祐を誘導して、邪魔にならないような場所に立った。
ライブは突然始まった。楽しそうに歌う裕也、それに合わせて掻き鳴らされるギター。敬祐は魅力ある二人のパフォーマンスに引き込まれていった。

数曲演奏した二人は、聞き入っていた敬祐たちに声をかけた。
「一緒にやろう。」
その言葉に、敬祐と大輔は一応持ってきていたギターを取り出した。演奏だけなら、気兼ねなくできる。二人は裕也と真一に混ざって、演奏をした。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。

味を占めた敬祐と大輔は、今度は二人だけで路上ライブに挑戦してみた。最初は緊張したものの、次第に緊張もほぐれて、楽しく歌うことができた。

それから週に一度、路上ライブに出るようになった。止まって聞いてくれる客は少ないようだった。それでも二人は歌い続けた。

路上ライブをしていることを真琴に話すと、早速紗枝と二人で見に来てくれた。後から紗枝に聞くと、真琴は本当に嬉しそうに曲を聞いていた、とのことだった。それだけで何だかとても嬉しかった。単純だと、自分でも思う。真琴が喜んでくれるのが、敬祐にとって一番の支えだった。

一方真琴の方も、敬祐の歌が心の支えになっていた。いつか聞こえなくなってしまうことは分かっていた。それが一ヵ月後なのか、一年後なのか、五年後なのか、全く分からないが、いつか聞こえなくなることは分かっていた。だからこそ、敬祐の歌を、優しい声を、心に刻みたいと思っていた。他の誰でもない、敬祐の声を覚えていたいと思ったのは、敬祐に惹かれていたからかもしれないとふと気づいた。一生懸命に取り組む敬祐の姿に、真琴は勇気付けられた。自分にも【写真】という夢がある。自分には無理なんじゃないかと、諦めかけたこともある。それでも敬祐の優しい暖かい歌に、励まされた。もう少しだけ、やってみようと思えた。

敬祐は音楽と並行して、手話を覚えた。先に覚えていた紗枝や大輔に手の形を教えてもらい、言葉を覚えた。真琴に初めて手話を使った時、とても驚いていたけど、とても嬉しそうだったと紗枝が教えてくれた。彼女の表情が見られないのが、とても悔しかった。だけど喜んでくれたのが、嬉しかった。少しでも多く彼女と会話を交わせるように、たくさんの単語をがんばって覚えた。

月日はあっという間に過ぎていった。敬祐の真琴への想いは募るばかりだった。初めて家族以外の人を好きになれた。真琴に出会わなかったら、自分も何かをがんばろうなんてきっと思えなかった。
真琴もいつしか敬祐に惹かれていた。優しい歌。自分のためだけに歌ってくれるような気がして、時たま襲い掛かる不安な気持ちも吹き飛んだ。時々優しく微笑みかけてくれる敬祐の笑顔が、目に焼きついていた。自分が抱える不安も、敬祐は分かってくれた。時々弱音を吐きたくなると、敬祐と大輔の路上ライブに顔を出した。

