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それは青天の霹靂だった。
「聞いて聞いてっ! 俺、彼女できた!!」 彼、佐藤豊彦は今まで見たことのないほどの満面の笑みを浮かべて、そう言った。 「へー・・・・・・。そう、なんだ」 あたしはただ驚いてそう返すことしかできなかった。 「良かった、ね」 そう言うと、本当に嬉しそうに彼は笑った。 「さんきゅっ」 あたしの名前は佐藤亜莉。高校一年生。冬休みが終わって、始業式の日。彼はご丁寧にもあたしに報告してくれた。 豊彦とは高校に入って初めて出会った。同じ名字で、席が隣同士になったのだ。 「君も佐藤って言うんだ?」 話しかけてきたのは、豊彦の方だった。頷くと、彼は人懐っこい笑顔でまたあたしに話しかけてきた。 「下の名前は? 何て言うの?」 「・・・・・・亜莉」 あたしは自分の名前が死ぬほど嫌いだった。この名前のせいで、中学時代どれほどいじめられたか・・・・・・。 「亜莉?」 彼が聞き返したので、あたしは頷き、俯いた。 もう嫌だ。絶対馬鹿にされるに決まってる。 「へぇ。かわいい名前じゃん」 意外すぎる彼の反応に、あたしは思わず顔を上げて、彼の顔を見た。すると、豊彦はニコッと人懐っこい笑顔をあたしに向けた。 「なぁ、亜莉って呼んでもいい?」 そんなことを言われたのは、初めてだった。あたしは驚きながらも頷いた。 「俺は佐藤豊彦。豊でいいよ」 彼の笑顔は、とても暖かかった。 彼に惹かれるのに、時間はかからなかった。 「亜莉。辞書貸してー」 「しょうがないなぁ」 そう言いながらも、彼と話すことは嬉しかったし、人懐っこい笑顔を見るのが好きだった。 「さんきゅっ」 彼が触れた部分が何だか熱い。名前を呼ばれる度、ドキドキした。 彼を好きなんだと自覚したのは、ある日の放課後のことだった。 あたしは教室に忘れ物をしたことに気づき、取りに戻ると、誰かの話声が聞こえた。 「豊ってさ、佐藤と仲良いよな」 その声の主がクラスメイトの男子だとすぐに気づく。 「うん。それがどうかした?」 豊彦はあっけらかんと返事した。 「佐藤って、何か暗いよなぁ」 「名前も変だしなー。お前何で仲良いの?」 ドアの向こう側で男子の笑い声がこだまする。嫌な思い出を一気に思い出し、あたしはその場にうずくまった。 「何で? 亜莉ってかわいい名前じゃん」 豊彦の言葉に、男子の笑いが止まる。 「何それ? 本気で思ってんの?」 小馬鹿にしたような言い方に、あたしは聞いていて虫唾が走った。 「本気だよ。それに亜莉は暗い子なんかじゃない。亜莉がかわいいからってヤキモチ焼いてんなよ」 豊彦の言葉に、一瞬男子たちが怯んだ。 「ち、違うっ! 誰があんなやつ・・・・・・」 何だか男子が否定していたが、あたしの耳にはもう届いていなかった。 気づいたら、校門の外まで走って逃げていた。 初めてだった。あんな風にあたしを庇ってくれたのも、名前を可愛いと言ってくれたのも。 「・・・・・・優しすぎるよ」 何だか分からない感情が、心の奥底から湧き上がってくる。心臓が早鐘のように鳴り響いている。 恋に落ちた瞬間だった。 彼とは席が離れても、変わらずに話ができた。こんなにも仲良くなれたことが本当に嬉しかった。 夏休みが開けた二学期の初め、彼から嫌な話を聞いた。 「俺、好きな人がいるんだ」 その瞬間、あたしは後ろから殴られたかのような感覚に陥った。頭が真っ白になる。 「へぇ、そうなんだ。誰?」 冷静を装いつつ訊ねると、彼は顔を真っ赤にした。 「中学一緒だった子なんだけどさ。卒業して別の高校行ったから一回諦めたんだけど、夏休みに偶然再会して・・・・・・。やっぱり好きだって実感したんだ」 「そう、なんだ」 豊彦は恥ずかしそうに俯き、また顔を上げた。 「だからさ、亜莉に相談乗ってもらおうと思って。女の子って何をされたら嬉しいのかな?」 「知らないよ」 そんな相談なんてされたくない。冷たく言ったにもかかわらず、彼はめげない。 「そんなこと言わないでさ。お願いっ!」 胸の奥がチクリと痛む。助けを求められて嬉しい反面、相談内容が内容だけに複雑だ。 「わ、分かった。相談、乗るから」 そう言うと彼は一瞬にして嬉しそうに笑った。 「マジで! ありがとう!」 彼の笑顔が、眩しかった。 