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「人は心の痛みを知って成長するんだよ。」 寡黙な父が幼い娘にそう言った。難しいことを言われ、娘は首を傾げた。 「まだ分からないか。」 そう言って父は笑った。 あの頃の父の言葉の意味を知ることもなく、ただ平凡に時間が過ぎていった。 そして幼かった娘、遠藤光は中学三年生になった。彼女は明るい性格で、クラスの人気者だった。 三年生になり、しばらく経った頃、転校生がやって来た。 「お父様のお仕事の都合で転校してきた佐々木麻衣ちゃんです。皆さん、仲良くしてあげてください。」 担任に紹介され、一礼をした転校生は、とてもかわいらしい女の子だった。 「佐々木麻衣です。よろしくお願いします。」 「席は遠藤さんの隣ね。遠藤さん、いろいろ教えてあげてください。」 「あ、はい。」 たまたま一番後ろに座っていた光は、先生の指名を受けた。クラスの男子が隣に机と椅子を持ってきて彼女を座らせる。 「麻衣ちゃん、よろしくね。」 光がそう言うと、麻衣は恥ずかしそうにしながら答えた。 「よろしく。」 美少女の転校生に、クラス中が注目する。 「転校する前はどこにいたの?」 「どこに住んでるの?」 「好きな教科は何?」 矢継ぎ早に飛ぶ質問に麻衣は困り果てていた。 「はーい、ストップ。」 光が止めに入る。 「困ってるでしょーが。順番にゆっくり質問してあげなよ。それからちゃんと名前も言わなきゃ。」 「あ、そっか。」 「ごめんね。」 光の一言に全員が謝る。麻衣は笑顔で首を振った。助けてくれたことに、目配せで感謝する。 光が見る限り、麻衣はおとなしい性格だった。光とはまったく正反対な性格で、勉強がよくできる子だった。光はスポーツは得意だったが、勉強はあまり好きではなく、普通ぐらいの成績だった。 正反対の二人だったが、席が隣のせいか、麻衣は光とよく話した。光の友達も麻衣と仲良くなっていった。段々クラスに馴染むようになったことを、光は自分のことのように嬉しく感じていた。 放課後。走ることが好きな光は陸上部に所属していた。 「何かいいことでもあったのか?」 柔軟体操をしていると、幼馴染で同じ陸上部の新田寛樹が話し掛けてきた。 「んー。強いて言うなら、麻衣がクラスに馴染んできた事かな?」 「そりゃお前のおかげじゃねーの?」 寛樹の言葉にちょっと嬉しくなる。 「そうかな?」 「おう。お前がいろいろ教えてあげたり、友達紹介してやったりしてんだろ?」 「まぁね。」 ふふんと得意げに鼻を鳴らす。 「人の世話焼くの好きだもんなぁ。まぁせいぜいお節介にならないようにな。」 「うっさい。」 寛樹は捨て台詞のように言うと、走って行ってしまった。 「光って新田くんと幼馴染だっけ?」 マネージャーの真由美が話し掛けてくる。 「そうだけど?」 「かっこいいよねぇ。新田くん。」 寛樹の走っている姿を見ながら言う。 「えー。そう?あれ、おっさんだよ?」 「ええ?光は幼馴染だからそう言うけど、新田くん、結構人気あるんだよぉ?」 「ほぇー。あのおっさんがねぇ。」 「おっさんおっさん言わないでよぉ。」 「何であんなのがいいんだぁ?」 「落ち着いてて大人っぽいじゃん?それに優しいし。」 「そうかぁ?」 「じゃあ、光は誰がいいのよ。」 ムッとした真由美は話を光に転換する。 「え・・。あたしは・・・。」 光は口篭もってしまう。そして同じ陸上部の武田聡を思わず見る。 「んー?もしかして武田くん?」 「ばっ!そんな訳ないじゃん!」 図星をさされ、光は思わず否定した。 「えー。怪しいなぁ。」 「怪しくない!走ってくる!」 光は真由美から逃げるように、走った。 誰にも気づかれたくない。誰かにばれたら、笑いものにされてしまう。なぜか分からないが、そんな気がしてしまう。男みたいな性格の自分が誰かに恋してるなんて恥ずかしい。 聡に恋心を抱いたのは、中学二年の時だった。それまでは同じ部活で、寛樹と仲がいい奴、としか頭にインプットしていなかった。 光はいつものように走っていたのだが、いつもと違って、体調が悪かった。原因は分かっている。いわゆる『女の子の日』なのである。だが、そんなことを言えるはずもなく、何でもないように振舞っていた。 (うわぁ・・。きっついなぁ・・・。でもラスト一周だし、がんばろう。) そんなことを思いながら走っていると、隣に聡がやって来た。 「遠藤。顔色悪いよ?大丈夫?」 「うん、大丈夫。ラスト一周だし、走れるよ。」 「無理すんなよ。」 「うん。」 そうは言ったものの、光は途中で地面に座り込んでしまった。 「遠藤!大丈夫?」 驚いた聡と近くにいた寛樹が駆け寄ってくる。 「う、うん。大丈夫。」 「大丈夫な訳あるかっ。早く保健室行けよ。」 寛樹が無理やり立たせようとするのを、聡が制する。 「無理に立たせちゃダメだよ。めまいとか起こしたらどうすんだよ。」 そう言いながら、聡はゆっくりと光に合わせて立たせてくれた。 「保健室、行ってくるね。」 聡はそう言って光を保健室へと連れて行ってくれた。正直驚いた。初めて男の子に優しくされたので、戸惑ってしまう。 「・・一人で大丈夫だよ?」 「何言ってんだよ。真っ青な顔して。女の子なんだから、そんな無理しなくていいんだよ。」 初めて『女の子なんだから』と言われた気がする。周りの男どもは光を男扱いしていたので、新鮮だった。優しくされたことも、女の子扱いしてくれたこともなかった光は、とても嬉しくなった。そして少し聡を意識するようになっていった。 そんな扱いは、他の人にとってはごく些細なことでも、光にとっては大きなことだった。聡を見ている限り、誰にでも優しいようだが、それでもあの日のことは、光にとって忘れられない出来事だった。聡が人気があるのは、分かる気がする。だけど寛樹が人気があるのは、腑に落ちない。確かに優しいところもあるんだろうが、かなりぶっきらぼうな態度だし・・・。と言うか、おっさんくさい。 「お前・・。」 走っている途中でイキナリ隣に寛樹が現れる。 「ふぎゃっ。」 「なんちゅー声出すんだ。」 「な、何?イキナリ現れないでよ。」 「いつまで走ってる気だ?」 「へ?」 「もうとっくに皆帰る用意してるぞ。」 