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「もう・・・・・・ケンカ・・・・・・すんなよ」 今は亡き親友の最期の言葉が浮かぶ。 あの日、親友と約束してからは、一度も喧嘩していない。 「約束、やもんな」 武士は切れることのない雨の糸を見上げ、そう呟いた。 「は? 風邪?」 美佳は思わず素っ頓狂な声を上げた。 「・・・・・・大きい声出さんで・・・・・・響く・・・・・・」 今にも死にそうな声で武士が呟く。 「ごめん。でも何で風邪なんて・・・・・・」 「雨に打たれてたんやってさ」 美佳の問いに、透が淡々と答える。 「自業自得やな」 「アホやから」 龍二の言葉に慎吾が付け足した。いつもなら言い返すのに、全くそんな気配がないので、相当重症っぽい。 ここは音楽スタジオ。ロックバンドBLACK DRAGONのメンバーは、今ここで曲作りをしている。 美佳と葵が差し入れに来たのは、つい五分前。差し入れに飛び付く四人をよそに、一人ソファで沈んでいた武士に美佳が気づき、声をかけた。 返って来た言葉はシンプルに「風邪引いた」だった。 「でも熱出てるのに、こんなとこで寝てたら余計に悪化するんじゃない?」 葵が心配そうに武士の顔を覗き込む。 「って言うてもなー。帰らせてもええけど、一人暮らしやから余計心配やしな」 龍二がそう言うと、ガバッと武士が起きた。 「俺、仕事しに来てるんやけど」 「ソファで死んどる奴が何言うてんの」 慎吾が冷たく言い放つ。 「一応さっきまで仕事してたやんかぁ・・・・・・」 慎吾の冷たさに武士はいじけた。 「無理しないで、ちゃんと布団で休んだ方がいいよ?」 葵の言葉に美佳も頷く。 「そうだよ。無理しても長引くだけだよ?」 「分かってるけど・・・・・・仕事、残ってるし・・・・・・」 武士はどうやらそれが気がかりなようだ。 「それより先に風邪治して、後でやったらええやん」 亮が正論を言うが、武士は納得しない。 「でも・・・・・・皆に迷惑かけてるし・・・・・・」 「そんなん、いつまでも風邪こじらせたままでおられる方が迷惑や」 慎吾は歯に衣着せぬ言い方で返す。だけど正論すぎて言い返せない。 「じゃあさ。美佳ちゃん、こいつの看病してやってくれん?」 「へ?」 突然の透の提案に美佳は変な声を上げた。 「何言うてんの。透。美佳ちゃんに迷惑やろ」 武士が反論するが、透は相手にしない。 「俺は美佳ちゃんに聞いてるんや。どう? 美佳ちゃん。お願いできん?」 透の言葉に、美佳は思わず武士を見やる。赤い顔をして、眼鏡越しにまるで捨てられた仔犬のような潤んだ目でこちらを見ている。そんな目で見られると放っておけないではないか。 「美佳、看病ぐらいしてあげたら?」 葵が意地悪く肘で小突く。 「・・・・・・いいよ。看病しても。どうせ、暇だし・・・・・・」 「ホンマ? ありがとう」 透はホッとしたように笑った。チラリと武士を見ると、辛そうにしながらも微笑んだ。 「ありがとう」 何だか不思議な感じだ。 美佳は予想もしなかった展開に、今更緊張し始めた。 マネージャーの一人である青田と共に、武士の家まで向かう。車の運転はもちろん青田で、後部座席には美佳と武士が乗っている。 一人暮らしの男性の部屋に行くのは、初めてではない。だが、いつもとは違う。いつもは高校時代や大学の仲間と遊ぶときに大人数で押し掛けるのだ。 今日は仮にも想い人の家なのである。 (まぁ・・・・・・熱で倒れてるけど) 美佳は武士を見やった。だるそうにシートのヘッドに頭を預けている 。何だかその方が辛そうに見えるのは、気のせいじゃないはずだ。 「武士くん、その方が辛くない?」 「んー? しんどいなぁ」 そう言いながら、美佳の方を向いて意地悪く笑う。 「美佳ちゃんが、膝枕でもしてくれるん?」 