日を増すごとに、音が遠くなる。怖くて、不安で、一人で居たくない。真琴はいつの間にか結城家の玄関の前に立っていた。インターホンを鳴らす。しばらくしてドアが開いた。
「はい?」
出てきたのは敬祐だった。
「敬祐くん・・。」
搾り出す声で、敬祐が気づいた。
「真琴?どうしたの?」
「あの・・・。」
声にならない。敬祐は優しく微笑んだ。
「中、入って。」
敬祐に言われ、中に入る。リビングに通され、敬祐がお茶を出してくれる。
「ごめんね。今誰もいなくて、これぐらいしか出せなくて。」
「ううん。いいの。」
気を遣わせたんじゃないかと、真琴は不安になった。
「どうかしたの?」
「え?」
「何か声がいつもより元気ないから。」
目が見えない分、耳が敏感なようだ。真琴は思い切って不安な気持ちをぶつけてみた。
「怖いの・・。」
「怖い?」
「段々・・耳が聞こえなくなってきて・・・いつかまったく聞こえなくなっちゃうんじゃないかって・・・。何も聞こえなくなったら、どうしようって・・。すごく不安でたまらない。」
真琴は震える自分の両腕を抱いた。敬祐は真琴に近づき、隣に座った。真琴の方を向いてゆっくりと手話をしながら話す。
「怖いよね。俺が見えなくなったのは、ほんとに小さい時だったから、あんまり覚えてないけど。怖いって思った。皆と同じようには生活できないって思うと不安で仕方なかった。今俺がこうして暮らせるのも、傍に家族が居てくれたからだよ。自分一人じゃどうにもならないことも、皆が助けてくれた。真琴にもお兄さんっていう家族がいるし、俺たちもいる。それにプロのカメラマンになるって言う夢だってある。不安で、怖くて、どうしようもないくらい苦しくても、真琴が助けてって言えば、俺らがいつでも助けるよ。俺は・・何もできないかもしれないけど・・。愚痴ぐらいいくらでも聞くよ。」
敬祐の暖かい言葉に真琴は涙が溢れていた。
「ありがとう。」
震える声を絞り出す。敬祐は優しく微笑んでいた。敬祐と居ると不安さえも吹き飛ぶ気がした。
「敬祐くん・・あたし・・・。敬祐くんのこと・・好き・・。」
言った後でハッとした。何を言ってるんだろう。敬祐もきょとんとしている。
「あ、ごめん・・あの・・今のは・・・その・・忘れて?」
慌てて取り繕うが、後の祭りである。敬祐は照れてながら、口を開いた。
「ありがとう。嬉しいよ。俺も・・真琴のこと好きだよ。」
まさかそう返ってくると思わなかった真琴はあまりのことに驚いた。それと同時に涙が一気に噴出した。安心からなのか、何なのか分からない。
「真琴?何で泣いてるの?」
敬祐が慌てる。
「嬉しいから・・かな?」
不安が安心に変わったから、の方が正しいかもしれない。敬祐は手探りで真琴の腕を掴み、そのまま抱き寄せた。
「俺なんかのどこがいいんだ?」
微かに聞こえた彼の声に、真琴は口を開いた。
「一緒にいると安心できるから。」
その言葉に敬祐は、真琴をぎゅっと抱きしめた。

翌日。敬祐と大輔はいつも通り路上ライブに出ていた。
「敬祐ちゃ〜ん。昨日いいことあったんでしょ?」
「何が?」
兄の意地の悪い言い方に、あっけらかんと答える。
「何が?って真琴ちゃんと何かあったんでしょお?」
その瞬間、敬祐は顔から火が出た。
「な・・何言ってんだよ!」
「図星〜。」
だめだ。このままじゃ完全に大輔のペースだ。敬祐は落ち着こうとした。
「兄貴・・何を知ってるんだ?」
「何って・・付き合うんだろ?真琴ちゃんと。」
何で知ってるんだ?
「悪いねぇ。昨日見ちゃったんだよ〜。抱き合ってるとこ。」
がくっ。何でよりによって大輔に見られてんだ・・・。
「まぁでもよかったじゃん。お前も恋できてさ。」
「何だよ、それ。」
「普通の人と同じってことだよ。」
大輔の言葉に敬祐は驚いた。
「目が見えないってすごいハンデだと思う。でも目が見えない代わりに、お前には心の目がある気がする。」
「心の目?」
「ただ目で見るだけなら、誰にだってできる。だけど、人の心の中までは見ることはできない。敬祐は真琴ちゃんの不安な気持ちを理解してあげて、彼女が言ってほしい言葉を適切なときに言ってあげられる。そういう意味で敬祐は心の目を持ってると思うんだ。」
いつになく真面目に話す大輔に敬祐は驚いていた。
「兄貴・・。」
「うわぁ、俺いいこと言った?素敵なこと言ったんじゃね?」
それがなかったら、素敵で終わってたのにな、と思ったが、敬祐は敢えて言わなかった。
「敬祐も真琴ちゃんも他の人が持っていないハンデ持ってるけどさ。俺、二人なら大丈夫だと思うよ。俺、応援してるからさ、何か困ったことあったらいつでも相談乗るよ。」
いつもはおちゃらけてて何考えてるのかよく分からない兄だが、やっぱり兄貴なんだなぁと思ってしまう。
「ありがと。兄貴。」
「いいって。よし、やるか。」
「うん。」
二人はギターを抱え直した。