立ち止まり周りを見ると、既に誰も走っていなかった。 「あ・・。ほんとだ。」 「ったく。何考えてたんだ?」 そう聞かれ、光は寛樹をじっと見た。 「寛樹がおっさんくさいなぁって。」 光の言葉に寛樹はずっこけた。 「何じゃそりゃ。」 「おっさんくさいよね?」 「俺に聞くな!」 寛樹は溜息をついた。 「ったく。帰るぞ。」 「はーい。」 「あ、麻衣だ。」 運動場と面している美術室にの前を通ると、麻衣がいた。おとなしい麻衣らしく、美術部に入ったようだった。手を振ると、にっこりこっちを向いて手を振りながら、窓に近寄ってきた。窓を開ける。 「光ちゃん、もう終わったの?」 「うん。麻衣はまだやるの?」 「ううん。今片付けしてたとこ。」 「じゃあ一緒に帰ろう?」 そう提案すると、麻衣は嬉しそうに笑いながら頷いた。 「あたし、荷物取ってくるから、後から迎えにくるね。」 「うん。待ってる。」 「すっかり仲良しだな。」 会話を聞いていた寛樹がポツリと言う。 「ふふ。うらやましいだろぉ。」 「別にぃ。」 「またまたぁ。麻衣かわいいから狙ってるヤツ多いんだよぉ?」 「変な虫が付かないようにお前が見張ってるんだろ?」 「大当たり!」 光の言葉に、寛樹は呆れていた。 「せいぜいがんばりな。」 適当にあしらわれた感があるが、光は気にしない。 「おうよ。」 「寛樹ぃ。」 遠くで呼ばれる声がして、寛樹は声のした方へ向いた。 「お、聡。」 なぜだか光がドキドキする。 「一緒に帰ろう。」 聡は寛樹に向かって言ったのに、なぜか光がドキッとする。 「おう。」 「遠藤も同じ方向だっけ?」 「あ、うん。だけどあたし、麻衣と帰るから。」 「そっか。んじゃまた明日。」 「うん。ばいばい。」 少し残念に思いながらも、光は二人と別れた。 部室から荷物を持って麻衣を迎えに美術室に行く。麻衣は片付けを済ませ、誰もいない運動場を見ていた。伸びた黒く長い髪が、とても女の子らしくて、ショートカットの光は少し憧れた。 しばらく見つめていると、麻衣が光に気づく。そして笑顔を見せる。光も笑顔で話し掛ける。 「帰ろっか。」 「うん。」 二人は、他愛もない話をしながら、家に帰った。 家に帰ると、光は真っ先に自分の部屋に戻った。一応『お帰り』と迎えてくれる母は、ふとしたことで苛立ち、キレるのだった。そしてその矛先は必ず光へ向けられる。光は極力母と接するのを避けた。いつでも母の言う通りに行動し、怒られないように大人しくしていた。学校ではそんな素振りは見せられない。 時々自分が分からなくなる。本当の自分はどっちなんだろう。学校で明るく皆と遊んでる方?それとも家で親に震えながらおとなしくしている方?どちらでもあるようで、どちらでもないような気持ちになる。 「光?帰ってるの?」 ドアの外で母親の声がした。 「う、うん。着替えてる。」 「そう。ちゃんとただいまぐらい言いなさい。」 「ごめんなさい。」 「ご飯できてるから早く来なさい。」 「はい。」 今日はそんなに怒っていないようだ。少しほっとする。しかし油断大敵だ。早く着替えてダイニングへ行かないと。光は急いで着替えを済ませた。 ダイニングテーブルには既に食事が並べられていた。決して味がマズイ訳ではない。おいしい方だと思う。だけど、母親と一緒という事がなぜか妙に萎縮してしまって、おいしいと感じられない。 「何でそんなつまらなそうに食べてるのよ。おいしくないの?」 「ううん。おいしいよ。とっても。お店で食べるよりずっと。」 「そう。ならもっとおいしそうに食べなさいよ。作り甲斐がないわね。」 「ごめんなさい。」 母親と会話すると、必ずと言っていいほど謝っている気がする。それももう慣れた。けれどやっぱり息苦しい。いつからこうなってしまったんだろう?幼い時は、母ももっと優しかった。トゲトゲしいオーラなんて出していなかったのに。 光は母がこうなったのは自分のせいのように感じていた。きっと母の言うことをちゃんと聞かないから、怒るようになったんだ。 でもうまくいかない。言うことを聞いているのに、理不尽に怒られる。どうしたらいいのか、まったく分からない。何がダメなんだろう?何がそんなに気に食わないんだろう? 父がいる時は、何とか父がなだめてくれるのだが、いない時はどうしたらいいのか、分からなくなる。 夕飯が終わると、光はテレビも見ずに自室に戻った。やっぱり一人の方が、安心できる。誰にも気を使わなくていい。学校でも無意識に気を使っているのかもしれない。時々疲れるときがある。母親に受け入れられない分、同級生に受け入れられようとしているのかもしれない。 そんな自己分析をしながら、光は宿題を済ませた。勉強は嫌いだが、できる限り勉強をして、いい成績を取らなければ。下手に順位を落とすと、また怒られる。 学校では相変わらず麻衣と一緒に行動していた。光は麻衣に自分の友達をたくさん紹介した。 しかしいつからか光は疎外感を感じるようになっていた。友達が麻衣に取られているような不思議な感覚になる。 (まさかね。) いろんな友達と話す方が、麻衣だって楽しいはずだ。光は襲い来る疎外感を必死で払いのけた。麻衣はまだ転校して来て日が浅いし、一番一緒にいるのは光自身なのだ。 (大丈夫。) 気がづくと、なぜかそう自分に言い聞かせていた。 (何言ってるんだろう。) 自分で自分が分からなくなる。 「光ちゃん?」 麻衣に呼ばれ、我に返る。 「大丈夫?」 「うん・・。」 「顔色悪いよ?」 「大丈夫だから。」 「そう?」 「麻衣ー。」 クラスメートが麻衣を呼ぶのが聞こえた。 「あー、ほら、呼んでるよ?麻衣。」 「うん。光ちゃん、気分悪かったら保健室行った方がいいよ?」 「うん。ありがと。」 光が微笑むと、麻衣も微笑み、呼ばれた方へと行ってしまった。 麻衣はおとなしい性格だが、クラスメートとは馴染んできたようだ。少しほっとする。と同時に寂しくも思う。 気づくと、光の周りには誰も居なくなっていた。麻衣の周りには取り囲むように、友達がいた。 (あれ?) よく分からないが、違和感がある。 (あそこは・・あたしの場所なのに・・。) 嫉妬にも似た感情が込み上げてくるが、光は頭を振り、そんな考えを払いのけた。 (いいじゃん。麻衣が皆と仲良くしてるんだから。) そう言い聞かせる。 