「なっ!」 何を言ってんだ。この男は。熱にうなされてるからって、変な冗談は止めてほしい。 「冗談やって」 武士は笑いながら、美佳の頭をポンポンと優しく叩いた。 何だか非常に悔しい。熱があるくせに・・・・・・悔しい。やられっぱなしじゃ悔しいので、美佳は口を開いた。 「いいよ。膝枕、してあげても」 その言葉に武士が驚く。 「え? でも・・・・・・」 「辛いんでしょ? でも今日だけだからね」 そう言うと、武士は嬉しそうに笑った。 「らっきー」 そう言いながら、美佳の膝に頭を預ける。ほんの少しの重みがかかるだけなのに、膝が緊張する。 いつもは見上げるだけの武士の頭がこんなにも近くにあるのはとても不思議だ。 恐る恐る髪に触る。明るい茶色にカラーリングされた髪は、思っていたよりも柔らかかった。 すると向こうを向いていたはずの顔がゆっくりとこっちに向いた。 「ごめん」 思わず謝ると、武士が笑う。 「何謝ってんの」 「だって・・・・・・」 勝手に髪を触ったことに、変な罪悪感が沸く。 「頭撫でてもらったんなんて、いつ振りやろ・・・・・・」 武士は瞼をゆっくりと閉じた。しばらくすると寝息が聞こえて来て、美佳は拍子抜けした。 「何か言うのかと思った・・・・・・」 眠りに落ちた武士を起こさないように、少しだけ髪を撫でる。 彼は普段おちゃらけているが、人一倍辛いことも経験してる。だけどそのことをメンバーは知らない。いや、龍二だけは何となく知っているとは言っていた。だが、真相全てを知っているのは美佳だけらしい。 美佳は不思議でたまらなかった。どうして自分にだけ話してくれたのだろう? (期待、しちゃうよ?) 武士の家は、トップのロックミュージシャンらしい高級マンションだった。 「大丈夫ですか?」 青田が武士を支えながら、エレベーターへ向かう。美佳も後ろから補助しながら、エレベーターの上のボタンを押す。 何度か訪ねたことがある龍二の家よりは階数は少ないかもしれないが、それでも一人で住むには十分過ぎる。 (あたしが言えることじゃないか) 思わず自嘲する。自分はBLACK DRAGONが所属する事務所の社長令嬢なのだから。 「十一階お願いします」 エレベーターに乗り込んだ美佳は青田の言葉の通り、十一と書かれたボタンを押した。 「熱、上がってきたかもしれないですね」 青田はどんどん力が抜けて行く武士を支えながら、呟いた。その言葉に美佳は手を伸ばし、武士のおでこに触れた。確かに少し熱い気がする。 「何か、さっきより熱くなってる」 「早く布団に寝かせてあげた方がいいですね」 青田の言葉に美佳は頷いた。 「それにしても、武士さんにしては珍しいですね。風邪を引くなんて」 「馬鹿だから引かないって?」 美佳が茶化すと、青田は慌てて否定する。 「ち、違いますって。武士さんってメンバーで一番体調に気を使ってるんですよ。だから今まで風邪を引いたり、まして発熱なんてしたことなくて・・・・・・それで・・・・・・」 青田の慌てぶりに、美佳は思わず笑った。 「そうよね。武士くんが休んだ、なんて聞いたことないもの」 「何で雨に打たれたりなんかしたんでしょうか?」 青田の質問に、美佳は武士の顔を見た。熱のせいで、会話に参加する気力もないらしい。 「そういう気分だったんじゃない?」 「気分、ですか?」 美佳の言葉に、青田は驚く。まさかそんな答えが返ってくるとは思ってもいなかった。 「人間だもの。そう言う時だってあるわよ」 「そういうもんですかねぇ・・・・・・」 何だか腑に落ちないようだったが、エレベーターが到着したので、三人は降りて武士の部屋へと向かった。 武士を支えている青田から鍵を受け取り、美佳が鍵を開け、ドアを開く。まず青田と武士が入り、最後に美佳が入る。 青田は部屋に来たことがあるらしく、武士を寝室へと連れて行った。