付き合っていることは、その日の晩、家族に打ち明けた。皆驚いていたが、とても喜んでくれた。両親がこんなに喜ぶなんて思っていなかった。
「真琴くん、とってもいい子だからね。大切にしてあげなさい。」
父は敬祐の肩をポンッと叩いた。
「分かってるよ。」
「紗枝、よかったわねぇ。お姉さんができて。」
「母さん・・話早すぎだよ・・。」
まだ付き合っているだけである。結婚なんて考えられない。もちろん真琴のことは好きだし、大事に思っているが、お互い障害を持っている。そう思うと少し後ろ向きに考えてしまう。
「あら?いつかはするでしょ?」
あっけらかんと言う母に頭を抱える。どうしてこの家族はこうも能天気なんだろう。それが救いではあるが。
「いつかはするかもしれないけど・・今はまだ考えられないよ。」
「そうだよ。お袋、ゆっくり見守ってやろうぜ。」
兄が助け舟を出してくれる。大輔の言葉に、母も「そうね。」と納得したようだった。相変わらず暖かい家族に、敬祐は安心感を覚えた。

付き合っているとは言っても特に変わり映えしない二人に周りがヤキモキしていた。だが二人は一緒にいられるだけで幸せだった。
相変わらず敬祐の曲は優しさに満ちた暖かいものばかりだった。歌詞担当の大輔は、敬祐と真琴をイメージして詞をつけた。それに本人たちは気づいているのかいないのかは定かではないが、きっと気づいていないだろう。
真琴の誕生日には、敬祐が作詞作曲した曲をプレゼントし、敬祐の誕生日は、真琴が一生懸命編んだマフラーをプレゼントした。もちろん、それ以外でもお互いを驚かせるようなプレゼントをして相手が喜ぶ様子を見て(聞いて)、プレゼントした側がとても喜んだ。

月日はあっという間に経ち、あれから三年の歳月が過ぎていた。真琴の耳はほとんど聞こえなくなっていた。恐怖と不安が襲い掛かる時もあったが、傍に敬祐が居てくれたことが一番の支えになっていた。真琴の夢は着実に近づいていた。同時に敬祐も路上ライブで人気が徐々に上がり、地元ではすっかり有名になっていた。
忙しくなるにつれ、二人はすれ違うようになっていた。紗枝に頼んでメールを送ってもらうことが、唯一の連絡手段だった。自分の目が見えないことの不甲斐なさに敬祐は自分を腹立たしく思った。会えなくなる度、不安が募る。信用していない訳じゃない。ただ会いたいだけ。

敬祐はみるみる元気が無くなっていった。
「敬祐?大丈夫か?」
敬祐が無理をしているように見えた大輔は声をかけた。路上ライブでさえ、覇気がなくなっている気がする。部屋に佇む敬祐の肩が落ちていた。
「俺・・このままでいいのかな・・・。」
初めて見せる弱気な発言に、大輔は戸惑った。
「このままでいいって?」
「真琴とのこと・・。ずっと忙しくて会ってない・・。」
気にしていることは知っていたが、ここまで重症だと思わなかった。
「敬祐・・。」
「真琴にはもっとふさわしい人がいるんじゃないかなぁって・・思えてくるよ・・・。」
絞り出すような声に大輔の方が泣きたくなってきた。
「何・・弱気なこと言ってんだよ!」
「だって・・・そうだろ?俺の目が見えないから、きっと真琴に辛い思いさせてる。真琴には俺なんかよりきっといい人がいるよ。」
「なぁ・・敬祐?それ・・真琴ちゃんが聞いたら、どんなに辛いと思う?目が見えないからとかそんなの関係ないよ。」
「兄貴はっ!兄貴は・・目が見えるから・・俺の気持ちなんて分からないよ・・・。」
敬祐の言葉に大輔は悲しくなった。
「分からないよ!お前がこんな弱虫だなんて知らなかった!勝手に落ち込んでろ!真琴ちゃんを手放したりして後悔しても知らないからな!」
大輔は怒鳴り散らして部屋を出て行った。それと入れ替わるように紗枝が入ってくる。
「大兄ちゃん何怒ってるの?」
「知らねぇよ。」
思わず紗枝に当たってしまう。
「何怒ってんのよ。せっかくまこちゃんからメール着たっていうのに。」
「え?」
「読むよ?『敬祐くん、元気にやってるのかな?最近忙しくてなかなか会えなくてごめんね?今度の日曜日はそちらに行けると思います。今度こそは絶対に行くからね?』」
真琴からの久々のメールに、敬祐は嬉しさで胸がいっぱいになった。
「ねぇ、お兄ちゃん。大兄ちゃんは大兄ちゃんなりにお兄ちゃんのこと心配してるんだよ。」
紗枝に言われなくても気づいていた。一番の理解者で一番応援してくれていたのは、大輔だ。
「そりゃ大兄ちゃんも言い方悪かったけどさ。・・ごめんね。聞こえてたの。」
謝られ、敬祐は首を振った。
「二人ともハンデ背負ってて、それでもお互いのことを思いあってて、すごく羨ましいって言ってた。けど二人を見る大兄ちゃんの目は暖かくて、嬉しそうだった。お兄ちゃんが不安に思うのは当たり前だと思うの。目が見えていたとしても、付き合ってると不安になることあるもの。だけどお兄ちゃんには、頑張ってほしいんだと思う。大兄ちゃんは不器用だけど、お兄ちゃんのこと一番心配してるんだよ。」
紗枝の言葉に胸がいっぱいになった。確かに言い過ぎたかもしれない。大輔は大輔なりに自分のことを見てくれていたのに・・・。敬祐は立ち上がり、兄の部屋に向かった。
「兄貴。」
「何だよ?」
ふてぶてしく声が返ってくる。
「あの・・さっきはごめん・・。」
突然謝られ、虚を突かれたのか黙っている。
「兄貴が一番応援してくれてるって知ってたのに、あんなこと言っちゃって・・。」
『兄貴は・・目が見えるから・・俺の気持ちなんて分からないよ・・・。』
少し前に言った自分の言葉が蘇る。考えなしに言った自分の言葉はどれだけ大輔を傷つけたんだろう?
「いいよ。気にしてない。って言ったらちょっと嘘になるけど。」
「ごめん・・。」
「もういいよ。俺は敬祐には諦めないでいて欲しいだけだよ。目が見えるとか、見えないとか、耳が聞こえるとか、聞こえないとか・・そういうのって関係ないんだって思えたから・・。敬祐に勇気をもらったんだよ。」
「え?」
「俺が好きになった人は、言葉を話せないんだ。」
初めて聞く話に敬祐は驚いてリアクションが取れなかった。
「だけど必死で手話を覚えて、彼女と話せるようになった。敬祐も頑張ってるから、俺も頑張ろうって思えた。今度路上ライブに来てくれるって。」
兄の声は震えていたが、嬉しそうだった。
「知らなかった。」
「当たり前だ。誰にも言ってないもん。」
大輔は苦笑いを浮かべた。
「まだ付き合ってもないし。だから他のやつには内緒な?」
「うん。兄貴、がんばれ。」
「おう。」

