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 ドアを開けると、少し冷たい風が頬を撫でた。九月に入ってから、急に肌寒くなったように思う。
 美依は鞄からストールを出すと、薄着の肩にかけた。
 深夜の街は未だ眠らない。表通りはまだ人がたくさんいて、車もたくさん走っている。
 握りしめた携帯電話が鳴る気配は全くない。
「……バカ」
 そう毒づくが、あいつに聞こえるわけない。
 その時、肩がぶつかり、携帯電話が手からするりと落ちた。
「おっとごめんよー」
 酔っぱらいのサラリーマンはそう言うと、危ない足取りでタクシーを停め、さっさと乗って行ってしまった。
 落ちた携帯電話を拾い上げる。落ちた衝撃で二つ折りの携帯が開いていた。
 待ち受け画面には笑顔の二人。今ではそれすらも悲しい。どうしようもない感情が、胸の奥で沸き上がる。
 それに蓋をするように携帯電話を閉じると、タクシーを停め、帰路に着いた。

 彼と出会ったのは、大学生の時だった。最初は『好き』なんて感情はなく、気兼ねに話せる友達だった。
 それがいつしか一緒にいることが当たり前になって、いつの間にか付き合うようになっていた。
 美依にとって彼の隣は居心地が良かった。それは彼も同じだったと思いたい。
 強気な美依はいつも意地を張って、自分でもかわいくない女だと分かっていた。
 だけど『それでもいい』と彼は言ってくれた。『それが美依のいいところだ』と。
 それなのに今は……。
「バカみたい……」
 美依はシャワーを止め、バスルームを出た。

 ワンルームの小さな部屋には、彼との写真が数え切れないほど飾ってある。
 小さなタンスの上には彼に取ってもらったUFOキャッチャーのぬいぐるみが山盛りに置かれている。人気のあるキャラクターから、何のキャラクターなのか全く分からないものまで、無秩序に置かれていてその部分だけ異様な雰囲気がある。
 壁一面には彼やサークルの仲間と行った旅行写真が貼られていて、一つ一つに思い出がある。
 それさえも今はもう色褪せているようだった。今、自分と彼を繋いでいるのは、お互いの名前が入ったメールアドレスだけ。それだけなのに、消すこともできない。
 ふと携帯を見ると、着信が残っていた。彼からだ。留守電にメッセージが残されているので早速再生してみる。
『美依? 俺だ。……またかける』
 たったそれだけのメッセージ。
「……嘘つき」
 美依は溜息と共に言葉を吐き出した。

 週末にはいつものように彼の部屋にいた。しかし二人とも同じ空間にいるのに、お互い別のことをしている。それさえももう今では当たり前になってきた。
 彼は仕事が立て込んでいるからと、書類を家にまで持ち帰って仕事をしている。放置された美依はテレビをつけた。
 最初はニュースだった。暗いニュースにうんざりし、チャンネルを変える。
 次に映し出されたのはバラエティ番組。テレビから嘘くさいスタッフの笑い声が流れる。その声に嫌気がさしてまたチャンネルを変える。
 今度はクイズ番組だった。クイズとは頭の良さを競うもののはずなのに、最近では頭の悪さを競っているようにしか思えない。作り上げたバカキャラをどう面白く見せるのかに凝っているだけに見える。もちろん、本当に頭が残念なのかもしれないが。
『でも、本当のバカは私だ』
 溜息が漏れ、美依はテレビの電源を切った。
 ソファから立ち上がると、美依は仕事をしている彼に呼びかける。
「ねぇ。私、帰るね」
「ん? ああ」
 こちらを見ようともせず、気のない返事をする。恐らくこれは聞いていない。
「ハァ……」
 溜息を漏らしても、気づきもしない。
 美依はソファに置いてある自分の荷物を取ると、玄関のドアを開けた。

 今日も少し肌寒い。薄着の肩が冷えるので、ストールを巻いた。
 最近はいつもこうだ。一人になるのが嫌になって、部屋を飛び出す。
 だけどそんな自分を彼は追いかけては来てくれない。
 本当は分かっている。もうこの関係はダメなんだと。
 本当は気づいてた。もう彼の心はここにはないと。
「……っ」
 冷たい一筋が頬を伝う。
 いつからすれ違うようになったんだろう? どうしてなんだろう?
 ぴったりとハマっていると思っていたパズルのピースは、全く形が違っていて、どうやってもハマらない。
 そう、ピースは始めからハマってなんていなかった。
 心地よい関係を壊したくなくて、ずるずるとここまで来た。でももうそろそろケリをつけなきゃいけない。
 美依は顔を上げると、頬に流れた涙を手のひらで乱暴に拭った。
 真夜中の空は、漆黒で冷たい。涙で濡れた頬を冷たい風が撫でる。
 このままじゃ、いつまで経っても前には進めない。そう、もう終わらせなきゃいけない。
 この心にぽっかりと空いた穴を埋めて欲しかっただけ。だけどそれを埋めるのは彼じゃない。
 嘘で塗り固めたこの関係。髪を触る指も、キスも、抱きしめる強さも、どれも嘘。
 いつしか彼の心はここにはなかった。ずっと前から気づいてた。けど気づかないフリをしてた。
 ただ信じていたかった。『ずっと傍にいる』と言った彼の言葉を。

 バッグに入れている携帯電話が震える。取り出して見ると、彼の名前が点滅している。
「……はい」
『今どこいるんだよ』
 やっぱりさっき言った言葉なんて聞いてはいなかった。絶望が襲う。
「……タワーの近く」
 短く答えると、意外な答えが返ってきた。
『じゃあそこで待ってろ。迎えに行くから』
「……分かった」
 そこで通話が途切れる。携帯電話を閉じると、美依は近くで光るタワーを見上げた。気を抜けば零れ落ちそうな涙をグッと飲み込む。
 いっそ消えてしまいたいくらいの黒い感情が沸き上がってくる。
 目をぎゅっと瞑り、深呼吸をする。
 このままの関係を続けるか、すっぱりと断つべきか。
 その答えはもう心の奥では出ている。だから今日、決着を付けるんだ。

「美依」
 呼ばれた方へと振り返ると、そこに彼がいた。
 だけどやっぱり、形の違うパズルのピースはどうやってもハマらない。
 彼は不安そうな目でこちらを見ている。その目にいつも騙されてきた。
 そう、今こそ今の関係をぶっ壊す時。
 美依はグッと拳を握ると、彼を見つめ返した。
「話があるの」
 吹き抜けた風が、美依を強くする。

 さぁ、ぶっ壊せ。


inspired:PUZZLE/倉木麻衣

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