光は席を立ち、教室を出た。 屋上へ上った光は、流れてゆく雲を見ていた。何だか分からない疲労感に襲われる。ポカポカ陽気に誘われて、光は夢の世界へと落ちて行ってしまった。 麻衣は授業が始まっても戻ってこない光を心配していた。 「あら?遠藤さんは?」 授業をしに来た教師は光が居ないことに気づく。 「誰か聞いてないの?」 教室内がざわめく。 「さっき気分悪そうだったから保健室じゃないっすかー?」 誰かが言うと、教師は納得したようだった。 「そう。」 出席簿にそうつけておく。 「授業始めるわよー。」 それでも麻衣は気が気じゃなかった。どうしたんだろう?自分にも保健室に行くとは言わなかった。本当に大丈夫なんだろうか? 授業が終わり、麻衣は保健室へ向かった。しかし光は居なかった。保健医に聞いたが来てないと言う。 麻衣は校内を探したが、一向に見つからなかった。 (どこ行ったんだろう?) 転校して来たばかりで、校内のことはまだよく分からない。不安に思っていると、寛樹が現れた。 「光のこと、探してるの?」 そう聞かれ、麻衣は頷いた。少し怖い気がしていた寛樹だが、口調は優しかった。 「光ちゃんが行きそうな場所、知ってる?」 「そうだなぁ。あいつ昔から高いとこ好きだから、もしかしたら屋上にいるのかも。」 「ありがと!」 寛樹の言葉を聞くとすぐに麻衣は走り出した。 「あ、おい。」 寛樹は麻衣を追いかけた。 「佐々木、こっち。」 寛樹は麻衣を屋上へと誘導した。 屋上に行くと、光が眠りこけているのを発見する。 「光ちゃん!」 麻衣が駆け寄り、光を起こす。 「んあ?」 間抜けな声を出す光に麻衣はホッとした。 「『んあ?』じゃねーよ。授業サボってこんなとこで昼寝してたんかい。」 寛樹が怒る。 「え・・そんなに寝てた?」 「五時間目終わっちゃったよ?」 麻衣が言うと、光は『しまった』という顔をした。 「うわぁ。やっちゃった。」 「光ちゃん、気分悪いとか?」 「いや、別に。」 あっさり否定され、寛樹と麻衣は脱力した。 「ったく。一応お前保健室行ってる事になってるからな。」 「あぁ。うん。ありがと。」 「ったく。心配かけやがって。」 寛樹の呟きに、光は何だか妙に嬉しくなった。心配してくれる人がいる。それだけで何だか嬉しくなった。 「ほら。教室戻るぞ。」 寛樹の言葉に光は立ち上がり、教室へ戻った。 「どうしてあなたは言うこと聞けないの!」 ヒステリックに母親が叫ぶ。 「ごめんなさい。」 謝っても、ビンタを食らわされる。 (泣いちゃダメ。泣いたらもっと怒られる。) 痛みに堪えながら、母親の怒りが収まるのを待つ。 母親がキンキンした声で怒鳴っている。理不尽な怒りは一時間ほど続く。 そこに父親が帰宅し、現状を見て、急いで母親をなだめる。光は父親に守られ自室に戻った。 背中でドアを閉めると、ドアの外で父親と母親の口論が始まる。父は至って冷静に対処しようとしているが、母はまだ何か叫んでいる。 光はベッドに沈んだ。 (どうして認めてくれないんだろう?) 悔しい。光は勉強は得意じゃないが、それでもがんばっている方だ。それなのに、母は一度も褒めてくれたことはない。 『もっといい点が取れるはずでしょ?』 『どうしてもっとちゃんと勉強しないの?』 結果ばかりを責められる。どんなに努力しても結果に現れていないと母は気が済まないらしい。逆に父はがんばったねと褒めてくれる。 父が光の唯一の救いだった。母の理不尽な怒りから助けてくれるのは父だったし、努力を認めてくれるのも父だった。 だが、いくら父から認められても、母に認められない限り、どうしても怒られる。 何が気に食わないんだろう? 何でこんなに努力しているのに認めようとしてくれないんだろう? 光は枕に顔をうずめた。 暗い感情を押し殺したまま、それでも光は明るく振舞っていた。しかしそれはやはり空元気で、以前のように友達がいつでも周りに居るような光とは違っていた。 「光、何かあったのか?」 心配そうに寛樹が声をかけてくる。光はきょとんとした顔をした。 「何が?」 「何か・・元気ないからさ。」 「何言ってんの?あたしはこんなに元気じゃない。」 明るく振舞おうとする光に、寛樹は胸が痛くなった。 「もしかして・・おばさんのこと・・?」 そう言うと光の顔はみるみるうちに強張った。 「お母さんは関係ない。」 吐き捨てるようにそう言うと、光は寛樹から遠ざかった。 寛樹はマンションの隣の部屋に住んでいる。母親の声が聞こえていたのかもしれないが、触れて欲しくなかった。 「何も知らないくせに・・。」 自分の呟きが空しく響いた。 「ねぇ、さっき光ちゃん怒ってた?」 「え?」 突然麻衣にそう聞かれ、光は戸惑った。 「触れられたくないこと・・聞かれたから。」 「あ、ごめん。」 「麻衣は気にしなくていいよ。」 謝る麻衣に優しくそう言う。 「触れられたくないことって、あるよね。」 麻衣がポツリと言った。 「麻衣にもあるんだ?」 そう問うと、麻衣は曖昧に微笑みながら頷いた。 「光ちゃんには言うね。うち、離婚したの。」 「え?」 突然の告白に光はどう言えばいいか分からなかった。 「あたしはお父さんについてきたんだ。」 麻衣は少しためらいがちに話し続けた。 「好き同士で結婚したはずなのに・・何で別れちゃうんだろうね?」 泣き出しそうな麻衣の声に、光は思わず麻衣を抱きしめた。 「親って勝手だよね。振り回される子供の身にもなってほしいよ。」 光は麻衣の言葉に頷くしかできなかった。 「でも少しだけよかったのは、光ちゃんに出会えたことかな?あともう二人のケンカを見なくてもよくなったし。」 麻衣の言葉に胸がいっぱいになる。 「あたしも麻衣に出会えてよかったと思う。」 麻衣はその言葉を聞いて、照れくさそうに微笑んだ。 「光ちゃん。あたし・・頼りないかもしれないけど、光ちゃんの力になりたいから・・話を聞くことしかできないかもしれないけど、何かあったら遠慮なく言ってね?」 「ありがと。」 光も泣きたくなってきた。こんなことを言ってくれた友達は麻衣が初めてかもしれない。 母の金切り声が頭の上で響く。 この人はこんなに怒って疲れないんだろうか?なんて冷静に考えてる自分がいる。 どうして認めようとしないの?