真琴に会える日曜日まで待ちきれなかった。その間にこれからのことを真剣に考えた。大輔にも相談した。手探りでも、答えが出たような気がした。

日曜日。いつものように真琴がやって来る。今日は気を遣っているのか、家族全員外に出ていた。
「いらっしゃい。」
家の中に招き入れる。リビングに通して、お茶を出そうと台所に立つと、真琴が近寄ってきた。
「あたしが淹れるわ。クッキー、作ってきたの。」
「じゃあ、よろしく。」
敬祐は真琴に頼んでリビングに戻った。数分後、彼女が戻ってくる。クッキーを食べながら、今まで会えなかった時の話をした。お互いの夢がどれだけ近づいているか再確認できた。敬祐は意を決して口を開いた。
「あのさ、真琴。」
「ん?何?」
「その・・俺のこと・・どう思ってる?」
「何?突然・・。」
確かに今の質問は余りにも唐突過ぎたかもしれない。一拍置いて真琴が答える。
「もちろん、好きよ。」
照れているようだ。だが、その言葉を聞いて決心が固まった。
「真琴、忙しくて会えないの・・俺にはもう耐えられないんだ・・。」
敬祐の言葉に、別れ話を切り出されるのかと身構える。
「結婚、しよう?」
あまりにも突然すぎて、真琴は言葉を失った。
「真琴・・?」
「あ、ごめんなさい・・。びっくりしちゃって。」
敬祐は返事を待った。
「あたし・・・なんかでいいの?」
「真琴じゃなきゃ言わないよ。」
敬祐の言葉が嬉しくて、真琴は胸がいっぱいになった。
「こんな俺でもいい?」
「敬祐くんじゃなきゃやだよ。」
敬祐は手探りで真琴の手を握った。真琴も敬祐の手を握り返す。
「後は家族にどう説明するかだな・・。」
敬祐の言葉に真琴は「そうだね。」と相槌を打った。