美佳は玄関から伸びる廊下をまっすぐ進み、突き当たりにあるドアを開けた。予想通り、キッチンがあり、その奥にリビングが広がる。 美佳はキッチンに入り、冷凍庫を開く。水をセットしておくと自動で氷が作られるタイプで、酒飲みの武士はきちんと氷を作っていた。 それを確認し、次に浴室を探す。 今来た廊下に戻り、開けっ放しになっている寝室の向かい側のドアを開いてみる。 「ビンゴ」 思わずそう呟いた。そこには脱衣所があり、洗濯機も置いてある。 美佳は浴室を開け、洗面器を取った。洗濯機の上の棚に置いてあった綺麗に畳まれたタオルを拝借し、キッチンに戻る。 洗面器に水を溜めながら、氷を入れた。それにタオルを浸けて冷やす。適度に冷えた頃に取り出して絞る。 「つっめたー」 思ったより冷えたタオルに、思わず声が出てしまう。何とか絞って、そのタオルと洗面器を寝室へと運ぶ。 寝室にはキングサイズのベッドが壁際に置いてあり、反対側にテレビとタンスが置いてあった。リビングにもテレビがあったのを思い出し、意外とテレビっ子だったことに思わず笑う。 自分よりも体格の大きい人間を運んできて疲れ果てている青田をよそに、美佳はベッドのサイドテーブルに洗面器を置き、絞ったタオルを武士のおでこに乗せた。 「気持ちえー」 もう眠ったものと思っていたのに、乗せた途端にそう呟く。起きているのならと声をかける。 「武士くん、体温計は?」 「あるわけない」 目を閉じたまま、そう返された。 「青田さん」 「はひっ!」 突然声をかけられて驚いたのか、思いきり噛んだ。しかし美佳は気にしない。 「体温計買ってきてくれる? あと食材と」 「あ、はい。何買ってきたらいいですか?」 青田の質問に美佳は肩から掛けたままの鞄からメモとペンを取り出し、必要な物を書いて渡す。 「体温計って・・・・・・どこに売ってるんでしょうか?」 その質問に美佳は思わず固まった。そう言えば買ったことなんてない。 「どこだろう? ドラッグストアにでもあるんじゃない?」 「あぁ、そうですよね」 納得し、青田が立ち上がった。 「青田さん、これ」 美佳は財布を出し、一万円を渡すと、青田は驚いた。 「へ?」 「ちゃんと領収書貰ってきてね」 「はい!」 やたら返事が良すぎて、美佳は思わず笑った。 青田が出かけてしばらくすると、武士は再び寝息を立て始めた。 美佳は起こさないように立ち上がり、リビングの方へと戻る。 「・・・・・・汚い・・・・・・」 さっきはリビングの方はあまり見ていなかったが、主にリビングで生活しているらしく、服が脱ぎ散らかり、弁当の空き箱やビールの空き缶、更にはお酒の空きボトルが転がっている。 よくこんなところで生活できるものだと思わず感心した。 「ったく。しょうがないなぁ」 美佳は毒づきにながらも、片付けることにした。亮だってあまり家に帰っていないのだから、武士だってあまり家に帰って来ないのかもしれない。それこそ寝に帰って来ているだけなのかもしれない。それならこの汚さも何だか分かる気がした。 まず脱衣所から洗濯カゴを持って来て、脱ぎ散らかしてある服をかき集める。次にキッチンを漁ってゴミ袋を見つけ、それに空き箱と空き缶を分別しながら集めた。 部屋一面に広がっていた服とゴミを片付けると、床が顔を出した。 集めた衣類を持って脱衣所へ向かい、洗濯機に衣類を分けながら入れる。置いてあった洗剤を確かめて入れ、洗濯機のスタートボタンを押して、一度寝室を覗いてみた。 武士はよく眠っているようだ。 温くなったタオルを洗面器に浸し、絞って額に置く。その時少し顔に触れてみると、何となく熱が下がったような気もする。体温計がないので、気のせいかもしれないが。 もう一度リビングに戻り、分別したゴミ袋を邪魔にならないところに置き、掃除機を探す。掃除機は部屋に備え付けてある物入れに入ってあった。 