こんなにもがんばっているのに。努力をしていなくて怒られるのは仕方ないかもしれないが、精一杯努力しているのに認めようとしてくれないと一気に疲労が襲ってくる。 「ちょっと!聞いてるの?」 光は胸倉を捕まれた。睨み付けられる。 「き、聞いてるよ。」 光がそう言うと、母はふんっと鼻を鳴らし、光を突き飛ばした。突き飛ばされた光は、テーブルにぶつかり、テーブルに乗っていたカップが落ちて割れた。 「あっ。」 受け取ろうと手を伸ばしたが間に合わず、カップは無残に割れた。その破片が飛び散り、光の腕に刺さる。 「っ。」 流れ出す鮮血に母は目を覆った。 「光っ!片付けしておくのよ!」 そう言うと、母は自分の部屋に戻って行った。思いがけなく助かり、光はホッと溜息をついた。とりあえず刺さっている小さな破片を抜き、自分の血をティッシュで抑えながら、薬箱を漁る。消毒をし、大きめのバンドエイドを貼っておく。そして割れたカップを片付けにかかる。大きな破片は古新聞に包み、小さな破片は掃除機で吸い取る。 片付けが終わった頃、父が帰宅した。状況を見て、光に駆け寄る。 「光、大丈夫か?」 光はこくんと頷いた。 「大丈夫。カップが割れただけだから。」 そう言っても父は心配そうな顔をしていた。光はそれに気づかないように立ち上がった。 「お母さん、最近すごく機嫌悪いみたいだね。何かあったのかな?」 光はカップの破片を包んだ古新聞を分別してある燃えないゴミのゴミ箱に入れた。 「光・・ごめんな。」 「何で父さんが謝るのよ。」 不意に謝られるとどうしていいか、分からなくなる。 「父さんが・・何とかするから。」 「何もできないじゃない。いいよ。理不尽な怒りはもう慣れてるから。今更どうにもならないよ。」 光はそう吐き捨てると、自分の部屋へ逃げるようにして戻った。 麻衣は日に日に友達を増やしていった。早くクラスに馴染んで欲しいと願っていた光にとって、それは喜ぶべきはずのことなのに、なぜか素直に喜べなかった。 それでも光は今までと変わらないような接し方をしようとしていた。一緒に笑っているはずなのに、楽しくない。近くにいるのに遠い気がする。 (何でだろ?) クラスメートは光より麻衣によく話し掛けていた。それは麻衣に気を使っているのか、それとも・・・。 「光ちゃん。」 不意に呼ばれ、光は顔を上げた。 「図書室行くけど、光ちゃんも行く?」 「ん・・あたしはいいや。」 「そう。じゃあ行ってくるね。」 「行ってらっしゃい。」 麻衣はクラスメートの女子数人と図書室へ行ってしまった。読書は嫌いじゃないが、今はそんな気分でもない。 麻衣たちは楽しそうだった。もう打ち解けられたんだとホッとしたような、寂しいような気持ちになる。 光は無意識に一人になることを選んでいた。麻衣に誘われても断った。なぜかは分からない。もちろん一緒に行ってもいいのだが、無意識に気を使っている自分がいて、それが何だか嫌だった。 部活でもあまり人とは話さずに走りに集中していた。それは珍しいことではないので、皆は特に注意もしていなかったが、寛樹だけは違った。 「光。」 「何?」 「お前、最近どうしたんだよ?」 「何が?」 「何て言うか、いっつも一人でいないか?」 「そんなことないよ。」 きっぱりと言われ、寛樹はどう言葉を返せばいいのか分からなくなった。やっとの思いで言葉を搾り出す。 「なぁ、何かあるなら言えよ?」 「何もないよ。心配性だなぁ、寛樹は。」 そう言って光は笑っていたが、どう見ても元気がなかった。乾いた笑い、とでも言うのだろうか。 「それなら・・いいけど。本当に何かあったら言えよ?」 「うん。ありがと。」 光は少し微笑んで、また走りに行ってしまった。 「ホントに大丈夫なのかよ。」 光の背中を見ながら、寛樹が呟いた。 家に帰ると、光は自分の部屋に閉じこもった。こうしていれば、母の逆鱗に触れることはないだろう。それでも機嫌が悪ければ、部屋から出てくるように言われるが、それは何日かに一回だった。 「光、お風呂入りなさい。」 「はい。」 すぐに準備をする。逆らわないようにしなければ、と無意識に体が動く。 脱衣所で服を脱ぐと、目の前の鏡に全身が映し出される。消えることのないアザがあちこちにある。消えかけては増える。旅行先のお風呂で皆と一緒に入れない原因にもなっている。光は諦めにも似た溜息をつきながら、お風呂に入った。 風呂から上がると、母が父に向かって怒鳴っていた。光は気づかない振りをして、部屋に戻った。 (何が『何とかする』だよ。やっぱり何もできてないんじゃん。) なだめるだけじゃ、解決にならないことくらい分かっているはずだ。 早くこの家から出たい。いつしかそんな風に思うようになっていた。 日に日に出会った頃とまったく違ってきた光に麻衣はどうしたらいいか、分からなかった。 「光ちゃん。」 「何?」 「どうかしたの?」 不意にそんなことを言われた光は、フッと笑った。 「どうかした?ってどういう意味?」 ついトゲトゲしく聞いてしまう。 「あ・・最近・・元気が・・ない・・みたいだから・・。」 麻衣は言葉を搾り出すように言った。 「何もないよ。」 そう言うと、光は麻衣に背を向けて歩き始めた。麻衣は光を追って歩き出す。 「ねぇ、何かあるなら言って?ね?」 「うるさいな。何もないって言ってるじゃん。それにあたしの気持ち、麻衣になんか分かる訳ないでしょ!」 つい怒鳴ってしまう。麻衣は驚き、寂しそうな顔をした。思わず怒鳴ってしまい、光は顔を逸らした。 「ごめん・・。でも、ホント大丈夫だから。」 光はそう言うと逃げるように走っていってしまった。 「あ・・。」 追いかけようとしたが、陸上部の光に勝てるはずもなく、麻衣はその場に立ち尽くしていた。 麻衣は謝るタイミングを逃したままでいた。光にどう話し掛けていいか分からなくなっていた。光も麻衣に話し掛けるタイミングが分からないまま、席替えをしてしまったため、席が離れ離れになり、余計話し掛けるタイミングを失ってしまっていた。 光は確実に孤立していった。無意識のうちに一人になっている間に、友達は一人また一人と光から遠ざかっていた。それは以前のような明るい光じゃないからなのか、理由はよく分からないが、第三者の寛樹から見ても孤立していくのは明らかだった。