夕飯は家族全員に加え、真琴の兄、聡も呼ばれた。実は何度か会っているので初めてではないのだが、妙に緊張する。
「なんだい?改まって。」
外食したいと父が言い出したのだが、どことなく改まった雰囲気なことに気づいたようだ。敬祐は隣に座っている真琴の手を握った。
「俺たち、結婚しようと思ってる。」
突然の重大発表に、一同唖然とした。
「だけど・・お互い・・障害がある・・。だから・・・。」
「うちで暮らせばいいじゃん。」
言葉に詰まった敬祐に大輔があっけらかんと言う。そんな簡単に言っていいのだろうか。
「それいいね。うちで暮らせば、心配はないだろう?」
父も能天気に言い放つ。
「あ・・えっと・・。」
こんなあっさりと問題解決していいのだろうか?
「私も賛成ですよ。真琴は皆さんのこと本当の家族のように思っているみたいですし。真琴が決めた人なら、安心して任せられます。」
聡は優しくそう言った。そんな言葉を聞けると思っていなかった敬祐は拍子抜けした。
「お兄ちゃん・・。」
真琴も喜んでいるようだ。敬祐はホッと胸をなでおろした。
それから、家族会議を開き、今後のことを決めることにした。

式は本人たちの意向で挙げなかった。代わりにウェディングドレスとタキシードで記念写真を撮った。真琴のウェディングドレス姿を見れないのが、悔しかったが、代わりに他の人が真琴を誉めてくれた。
いつか目が見えるようになったら、一番に真琴の姿が見たいと思う。途方もない希望かもしれない。それでも希望は捨てない。諦めない事を彼女が教えてくれたから。

敬祐も真琴もお互いの夢のために日々努力は惜しまなかった。少しずつ世間に認められるようになり、敬祐は大輔と共にデビューを果たした。繊細な音楽に暖かい歌詞はじわじわと人気が出始めた。
一方真琴も空の表情を撮った様々な写真が評価され、少しずつ、でも確実に夢に近づいていた。
二年の月日が流れた頃、真琴は妊娠をした。もちろん家族全員が喜んだ。だけど真琴は少し不安だった。
「あたし・・ちゃんと育てられるのかなぁ・・。」
不安を漏らした真琴に敬祐はゆっくりと話した。
「大丈夫。真琴は一人じゃないんだよ?俺もいるし、お袋たちだっている。もっと俺ら頼っていいんだよ?」
その言葉に真琴は落ち着きを取り戻した。
「そうね。ありがとう。」

家族全員に見守られ、真琴のお腹は順調に膨らんでいった。
そして出産の日。敬祐は病院に駆けつけた。母も一緒に立ち会う中、敬祐はずっと真琴の手を握っているしかできなかった。それでも真琴は勇気付けられた。

甲高く声が響く。とうとう生まれたことが敬祐にも分かる。敬祐は真琴に「ありがとう」と伝えた。真琴は喋る代わりに握っている手を優しく握り返してくれた。
生まれたのはかわいい女の子だった。初めて触れる小さな体に敬祐は感動した。こんな時、目が見えていたら・・と思う。それはどうしようもないことなので、口には出さないが、この子が早く喋れるようになって欲しいとつい思ってしまう。
話し合った結果、彼女には『琴音』と名づけた。美しく、強い女性になって欲しいという願いを込めた。結城家の全員に見守られながら、彼女はすくすくと成長した。

今思えば、このときが一番幸せな時間だったのかもしれない。

それは突然やって来た。琴音も二歳になり、よちよち歩きができるようになった頃。真琴は琴音を連れて、義母と買い物に出かけた。

その頃、敬祐は兄と仕事をこなして、家へと帰ろうとしていた。
「敬祐、先帰っといて。」
「兄貴どっか行くのか?」
「デート♪」
楽しそうな声に敬祐は微笑んだ。あの彼女とだろう。
「楽しんで来いよ。」
「もちろん。」

兄と別れた敬祐はスタジオからギターを抱え、歩いて帰った。こんなにゆっくり歩けるのは久しぶりで、何だか楽しかった。目が見えなくなってから、外を出歩かなくなったが、元々小さい頃から散歩が好きだった。夏にしては少し涼しい風に、真琴に出会った頃を思い出していた。

「お義母さん、あそこにいるの敬祐くんじゃない?」
「あら。ホント。お仕事終わったみたいね。」
車道を挟んだ反対側に、真琴は敬祐の姿を見つけた。クロのハーネスをしっかり握っているし、ギターを背負っているので見間違えるはずはない。
すると、パラパラと小雨が降り始めた。突然の雨に敬祐も驚いているようだ。真琴たちは傘を持っていたので、母が敬祐の携帯電話に電話をかける。
『もしもし?』
すぐに出た敬祐に母が口を開く。
「敬祐。今ね、私たち道路挟んだところに居るの。私たち傘、持ってるから、少し先の横断歩道渡っていらっしゃい。」
『分かった。』
敬祐は電話を切ると、クロに指示を出した。真琴たちも横断歩道の方に移動する。青になり、敬祐は横断歩道を渡り始めた。反対側にいた真琴も、琴音を義母に預け、傘を持って敬祐の元に向かった。