『美佳、掃除は雑巾がけからやるのよ』 掃除機を取り出そうとすると、ふと葵の言葉が浮かんだ。 「あ、そうだった」 確か葵がテレビで見たと言っていた掃除の仕方は、雑巾がけを先にやるというやり方だった。そうすれば無駄に埃が舞わないので、掃除しやすいらしい。 美佳は掃除機の奥にバケツと雑巾を見つけた。ここは一応掃除用具入れにしているらしい。 「散らかしてる割には、変なところできっちりしてるんだ」 思わず感心する。武士はもしかしてA型なのかもしれないと思いながら、雑巾を濡らすために洗面所へやって来た。 「ったく。こんなところで役に立つなんてねぇ・・・・・・」 思わず自嘲する。 美佳はこれでも社長令嬢なので、普段家にいる時に家事なんてしない。家事をやり始めたのは、葵の両親が亡くなってからだ。 それまで普通に暮らしていた日向家は、突然の両親が亡くなり、葵は生活費を稼ぐためバイト尽くしになってしまった。まだ中学生だった双子だけにしておけないので、美佳が保護者代わりになり、その時に家事を覚えた。 日頃から母親の手伝いをしていた葵たちとは違い、何をやるのも初めてで、双子の面倒を見ているというより、双子に家事を教えてもらっていた、と言った方が正しいかもしれない。 元々器用な美佳は覚えるのも早く、一時期、葵と夫婦のような生活をしていたことを思い出し、思わず笑みが零れた。 固く絞った雑巾で埃を床に落とす。リビングにある棚を拭いている時に、写真が多いことに気づいた。 写真立てに飾っていたり、大きなコルクボードに無造作に貼っている写真をよく見ると、写っているのはほとんどBLACK DRAGONのメンバーだった。その中に時々自分や葵が混ざっている写真を見て、何だか口元が緩む。コルクボードを見ていると、美佳と武士のツーショットの写真があった。 「何で・・・・・・これ飾ってんの・・・・・・」 酔っぱらった慎吾か誰かに不意打ちで撮られたものなので、被写体が斜めに写っている。しかしピントがきちんと合っているので、デジカメで撮ったものだろうと推測できる。 何だか恥ずかしいが、嬉しい。 武士にとっては、たくさんある写真の一枚なのかもしれないが、武士のプライベート空間に自分がいるみたいだ。 美佳は機嫌よく、再び棚を拭き始めた。しかし勢いあまって写真立てに手が当たり、倒してしまう。 「ヤバッ」 慌てて写真立てを元の位置に戻す。写真立てのガラスは割れておらず、ホッと胸を撫で下ろした。 「・・・・・・誰だろ?」 その写真は見たこともない男の子が写っていた。一緒に写っている武士が心なしか若い。 「もしかして・・・・・・」 彼は武士の亡くなった親友なのではないだろうか? 根拠はないが、何だかそんな気がする。 「どんな子だったんだろ?」 武士の心に今も存在する彼。武士の人生を変えたと言っても過言ではない。もし彼が庇ってくれなければ、武士は今この世にいないかもしれない。喧嘩ばかりしていた武士を変えた人物。 「武士くんを助けてくれて、ありがとう」 会ったこともない彼に、そう言わずにはいられなかった。もし武士を庇ってくれなければ、一生武士に逢うことはできなかったのだから。 玄関の開く音がした。 「ただいま戻りましたー」 廊下への扉を開けっ放しにしていたので、青田はこちらにやって来る。 「ありがとう。ごめんねー。重かったでしょ?」 「いやー。武士さんに比べたら全然ですよ」 そう言って笑う青田に、美佳も思わず笑う。 「これで大丈夫ですか?」 青田は風邪薬や体温計、食材をリビングのテーブルに置いて美佳に聞いた。 「うんうん。本当は病院に連れてった方がいいのかもしれないけどねぇ」 美佳は風邪薬の箱を手に取り、説明書きを読み始める。 「ですよねぇ。でも武士さんがあんな状態じゃ、無理ですよね」 「そうねぇ。