かと言って寛樹が介入する問題でもないように思えた。光自身でどうにかしなければ、どうにもならない。きっとそれは光自身でも分かっていることだろう。だけど、どうにかする気なんてまったくないように見えた。今まで張り詰めていた緊張の糸が切れたのかもしれない。いや、もしかしてまだ切れていないのかも・・・。 母からの理不尽な怒りに、光は耐えるしかなかった。帰宅した父が光を庇う。 「直子。もういい。分かったから!」 父がなだめるが、母は納得しないようだった。数分後、父のなだめにようやく心が落ち着いた母は自室へ戻っていった。 「光、大丈夫かい?」 父に聞かれ、光の何かがプツンと音を立てて切れた。 「大丈夫な訳ないじゃん!何でお母さんはあたしを認めようとしてくれないの?努力しても怒られる、言う事聞いても怒られる。あたしはどうすればいいのよ!」 光が初めて怒鳴ったので、父は驚いていた。父が何も言わないので、光は自分の部屋へ戻って行った。 寛樹から見て、今の光は数日前の光よりも更に人を寄せ付けようとしないオーラを放っていた。昨日、光の怒鳴り声が聞こえた。一瞬だけだったが、確かに光の声だった。あの時、何かが切れてしまったのだろうか?寛樹は本人に確かめられないままでいた。 麻衣も相変わらず光の力になりたいと思っていた。しかし一度怒らせているし、あれから話し掛けるタイミングを失ったままなので、どうすればいいか分からなかった。話し掛ける勇気がどうしても出ない。 昼休み。光はボーっと教室内を見ていた。クラスは相変わらず賑やかで、笑い声がこだましていた。だけどそれさえも遠いような気がしていた。何となく光は麻衣を目で追っていた。クラスに馴染んだ麻衣は、クラスの女子と仲良くしているようだった。男子も麻衣にちょくちょくチョッカイを出している。 (好きなのかな?) ぼんやりとそんなことを考えていると、聡が目に入った。麻衣に何かを話し掛けている。楽しそうに話す二人を見て、胸が痛んだ。 (そっか。麻衣の方がかわいいし、おとなしいもんね。) そう思ってみるものの、どこか寂しい。何だか胸も苦しくなってくる。 光は席を立ち、再び屋上への階段を上った。 ぼんやりと眺める空は、相変わらず青かった。晴れ渡る空なのに、憂鬱な気分になる。 (何で生きてるんだろう?) ふとした疑問が沸き起こる。生きていても辛い事しかない。それならいっそこの屋上から飛び降りた方が気持ち良さそうじゃない? 恐ろしい考えに自分でも驚く。柵から地面をを見下ろした。めまいがするほど高い。 (結局あたしも何もできないんじゃん。) 父のことを強く言えない。 生きることを嫌がるくせに、死ぬのが怖い。矛盾してる。 (どうしたいんだろう。あたし。) 自分でもよく分からない。でも一つだけ分かっていること。 『この状況から抜け出したい。』 抜け出せない迷路のような今の状況。自分の力ではどうしようもない。 (『何とかする』ってどうする気なんだろう?) 父には何か考えがあるのだろうか?だとしても実行しようとする気配がないのは、気のせいだろうか? 光は溜息をついた。どうにもならないことをいつまでも考えていても仕方ない。 予鈴が鳴り、光は教室に戻った。 結局光は誰とも話さなくなってしまった。それでも光はよかった。麻衣はそんな光が気にかかったが、話しかけるタイミングを失っていた。 光は本当に一人になってしまった。 ある日の放課後。光は部活が始まる前、教室へ忘れ物を取りに戻った。教室は閉めきっていたが、中から話し声が聞こえたので、まだ誰か残っているようだった。ドアを手にかけると、話し声が鮮明に聞こえた。 「光って、結局根は暗かったんだねぇ。」 「てかさ、あいつ威張ってたから逆にせいせいしたかも。」 「だよねぇ。新田くんと幼馴染だかなんだか知らないけど、仲良すぎだしぃ。」 「あんた、それ嫉妬って言うんだよ。」 ケラケラと笑い声が響く。やっぱり自分は嫌われていたんだと自嘲する。 「別に勉強もスポーツも普通の癖して生意気なんだよねぇ。」 「それある!委員長じゃないくせに仕切ったりさ。」 「おとなしくなってせいせいした。」 光は段々腹が立ってきた。何でそこまで言われなきゃいけないんだ?何も知らないくせに。 光は教室のドアをガラッと勢いよく開けた。その音に驚いたクラスメートは、光を見てしまったという顔をしている。 「あ・・光。どうしたの?部活は?」 「まさか・・今の話聞いてた?」 急にオドオドし始めるクラスメートをキッと睨み付けた。 「あんたら、言いたいことあるなら直接あたしに言いなさいよ!陰でコソコソ言ってないでさ!気に食わないなら、目の前でそう言えばいいでしょ!」 光は何かがぶち切れたように怒鳴った。クラスメートは光の怒りように、どう対処したらいいか分からなくなっていた。 「そんなにあたしが気に食わないなら、お望み通り消えてやるわよ!」 そう叫ぶと、光は廊下を走っていってしまった。 少し遅れて、寛樹が現れる。 「今の光だよな?何があった?」 「わ・・分かんない。急にキレ出して『消えてやる』って・・。」 自分たちが悪口を言っていたことは、とっさに伏せた。寛樹は話を聞くやいなや、光を追いかけて走った。 光の後姿を見つけ、寛樹は必死に追いかけた。光は階段を駆け上がり、屋上へ向かっていた。 「おい。光!待てよ!」 寛樹が必死に呼びかけるが、聞こえていないのか、無視しているのか、一向に止まる気配はない。 寛樹が屋上に着くと、光は柵を乗り越えようとしていた。 「おい!ちょっと待て!何やってんだよ。」 寛樹は慌てて光の体を掴んだ。 「離してよ!あたしのことはほっといて!」 泣きそうな声で叫ぶ光は、寛樹の制止を振り切ってまた柵に飛びついた。 「おい!光!落ち着け!」 寛樹は必死で光を抑えた。 「居なくなったらいいんでしょ。あたしなんか居ても居なくてもいい存在なんだから!ここから飛び降りれば、あたしも皆も幸せになれるの。」 光の言葉を聞いた寛樹はショックを隠せなかった。 「何・・言ってんだよ。誰もそんなこと願ってないって!」 「そう願ってるよ!あの子たちだって・・・お母さんだって、あたしのこと嫌いなんだから!居なくなったって誰も悲しまないよ!」 「俺はっ!光が居なくなったら、俺は悲しい!」 