相談を受ける度、あたしは胸の奥が苦しかった。だけど、彼には気づかれないように平静を装った。 そして冬休みが訪れ、三学期の始業式の日、彼女ができたと報告を受けた。まさか告白して両想いになるなんて思ってもみなかったあたしにとって、それは残酷な宣告だった。 「亜莉のおかげだよ」 そう言われると、後悔しか残らない。どうして自分の気持ちを素直に伝えなかったんだろう? もし伝えていれば、何か変わっていたのだろうか? ある日曜日。あたしは母に買い物を頼まれ、嫌々ながら街へ出かけた。 買い物を無事に済ませ、帰路に着いていた時、彼を見かけた。 「と・・・・・・」 彼に声をかけようとして、あたしは固まった。彼の隣にいる人物が目に入る。 隣にいたのは、豊彦の彼女だった。長い黒い髪に、かわいらしい顔立ち。あたしなんかとは正反対だった。お似合い、という言葉がすぐに浮かんだ。 でもそれよりもあたしは、今まで一度も見たことのない彼の笑顔が何だか悔しかった。 あたしはグッと拳を握ると、家に向かって走り出した。もうこれ以上彼のあんな顔を見たくなかった。 どうしてあたしじゃ駄目なんだろう? どうして彼じゃなきゃ駄目なんだろう? どんなにもがいたって、この事実は変わらない。 苦しくて息ができない。 あたしは家に飛び込むと、荷物を玄関先に置いたまま、二階の自室へと駆け上がった。 「亜莉ー? 帰ったの?」 下で母の声がしたが、そんなのに答える余裕なんてなかった。ベッドに飛び込み、枕に顔を押し付ける。 苦しい。胸が痛い。 「っ・・・・・・」 涙が頬を伝う。何でこんなに好きになってしまったんだろう? 彼に好きな人がいると打ち明けられてから、あたしは何度も諦めようとした。何度も嫌いになろうとした。だけど、嫌いになんてなれなかった。 嫌いになれるわけなんてない。 『亜莉』 名前を呼ばれる度、胸が高鳴った。声を聞く度、笑顔を見る度、好きになった。 分かってた。どんなに想っても、彼があたしを見てくれないことくらい。 止めようとした涙が、今までにないくらいまでに溢れ出た。 何時間経っただろう? 時計を見ると既に夜中になっていた。夕飯も食べずにいたので、母が心配して様子を見に来たが、あたしは『風邪引いた』と嘘をついた。 そっとベッドから起き、リビングへと降りる。両親はもう寝室で寝ているだろう。 ダイニングのテーブルの上には、今日の夕飯がラップにかけられて置いてあった。それを見た瞬間、お腹が鳴る。何でこんな時まで食欲はなくならないんだろう。 少しだけつまんで、あたしはインスタントコーヒーを作った。いつもなら、砂糖もミルクも入れるのだが、今日はブラックを飲んでみることにした。 「・・・・・・苦っ」 甘党のあたしには、結構辛かった。けど、砂糖やミルクを入れる気にはならなかった。だってブラックコーヒーは豊彦の好みだから。 もし豊彦と同じ顔をして、同じ顔をした人がいたとしたら、その人はあたしを見てくれるだろうか? 「・・・・・・バカみたい」 くだらないことを考えたってしょうがない。だって、あたしは豊彦だから好きになったんだから。 そう思うと、枯れたはずの涙が溢れてくる。 どうしてこんなに好きなんだろう? どうしてこんなに寂しい気持ちになるんだろう? 声を聞きたくて、会いたくて、どうしようもなくなる。 あたしはダイニングテーブルに突っ伏した。ひんやりとしたテーブルが、火照った頬冷やしてくれて気持ちがいい。 明日になれば、学校で彼に会える。だけど何だか辛い。 彼女に見せていたような笑顔は、きっとあたしには見せてくれない。 どうしてあたしじゃ駄目なんだろう? どうして彼じゃなきゃ駄目なんだろう? そればかり考える。今更彼に気持ちなんて伝えられない。今の関係を壊したくない。 苦しくて、息ができない。 こんなにも好きなのに、想いが届くことなんてない。 どうして好きになってくれる人だけを好きになれないんだろう? どうして振り向いてくれない人を想い続けてしまうんだろう? 考えたって、答えが出るはずもない。あたしはグッと苦いコーヒーを飲み干した。 せめて彼の前では笑っていよう。この想いを胸の奥に隠して。 好きになってくれる人だけを、好きになれたらいいのにね。
inspired:恋/奥華子
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