運命の歯車は突然狂い始める。

敬祐が道路の真ん中に来た頃、余所見運転をして信号無視をした車が敬祐目掛けて突っ込んできていた。それに真琴が気づき、傘を放り出し、走った。
「敬祐くん!」
敬祐は突き飛ばされた。
何が起こったのか分からない敬祐は車のブレーキ音と何かがぶつかる音で、ようやく事態を察する。
「ま・・真琴?」
敬祐は手探りで真琴を探す。琴音を連れて駆けつけた母親が敬祐の手を取り、真琴の近くへ連れてくる。手を握ると、力なく握り返してくる。
「真琴?大丈夫?」
あの音で大丈夫だなんて考えられない。真琴はか細い声で敬祐に話しかけた。敬祐は耳を口元に近づけた。
「・・怪我・・な・・い?」
真琴の問いに、敬祐は「ないよ」と頷いた。
「よ・・かた・・。」
「真琴?真琴!しっかりしろ!」
消えそうな真琴の声に、敬祐は何度も真琴の名前を呼んだ。

しばらくして、母が呼んだ救急車と警察が駆けつける。敬祐たちは、真琴と共に救急車に乗り込んだ。敬祐はずっと真琴の手を握っていた。
なぜ?どうしてこんなことになったんだろう?
「け・・すけ・・く・・。」
真琴の声に、敬祐は再び口元に耳を近づけた。
「あたし・・居なく・・なっても・・・琴を・・お願い・・ね?」
「居なくなるなんて、言うなよ!絶対助かるから!」
敬祐は懸命に真琴を励ました。声は・・届いているか分からないけど。

病院に着くと、物凄いスピードで真琴は手術室へ搬送されていった。手術室の前で呆然としていると、母が椅子に座らせてくれた。足元には、クロが座る。状況が分かっていない琴音は、無邪気に話しかけてくる。
「ぱぱぁ。ままは?」
どう答えていいか分からない。困っていると、母が琴音を敬祐の隣に座らせながら、諭した。
「ママはすぐに出てくるから、おりこうに待ってましょうね。」
「はぁい。」

しばらくして大輔が現れた。
「お袋、敬祐、真琴ちゃんは?」
「今手術室よ。」
母が答える。
「何で・・こんなことに・・・。」
「・・俺のせいだよ・・。」
敬祐の言葉に大輔がハッとする。
「俺の目が見えてたら、こんなことには・・。」
「おい、敬祐。お前のせいなんかじゃないよ!」
大輔が慌てて否定するが、敬祐はもうそれしか考えられなかった。自分の目が見えてさえいれば、真琴が自分を庇うこともなかった。
「悪いのは余所見をしていたあの車の運転手よ。敬祐が悪いんじゃない。」
母に諭される。

少しして紗枝と父も現れる。
「まこちゃんは?」
「まだ分からない。」
そんな会話がとても遠く聞こえる。

何時間、経ったんだろうか?
「敬祐、コーヒー飲む?」
大輔から手渡されたコーヒーの缶を、敬祐は受け取った。琴音は母や紗枝と一緒に家に帰った。父は仕事がまた入り、スタジオに戻っていった。待合室には大輔と敬祐がポツンと手術室の扉が開くのを待っていた。
「真琴が・・言ったんだ。『あたしが居なくなったら琴音をお願いね』って。」
震える声で敬祐は声を絞り出した。
「俺・・どうしたらいいか、分からないよ。真琴が居なくなるなんて・・考えたくないよ。」
涙が溢れ出す。大輔はそっと敬祐の頭を自分に引き寄せた。
「居なくなんてならないよ。きっと助かるよ。」
大輔の言葉が優しく響く。

手術室の扉が開き、出てきた人物に大輔は目を見張った。何と真琴の兄、聡だった。医者だとは知っていたが、まさか治療しているとは思わなかった。
「敬祐くん、大輔くん。」
敬祐も声に聡だと気づく。
「真琴は?どうなったんですかっ?」
「まだ何とも。一命は取り留めたけど、今夜が・・山だろう。」
無情な宣告のように聞こえた言葉に、二人は愕然とした。