寛樹が怒鳴ると、光は柵を上るのを途中でやめた。寛樹が近づくと、涙を落としていた。柵を握る手が震えているのが見える。 「嫌いなら嫌いって言って欲しかった。変に期待しないで、嫌いなら嫌いって拒絶してくれればいいのに。」 母親のことを言っているのだろうと、察しがつく。 「光。落ち着け。な?」 寛樹はまだ柵にしがみ付いている光を、ゆっくりと離す。光は力が抜けたのか、その場に座り込んでしまった。寛樹は光の目の前に座る。今まで光が泣いている姿を見たことのなかった寛樹は、泣いている光を前にどうしたらいいのか分からなかった。ただ光の傍に居るだけしかできなかった。 空が暮れ始めた頃、光はようやく口を開いた。 「あたしの居場所は、もうどこにもないの。」 そう言いながら光は確かめるように寛樹を見た。 「知ってるでしょ?お母さんのこと。」 知っているとは言っても、ほんの少しだろうが、寛樹は頷いた。 「いつからか分からないけど・・あたしのこと、怒りをぶつける・・対象としか・・見なくなってた。」 途切れ途切れに言いながら、目線を落とす。 「どんなに努力しても、認めてくれなかった。だから・・あたし・・学校で居場所を見つけようとした。自分を・・作ってたんだと思う。認めて・・欲しかったの。誰かに・・。」 そう言いながら、光はまた涙を目に浮かべていた。堪えながら、口を開く。 「結局あたしは・・誰にも受け入れてもらえなかった・・。」 「でも・・佐々木とは上手くやってたじゃん。」 寛樹の言葉に一度目線を上げたが、また下ろす。そして自嘲しながら首を振った。 「麻衣とも結局上手くいかなかった。・・あたしは麻衣に嫉妬してたのかもしれない。クラスになじんでく麻衣を、どこか許せなくなってた。あたしの・・居場所を取られたようで・・段々醜い感情が出てきて・・こんな気持ちになるなら、麻衣と関わらなきゃ良かったって思ってる自分が居て・・。どうしていいか、分からなくなった。」 涙を堪えても、溢れ出し零れた。 「光はどうしたいんだ?」 寛樹の問いに、光は考えた。自分はどうしたい?麻衣とどうなりたい? 「友達に・・なりたかった・・。」 「もう諦めたのか?」 光の言葉に寛樹は笑った。 「なぁ、光。言わなきゃ伝わらないことだってあるんだぞ。佐々木だって光と友達になりたいってきっと思ってるよ。」 寛樹の言葉に、光は頭を振った。 「麻衣は思ってないよ。あたしと離れてせいせいしてるよ。」 「それ、本人に聞いたのか?」 光はまた頭を横に振った。 「聞かなきゃ分からないだろ?」 「でも・・怖い。」 「光、怖いのは分かるよ。けど言わなきゃ、伝わらないよ?」 そうは言っても、なかなか決心が固まらない。 「なぁ、光。佐々木はおとなしい性格だから、光の友達になりたいと思ってても、きっと言い出せないんだと思うんだ。佐々木がお前のこと心配そうに見ているのを、俺は何度か見てる。きっと佐々木だって、光の友達になりたいって思ってるよ。」 「そう・・かなぁ・・。」 「きっとそうだよ。それに・・おばさんのことに関しても、お前はちゃんと自分の気持ち伝えてないだろう?言わなきゃ、おばさんにだって伝わらないよ。」 「無理だよ。言えないよ。」 光の目は怯えていた。 「どうして?」 「怒るもん・・。すぐ怒るんだもん。あたしの言葉なんて聞いてくれないよ。それに、機嫌悪くしたら・・殴られるし・・。言えないよ。」 光は身震いした。寛樹は光の肩を叩いた。 「俺が一緒に居てやるよ。おばさんが怒ったら、俺が盾になってやる。」 「寛樹・・。」 「光。俺はお前の味方だ。」 寛樹の言葉が心強く響いた。 「俺が一緒に居てやるから、佐々木にもおばさんにも光が今一番言いたいこと言えばいい。」 光はこくんと頷いた。 光は寛樹の後ろをついて歩いていた。同じ目線だったはずなのに、いつの間にか寛樹の身長は光を追い越し、頭一つ分ほど背が高くなっていた。 考えてみると寛樹は光が困っているといつも現れた。ぶっきらぼうに見えるが、いつも助けに来てくれたのは、寛樹だった。 今更ながら気づく、寛樹の存在の大きさに光は胸が熱くなった。 「光。」 呼ばれて顔を上げると、いつの間にか美術室の前にいた。麻衣はまだ残って絵を仕上げているようだった。 躊躇している光の背中を、寛樹が優しく押した。 「光ちゃん?」 気配に気づいた麻衣が呼びかけた。麻衣は道具を置いて、こちらにやって来る。 「光ちゃん。どうしたの?」 光は何を言ったらいいのか分からなくなった。頭が真っ白で言葉が浮かんでこない。困っていると、寛樹が口を開く。 「こいつ、佐々木に言いたいことがあるんだってさ。ちょっと聞いてやって?」 寛樹の言葉に麻衣は頷いた。光は震える右手で隣に居る寛樹の袖を掴んだ。少し震えが止まった気がした。 「えっと・・あの・・。」 どもりながらも言葉を出そうとする光を麻衣は見守った。 「ごめんなさい。」 突然謝られ、麻衣はきょとんとした顔をしている。 「あ・・あたし・・麻衣に・・嫉妬してたのかもしれない。・・本当は、麻衣と友達に・・なりたかったの。」 途切れ途切れに言うと、麻衣はホッとした顔をした。 「よかった。」 「え?」 麻衣の言葉の意味が分からず、思わず聞き返した。 「あたし、嫌われてるのかと思った。」 「そんな・・。」 「よかった。光ちゃんと話せなくなって、すごく辛かった。・・でもどうしたらいいか分からなくて・・。嫌われてなくてよかった。」 麻衣は光に微笑んだ。 「光ちゃん。あたしも光ちゃんの友達になりたかったの。転校してきてからずっと一緒にいたから、友達になれたと思った。けど、光ちゃんは段々あたしから離れて行ったから、嫌われたのかなぁって思ってたの。でもそんなこと怖くて聞けなくて、ずっとどうしようかと思ってた。」 光は麻衣の言葉がとても嬉しかった。 「麻衣、ごめんね?今からでも・・友達になれる?」 「もちろん。」 麻衣は笑顔で答えた。光は思わず麻衣に抱きついた。麻衣も光を抱きしめた。 「ほら、俺の言ったとおりだろ?」 寛樹が光の頭をがしがしと撫でた。光は涙を堪えながら頷いた。 「ありがと・・寛樹。」 そう言うと、寛樹はとても優しく微笑んだ。 帰り道。光は麻衣と寛樹の三人で帰った。まだ信じられなかった。自分に居場所があるなんて、夢のようだった。 