せめて自分で歩いてくれないとね」 美佳がそう言うと、青田は苦笑いを浮かべた。 その時、携帯電話のシンプルな着信音が鳴る。 「すいません」 青田は美佳に一礼し、電話に出た。美佳は食材が入った袋を持ってキッチンに移動する。 さっきゴミ袋を探すためにキッチンを漁った時に見つけた鍋に水を溜め、火にかけた。食材を取り出し、調理台に並べる。 「美佳さん、すみません」 電話が終わったらしい青田が声をかけてきた。 「どうしたの?」 「何か戻らなきゃいけないみたいで・・・・・・。武士さん、お願いしてもよろしいですか?」 予感が的中したので、美佳はあまり驚かず頷いた。 「いいわよ。そのつもりで来たんだし」 「あ、でも美佳さん、どうやって帰られます?」 青田が運転する車に乗って来た美佳に、足はない。 「誰かに迎えに来てもらうか、電車にでも乗って帰るから大丈夫よ」 以前から思っていたが、青田は心配症過ぎると思う。ここは都会だ。田舎と違い、帰ろうと思えばどうやってでも帰る手段はある。 「そうですか。あ、忘れないうちに、お釣りと領収書です」 律儀に領収書とお釣りを取り出し、美佳に手渡す。 「ありがとう。気を付けてね」 「はい! ありがとうございます」 青田は丁寧にお辞儀をすると、帰って行った。 青田を見送り、キッチンへと戻る。 武士の家は食材が全くなかったので、買ってきてもらった白飯のパックを使ってお粥を作ることにした。本当は野菜を入れた雑炊の方がいいのかもしれないが、病人が食べるには少し辛いかもしれないので、シンプルに卵粥にしようと思う。 お粥を作るのは久しぶりだったが、調理法はとても簡単なので、美佳は手際よく作った。 後は炊くだけになり、とりあえず弱火にかけて、一度武士の様子を見に行く。しばらくぶりにタオルを持ち上げると、冷たかったはずのタオルはやはり温くなっていた。洗面器に張った水も少し温くなっていたので、美佳は一度キッチンに持って行って水を替えて氷を足し、タオルを冷やす。もう一度部屋に戻り、武士の額に乗せる。 かなり熟睡しているようで、特に反応もしないので、美佳はゆっくりと立ち上がり部屋を出た。 脱衣所を覗くと、洗濯機はもう既に止まっていた。美佳は洗濯機の蓋を開け、洗濯カゴに洗濯物を入れ、リビングに持ってきた。 そこにはベランダがあり、洗濯物を干す竿もハンガーなども揃っているのだが、良く見るとうっすら埃が溜まっていた。 「・・・・・・洗濯どうしてたんだろ?」 不思議に思いながらも、洗濯カゴをそこに残し、美佳は雑巾を取ってきて、埃を落とす。 そう言えば、亮は独身時代に洗濯をまともにしたことがないと聞いたことがある。武士の場合、最初はちゃんとしていたのだろうが、きっと忙しさで洗濯にまで手が回っていないのだろう。 散乱していた部屋を思い出し、美佳は苦笑いを浮かべた。 「しょうがないか」 一通り拭き終わり、洗濯を干す。 洗濯を干すのも久しぶりだ。実家にいると、特に美佳の家では家事をすることはない。双子がデビューして売れるようになって、葵が家にいるようになってからは、家事をする機会もなくなった。 だけど意外と体が覚えているものだ。どうすれば効率よくできるか、感覚で分かるようになっている。 いつしか美佳は家事を楽しんでいた。 雨音が耳の奥で響く。目の前には力なく倒れた親友の姿。雨で流されていく彼の真紅の血を止める術を、武士は知らない。 「アキッ!」 駆け寄って血をどうにかして止めようとするが、どうしたらいいのか分からない。 「アキ・・・・・・」 手を伸ばすと、親友、義彰がこちらを向いた。 「武士」 その穏やかだった顔が、一変して鬼のような形相になる。 「許さない」 「!」 嫌な汗を掻きながら目を開けると、見慣れた天井が見えた。 一瞬、どこにいるのか分からず悩むが、そう言えば青田と家に帰って来たのだと思い出す。 