集中治療室に移された真琴は、管をたくさん付けられていた。大輔はその姿にいたたまれなくなる。この時だけは敬祐の目が見えなくてよかったと不謹慎なことを思ってしまう。
敬祐は椅子に座り、真琴との出会いから今までを思い出していた。遠い昔のような気持ちになる。真琴の手の温もりを思い出せない。声は?どんな声だった?思い出せない。どうして?焼き付けておいたはずなのに。どうして思い出せない?敬祐は手で顔を覆った。

一体今は何時なんだろう?
そんなことをぼんやりと考える。すると突然、周りが慌しくなった。
「兄貴?何があったの?」
「分からないけど・・真琴ちゃんが急変したみたいだ。」
兄の言葉に愕然とする。『今夜が山だ』と言った聡の言葉が蘇る。
「まさか・・そんな訳・・・。」
嫌な予感がした。だが、敬祐はすぐにそれを払いのけた。助かる。絶対助かる。自分に言い聞かせるように呟く。慌しくなる周りの音に、敏感になっているだけだ、と気持ちを落ち着けようとする。震え始める全身をどうにかして抑えようとした。

どれくらいの時間が経ったんだろう?全く分からないが、さっきほどの慌しさが消えた。
「兄貴・・?」
何が起きているのかを大輔に聞こうとしたら、集中治療室から聡が出てきた。
「あのっ、真琴ちゃんは・・。」
大輔が掴み掛かる勢いで問うと、聡は首を横に振った。
「ま・・さか・・。」
「何?何だよ、兄貴!」
事態が飲み込めない敬祐は兄を問いただした。
「手は尽くした。・・けど・・。」
聡の言葉に敬祐の頭の中は真っ白になった。
「嘘だ・・。そんな・・。」
「たった今、息を引き取ったよ。」
その言葉に愕然とした。敬祐は信じたくなかった。信じられなかった。敬祐は全身の力が抜けていくのが分かった。倒れそうになるのを大輔が支える。
「敬祐、家に・・電話してくる。」
大輔は敬祐を椅子に座らせると、病院の外へ走った。
「俺は・・まだ・・真琴に何も・・してやれてないよ・・。」
涙が握り締めた拳の上に落ちる。聡は敬祐の隣に座り、肩を叩いた。
「真琴はカメラマンになること以上に、家庭を持つのが夢だった。あの子は小さいときに両親を亡くしてしまったから、ずっと私と二人暮しだった。真琴が君と結婚したいと言った時は本当に驚いたけど、君になら任せられると思ったんだ。君と付き合い始めて、あの子はとても明るくなったから。大好きな君と結婚して、子供を生んで、真琴は幸せだった。私にはできないあの子の夢を、敬祐くんが叶えてあげたんだよ。何もできなかったのは、私の方だ。」
聡の言葉に、敬祐は涙を止められなかった。

「嘘でしょ・・そんな・・。」
紗枝が同じような反応をしている。家族が来る頃には少し落ち着いていた。握った手は冷たかった。触れた頬は熱を失い、人形のようだった。最後に触れた唇は、『死』という現実を受け入れるには十分すぎるほど、冷たかった。もう二度と暖かい体温を感じることはできない。
「敬祐くん、こんな時に何なんだが、網膜の提供者が現れたよ。」
聡の言葉に敬祐は頭が真っ白になった。
「え?」
「今手術をすれば、君の目が見えるようになるかもしれない。」
「どうして・・今更・・。」
一番に見たいと願った真琴は、もうこの世には居ないのだ。
「敬祐、手術受けた方がいい。」
大輔が勧める。
「え?何で・・?」
「こんなチャンス、二度とないよ。見えるようになれば、真琴ちゃんの分まで、琴音を愛してあげられる。」
確かにこんなチャンスは逃せば、もう二度とないかもしれない。こんな時に、と思ったが、こんな時だからこそ、手術は受けるべきなのかもしれない。
「うん・・。受けるよ。」

正直怖かった。見えるようになるかもしれないことも、手術も。これから真琴が居ない生活を送らなければならないことも。

手術は無事に成功した。包帯を付けたままだったが、真琴の葬儀にも参列した。
「ぱぱ。ままは?」
琴音は真琴を探し、泣いていた。敬祐は琴音を抱き上げた。
「ママは、大好きなお空の向こうに行ったんだよ。」
「いつかえってくるの?」
その質問は酷だった。敬祐は涙を堪えながら言った。
「ママはもう戻ってこないよ。」