『ここにいてもいいよ。』 そう言ってくれているような優しい空気が漂っている。 がんばろう。まだ少し怖いけど、母に自分の気持ちを伝えよう。 『あたしを認めて。ここにいてもいいよって言って。』 願いはただそれだけ。自分の存在を、母に認めて欲しい。 言えるかな?少しの期待と大きな不安が光の胸の中で渦巻いている。 麻衣と別れ、寛樹と一緒にマンションのエレベーターに乗る。 (落ち着け。大丈夫。) 呼吸を整える。 「光?大丈夫か?」 寛樹に声をかけられ、顔を上げる。 「大丈夫。」 「俺、ついてようか?」 少し考え、光は首を横に振った。 「ううん。そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ。きっとちゃんと言えるから。」 「うん。がんばれ。」 寛樹の応援に光は笑顔で頷いた。 家の前でもう一度呼吸を整える。寛樹が少し心配そうにこちらを見ていた。 「寛樹、いろいろありがとう。」 「今更何言ってんだよ。お礼なんて言われるような事してねぇよ。」 寛樹はぶっきらぼうにそう言ったが、光には照れていると分かった。 「一つだけお願いしてもいい?」 「ん?何?」 「背中を・・押して。」 光の言葉に寛樹は頷いた。光がドアを開ける。寛樹はゆっくりと光の背中を押した。 「ただいま。」 寛樹に勇気をもらった光は家の中に入った。だが、いつもならすぐ「おかえり。」と言う母の声が聞こえなかった。 (出かけたのかな?) 珍しいと思いつつ、リビングに足を踏み入れる。何だか雰囲気が違う気がした。辺りを見回したが、何が変わっているのかがよく分からない。 「お母さん?いないの?」 光は荷物をそこに置いて母を捜した。 「お母さん。」 その声に誰かがリビングに入ってくる。 「お父さん・・。」 この時間に父が居るのはとても珍しい。いつもなら会社にいるはずなのに。 「光、おかえり。」 「お父さん、お母さんは?」 そう聞くと、父は少し黙りこくった。 「買い物か、何か?」 「光。そこに座りなさい。」 父の言葉に光はリビングのソファに腰掛けた。 「単刀直入に言うよ。父さんは、母さんと離婚したんだ。」 「え?」 一瞬頭が真っ白になる。 「り・・こん?」 父はそうだと頷いた。 「何で?」 「このままじゃ・・光がいつか大怪我をしてしまうと思ったんだ。それに・・。」 躊躇いがちに父が言葉を濁す。 「離婚はお母さんが願ったことなんだ。」 光の思考回路が停止した。 「な・・何言ってるの?」 「お母さんは精神的な病気だったんだ。やっと今日病院に連れて行った。お母さんの実家からおばあちゃんも来てね、お母さんを実家へ連れて帰ったんだよ。」 「何で・・離婚するの?離婚しなくてもよかったんじゃ・・。」 「治療を受ける条件だったんだ。」 「え?」 「おとなしく治療を受ける代わりに、離婚してくれと。だから父さんは光の親権を父さんが持つことで合意したんだよ。」 話の展開が急すぎて、光は頭を少しずつ整理した。 「じゃあ・・・お母さんは出て行ったってこと・・?」 光の問いに父は深く頷いた。 「父さんはこれで良かったと思ってる。このままでいるのは、光にとってもお母さんにとっても良くないことだって分かってたから。」 光は寂しいからなのか、安心からなのか、涙が溢れていた。 「光。随分辛い思いをさせたね。父さんにできるのは、これで精一杯だったんだよ。今までごめんよ。」 父はそう言って光を抱きしめた。暖かいその腕に光は余計に涙を流した。 結局言いたいことは言えずじまいだった。 「ねぇ、お父さん。」 母が最後に作ってくれた夕食を父と二人で取りながら、光は父に問いかけた。 「お母さんは、あたしのこと何で一度も認めてくれなかったのかな?あたし、お母さんに認めて欲しくてがんばってたのに、努力しても分かってもらえなかった。」 父はその言葉を聞いて、箸を置き、光をじっと見た。 「母さんは光を愛してたよ。だけど、どうやって愛してることを示したらいいのか、分からなかったんだ。もう亡くなった母さんのお父さん、光のおじいさんはとても厳しい人だったと聞いたことがある。そんなおじいさんに育てられたから、どうやって愛情を示したらいいのか、分からなかったんだよ。」 父の言葉を聞いて、少しだけ安心した。 「お母さんも、あたしと同じ気持ちだったのかな・・?」 泣きそうな声で呟くと、父は頷いた。 「きっと光と同じように思っていたはずだよ。どこかで光に対して優しくしようと思ってたとも思う。だけどどうしたらいいのか分からなくて、結局怒ってしまっていたんだろうね。そんな母さんに、父さんは何もできなかった。」 肩を落とす父に光は言った。 「お母さんはお父さんの言うことは聞いてた。止めてくれる人が欲しかったんじゃないのかな?」 そう言うと、父は曖昧に微笑んだ。 「そうだといいね。」 光は夕食後、寛樹の家に行った。と言っても隣なのだが。 「どうだった?」 部屋に入るのは久しぶりだ。相変わらずシンプルで何もない部屋。 「お母さんね、居なかった。」 光は寛樹に父が離婚したことを話した。 「そっか。」 「不思議な気持ちなの。言いたいこと言えなかったけど、逆にホッとしてる。もうお母さんの顔色を伺わなくていいんだって思うと、安心したような、寂しいような複雑な気分になる。」 寛樹は言葉を捜した。どう声をかけたらいいんだろう。 「でも・・これで良かったんだと思う。お母さんはお母さんなりにあたしのこと愛してくれてたってお父さんが言ってたし。それを聞けただけでも十分嬉しいもん。」 「そっか。光が納得してるならいいけど。」 「寛樹、ありがとう。」 光はもう一度お礼を言った。あの時、寛樹が止めてくれなかったら、光は屋上から飛び降りていただろう。 『俺はっ!光が居なくなったら、俺は悲しい!』 そう言ってくれたのは、寛樹が初めてかもしれない。状況が状況だったからかもしれないが、それでもあの時光が柵を乗り越えるのをやめたのは、この言葉を聴いたからだった。 「光?どうかした?」 「あ、ううん。今日は本当ありがと。寛樹が居なかったら・・あたし・・。」 「もう居なくなるなんて言うなよ。」 「うん。」 寛樹は優しく微笑んだ。 光は自室に戻ると、机の上に何かが置いてあるのを見つけた。