何だか喉が渇いたので、ゆっくりと体を起こす。すると額に乗っていたタオルがパサッと落ちた。それを手に取りながら、布団をめくり、ベッドから足を下ろす。その時、水を張った洗面器が視界に入った。 「青田・・・・・・女みたいやな」 看病してる姿を想像し、思わず噴き出した。しかし根が真面目な青田のことだから、ちゃんと看病してくれそうだ。 だがこの部屋には武士以外誰もいない。リビングにでもいるのだろうか? それとももう帰ってしまっただろうか? サイドテーブルに置いてあった眼鏡を取り上げ、それをかけて立ち上がる。 トイレで用を足してから、キッチンへ行く。まだ体はだるいのだが、体は水分を欲していた。 リビングへの扉が開けっぱなしになっていて、掃除機の音がする。 まさか青田は掃除までしてくれてるのだろうか? 武士はリビングに入って驚いた。 「へ? 美佳ちゃん?」 そこには掃除機をかけている美佳がいた。良く見ると、外で洗濯物が揺れている。 「あれ? 武士くん。起きて大丈夫なの?」 美佳は掃除機のスイッチを切り、それをそっと置いて近付いてきた。 「えっと・・・・・・。何で美佳ちゃんが?」 「・・・・・・何言ってんの? 看病のために青田さんと来たじゃない」 そう言われて、武士は記憶を巻き戻した。熱で朦朧としていて、ぼんやりとしか覚えていないが、言われてみれば確かに美佳もいた。 「あぁ、そっか。そうやったな」 「熱でボケてんの?」 美佳がそう言って笑うと、武士も笑った。 「で、熱は下がった?」 「分からん」 聞かれて、武士は即答した。美佳はその答えに笑いながら、体温計を出した。 「あれ? 体温計なんてあったっけ?」 渡された体温計のスイッチを入れ、脇の下に挟む。 「買ってきてもらったのよ。青田さんに」 「あー、そっか。で、青田は?」 立っているのは結構辛いので、武士はソファに腰掛けることにした。 「何か電話で呼び出されて、戻ってったけど」 美佳はそう言いながら、キッチンに入って行く。 「武士くん、お粥作ったけど食べる?」 対面キッチンの向こう側から、美佳が問う。 「食う食う。あ、てか、喉乾いた・・・・・・」 そのためにキッチンに来たことを思い出した。美佳はコップに冷蔵庫から取り出した水を入れると、武士の元に持ってくる。 「はい」 「ありがとう」 渡されて、一気に飲み干す。程よく冷やされた水が喉を潤し、体に沁み入った。 「相当喉乾いてたんだね」 空になったコップを渡すと、美佳が笑った。 「汗もいっぱい掻いたしなー」 そう言いながら、体を横に倒す。ソファが静かに沈み、その感触が何だか心地よかった。 「そんなとこで寝ちゃダメだよ」 キッチンに移動した美佳が、武士の様子を見てそう忠告する。 「分かってるってー」 そう言いながらも、目を閉じる。あんなに寝たのに、まだ眠れる。日頃の疲れも一気に出ているのだろうか? 美佳がキッチンで何やら作業している音が聞こえる。この家で、自分以外の誰かがいるなんて珍しい。しかも何だか妙に安心する。 体が弱っているせいか、誰かがいてくれることは、ありがたい。こんなに安心できるのは何年振りだろう? 『武士』 不意に聞こえた優しい声。もう二度と聞くことはできない、親友、義彰の声。 しかしさっきの夢を思い出し、怖くなって目を開ける。 「武士くん、起きて」 美佳がお盆に茶碗とスプーンを乗せてやって来た。武士は体を起こし、机の前に座る。その時、体温計が鳴ったので、取り出して見た。 「見せて」 武士は言われたとおり、美佳に体温計を渡す。 「三七度八分か。ちょっとは下がったのかな?」 「うん。スタジオで計った時は、三八度超えてたから」 美佳たちが来る前、青田がどこからか持ってきた体温計で計ったのだ。武士自身は見ていないのだが、体温計の表示を見てメンバーがそう言ったのを、何となく覚えている。 「はい。