葬儀も終わり、ようやく落ち着いた頃。病院で敬祐の目の包帯が外される。眩しさに慣れた頃、ゆっくりと開けた目に映ったのは、優しい家族の顔だった。
「お兄ちゃん、見える?」
紗枝が覗き込んでくる。頷くと、ホッとしていた。紗枝は綺麗な長い黒髪だった。
「はい、愛娘。」
そう言って敬祐の膝の上に琴音を乗せる。琴音は不思議そうに覗き込んできた。
「ぱぱぁ?」
敬祐は思わず琴音を抱きしめた。声だけじゃなく、姿を見て、更に愛しさが沸く。
「敬祐。」
大輔に手渡されたのは一枚の写真だった。
「真琴ちゃんとのツーショットそれしかなくて。」
その写真は、結婚した当時の写真だった。綺麗な花嫁姿の真琴を見て、敬祐の目には涙が浮かんでいた。

家族は先に車で帰り、敬祐は聡に呼ばれた。
「本当は提供者の情報は漏らしちゃいけないんだけど。」
そう前置きした聡は真っ直ぐに敬祐を見据えた。
「君の目の提供者は真琴なんだ。」
「え?」
思わぬ言葉に敬祐は固まった。
「生前、あの子は自分に何かあったら、君に目をあげたいと言っていた。私にできるのは、適合するかどうか調べる手配をすることだけだった。驚いたよ。見事に一致したんだから。」
聡は目線を落とした。
「真琴に言うと、喜んでた。『死んでからも、大好きな人と一緒に居られる』って。」
聡の声は涙を堪えていたため、震えていた。敬祐にも涙が溢れた。
「この事は絶対言わないでと口止めされてたから、君には内緒だった。」
「何で・・?何で教えてくれたんですか?」
「君は一人じゃない。これからずっと・・死ぬまで真琴と一緒だって知って欲しかった。君を真琴に縛り付けるためじゃなくて、あの子の気持ちを知って欲しかった。そこまで君の事を思っていたという真琴の気持ちを・・。」
聡の言葉が耳に響く。
真琴はこんなにも自分を想っていてくれた。敬祐は声を出して泣いた。今までにないくらいに子供のように大声で泣いた。

敬祐は一人、街を歩いていた。いつも不安に思いながら歩いていた街の音はいつもと変わらず、初めて見る風景を敬祐は思いを馳せながら、歩いていた。

いつも散歩で歩いていた河原は、変わらずに穏やかで、敬祐は腰を下ろした。ふと空を見上げる。晴れ渡る空の青さが、目に痛い。滲む空は、一層青さを増した。

家に辿り着いてから、真琴が撮りためていた写真を見た。見事なまでにすべて空の写真だった。
『空には表情があるんだよ。』
そう言った真琴の声が蘇る。ふと見つけた一冊のアルバムを手に取る。ゆっくりと開くと、真琴がまとめていたらしい、琴音のアルバムだった。幸せな時間が止まっているかのように写真に収められている。白いページを見て、これからは敬祐がこのアルバムの続きを作ろうと誓う。
「敬祐。」
呼ばれて顔を上げると、大輔が立っていた。新しいギターケースを渡される。
「ギター?」
「お前のギター、壊れちゃっただろ?これ・・真琴ちゃんがお前の誕生日プレゼントに買っておいたもんらしい。」
敬祐はギターを受け取った。新しいギターが欲しいと言ったのを覚えていてくれたようだ。敬祐はギターケースを開けた。ギターの上に手紙らしきものが乗っている。どうやら誕生日プレゼントに渡すときに、この手紙を読むつもりだったらしい。敬祐は手紙を取り出した。
『敬祐くん、お誕生日おめでとう。いつか敬祐くんが新しいギターが欲しいって言ってたので、今年は奮発して新しいギターを贈ります。これからも素敵な曲を作ってね。 真琴』
綺麗な字で綴られた文字に、また涙が溢れる。

ふと視線に気づく。見ると、部屋の入り口で琴音が覗いていた。手招きすると嬉しそうに入ってきた。敬祐はギターを取り出し、琴音の前でギターを弾いた。楽しそうに聞いている。幼い娘を守れるのは、自分しかいない。突然母親を失った彼女に精一杯の愛情を注いであげよう。真琴の大切な忘れ形見。

その日の夜。敬祐は一人部屋にこもって曲を作っていた。真琴への想いを綴った。

今までよりももっと優しくもっと暖かいその曲は、世間に感動を呼んだ。
そのエピソードと共に。
↑TOP


↑よかったらポチッとお願いしますv

  
photo by