さっきは着替えるだけしか部屋に入っていないので、椅子の背もたれに隠れて見えなかったのだろう。 光は机の上に置いてある白い封筒を取り上げた。封筒に書かれていた文字を見て、一瞬震えた。『光へ』と書かれた文字はまさしく母の文字だった。少しドキドキしながら、封筒から手紙を取り出す。母から手紙をもらうなんて初めてだし、もらえるなんて思っていなかったので、妙に緊張する。 『光へ。今まで怒ってばかりで、いつもあなたを傷つけて、ごめんなさい。光のこと、大好きなのに、どうやってあなたと接したらいいのか、分からなかったの。優しくしたかった。だけどお母さん、素直になれなかったみたい。お母さんにできる唯一のことは、おいしいご飯を作って、学校から疲れて帰ってくるあなたを迎えることだけだった。光が『お店で食べるよりおいしい』って言ってくれた時、本当に嬉しかった。だけどあの時あんな態度とってごめんなさい。『ありがとう』って言いたかったのに、言えなかった。 今日、お父さんに病院に連れて行かれて、精神病だって言われて、愕然としました。それと同時に『やっぱりな』って思いました。光を傷つけるつもりは全然なかったのに、あんな態度をとる自分が自分じゃないようで、どこかおかしいんじゃないかと思ってたから・・。お母さんは実家に帰って、ゆっくりと治療をすることになりました。 光には直接謝れなくて、本当に悪いと思ってる。でもあなたの顔を見たら、せっかくの決心が揺るぎそうだったから、黙って出て行くような真似をしてごめんなさい。 離婚は光にとってショックだったかもしれない。けどこのままでいると、お母さんはお父さんたちに甘えてしまう。だから別れたの。決してお父さんや光が嫌いだから、別れたんじゃないからね?言い訳と思われても仕方ないかもしれないけど・・。 一つだけ、これだけはちゃんと光に伝えておくね。 お母さんは光のことが大好きです。 光はお母さんのこと嫌いかもしれないけど、それは仕方がないことだと思うの。今まで決していいお母さんとは言えなかったから。 これからはお父さんと二人で仲良くね。辛い思いばかりさせてごめんなさい。 いつか病気が治ったら、光に会いに行ってもいいかな?今度こそ光を優しく抱きしめてあげたい。』 光は母の手紙を抱きしめて、泣いた。今まで感じられなかった母の愛を一気に感じた。 「お母さんのこと・・・嫌いなんかじゃないよ。」 呟いた光は、手紙をきつく抱きしめた。 その夜、光は父と母と三人で一緒に遊びに出かけた夢を見た。皆笑っていて、とても幸せな夢だった。 翌朝。光は物悲しい気持ちで目が覚めた。窓のカーテンを開ける。いつもと変わらぬ眩しい太陽に目が眩む。 これからは母のいない生活。何だかんだ言って、やっぱり寂しい。あれだけののしられても、殴られて傷つけられても、光の母は一人しかいないのだから。 光は気合を入れた。落ち込んでなんていられない。だってやっと自分の居場所を見つけられたから。 「おはよう。」 リビングには既に父がいた。 「おはよう。」 元気に挨拶した光を見て、父はホッとした顔をした。 「朝ご飯できてるよ。」 「え?お父さんが作ったの?」 「他に誰が作るんだよ。」 「食べれるのぉ?」 意地悪く聞くと父は苦笑した。 「父さんだってこれでも結婚する前は自炊ぐらいしてたんだよ?母さんほど上手くはないけど、ちゃんと食べられるよ。」 父が用意してくれた朝ご飯は、少し焦げたハムエッグと食パンだった。 「ちゃんと食べれそうだね。」 「だから食べれるって。」 そんな会話をしながら、二人は朝食を取った。 「お母さんね、あたしに手紙を残して行ってくれたの。お母さんが別れたのは、お父さんやあたしを嫌いになった訳じゃないって。」 「そっか。」 父は優しく微笑んだ。 「お母さん、病気が治ったら会いに来てくれるって書いてた。だからあたし、待ってようと思う。」 「そうだね。」 「あ、ヤバイ!遅刻っ。」 光は時計を見て、急いで立ち上がりかばんを持った。 「気をつけて行くんだよ。」 「はぁい。」 玄関を出ると、ちょうど寛樹が出てくるところだった。なぜかドキッとする。 「おはよ。」 「お、おはよ。」 寛樹に挨拶を返すのに、なぜかどもる。 「よく眠れた?」 「う、うん。」 光はなぜか寛樹の顔が見られなかった。何でか恥ずかしい。 「あ。」 「え?」 寛樹が下を見ているのに気づき、光も下をのぞいた。 「あれ、佐々木じゃね?」 「ほんとだ。」 下にいるのは紛れもなく、麻衣だった。どうやら光を迎えに来たようだ。そこに一人の男子生徒が近づく。 「ん?あれ聡か?」 「だね。」 聡はやっぱり麻衣のことが好きなんだろうか?だが、以前のように胸が痛くなったりしない。吹っ切れたのか、それほど好きでもなかったのか、よく分からない。それより今気になっているのは・・。 「どした?」 視線に気づいた寛樹が光を見た。思わず目線をそらす。 「何でもないよ。」 「何だよ。俺の顔に何かついてんのか?」 「ついてないよ。」 光はそう言いながらエレベーターまで歩き、ボタンを押す。 「ねぇ。武田くんって、麻衣のこと好きなのかな?」 「え?」 突然の問いに、寛樹は返答に困る。 「多分な。」 「そっか。麻衣かわいいもんね。」 そう言った光の顔が笑っていたのに、寛樹は驚いた。寛樹は光は聡が好きなんじゃないかと薄々感づいていたのだが、今の光の笑顔の意味がよく分からなかった。 「寛樹、置いてっちゃうよ?」 エレベーターに乗らない寛樹に光が話しかけ、寛樹は慌ててエレベーターに乗り込んだ。 「おはよー。」 「おはよう。」 いつもの明るい光に戻っていると、寛樹は一安心した。 四人は仲良く登校した。 光の胸に渦巻く少しの期待と不安。そしてやっと気づいた寛樹への想い。だけどこの想いだけは、もう少し黙っていようと思う。いつか自分に自信が持てるようになったら、その時伝えよう。 (覚悟してろよ。) 光はいつの間にか大きくなった寛樹の背中を見ながら呟いた。 『人は心の痛みを知って成長するんだよ。』 いつか言っていた父の言葉が、少しだけ分かったような気がする。 本当に成長できたかどうかは、よく分からないけど、ほんの少しだけ前へ進めた気がする。 自分の居場所を見つけられたから。 |