食べれる?」 美佳が目の前にお粥を置いてくれた。 「何? 食わしてくれんの?」 「え?」 思わぬ言葉に、美佳は驚いて固まった。 「ちょっとした冗談やーん。そんな固まらんでや」 武士は笑いながら、スプーンを手に取る。 全くこの男は、病気になって余計に言動が読めなくなっている。 美佳が睨んでも、武士は気にすることもなく、早速お粥を一口食べた。 「お。美味いやん」 「よかった」 久しぶりに作ったため塩加減がよく分からなかったので、実は少し不安だった。 「何かあったかいもん、久し振りに食うたわ」 武士はそう言いながら、嬉しそうにお粥を食べている。それを見て、美佳は少しホッとした。食欲があるということは、だいぶ回復してきたのかもしれない。 「てか美佳ちゃんがこの部屋、片付けてくれたん?」 武士は綺麗になった部屋を見ながら聞いた。 「あ、うん」 「洗濯までしてくれとるし」 窓の外で洗濯物が揺れているのを見やる。 「あ、ごめん。お節介だった?」 特に違和感なく洗濯したのだが、よくよく考えると、赤の他人に洗濯されるのは嫌かもしれない。 「ううん。助かった。おおきに」 武士は相変わらず優しく笑った。その笑顔を見て、美佳はホッと胸を撫で下ろした。 「てか美佳ちゃん、家事できるんやなー」 改めて関心されると、何だか恥ずかしい。 「家事できたらおかしい?」 思わず可愛くない言葉が飛び出す。素直に頷いておけばいいのに。 「おかしいこたぁないけどさ。美佳ちゃん、お嬢様やから家事とか全然せんのかと思ってた」 「それは・・・・・・」 武士の考えもあながち間違いではない。日向家の手伝いをしなければ、未だに家事なんてできなかっただろう。 「葵のご両親が亡くなってから、葵が働きに出るようになって。まだ中学生だった双子の面倒をあたしが見るようになって、その時に覚えたの。って言っても、本当に何もできなかったから、双子に教えてもらったって言った方が正しいかも」 美佳がそう笑うと、武士はいつになく穏やかに微笑んだ。 「そっか。美佳ちゃんが葵ちゃんたち支えてたんやな」 褒め言葉に、何だか照れる。 「支えるなんて・・・・・・そんな大層なことしてないよ」 「美佳ちゃんはそう思ってても、葵ちゃんたちは助かってたと思うで」 武士の言葉が嬉しい。 「そう・・・・・・かな?」 「そうやって」 「そうだといいな」 そう言うと、武士は満足そうに笑った。 「ぷはー。んまかったー」 お粥を平らげると、武士は美佳にもらった薬を飲んで、すぐ背後にあるソファにもたれた。 「食欲あるみたいだから、もう大丈夫かな?」 「そやなー。けどちょっとしんどいかなぁ」 そう言われ、美佳は武士の顔を見た。確かにまだ熱っぽいようだ。顔が赤い。 「無理しないで、寝てたら?」 美佳はベッドに誘導しようとするが、動こうとしない。 「まだしんどいからここおる」 そう言い張るので、美佳は食器を片付けに立ちあがった。 「いいけど・・・・・・そんなとこで寝たらぶり返すよ?」 「寝ないから大丈夫ー」 そう言いながら、もぞもぞとソファの上に座り、再び横になる。 「つか汗掻いて気持ちわるー」 武士は着ていたTシャツの胸元を掴み、肌から離した。対面キッチンからその様子が見えた美佳は、ふと双子が揃って熱を出した時を思い出す。 そう言えば葵と一緒に汗を拭いてあげたっけ? 「着替えるついでに体拭こうか?」 「へ?」 言った瞬間、武士は驚く。 「ええってー、そこまでしてもらわんで」 「でもちゃんと汗拭いた方がいいし。気持ちいいよ」 美佳はそう言いながら、さっさとお湯の準備を始める。 「着替えってある?」 散乱していた服は洗濯したので、まだ乾いていない。 「あ、っと・・・・・・タンスにあると思う」 「分かった」 美佳はその言葉を聞いて、タンスを置いてある寝室へと行ってしまった。 「・・・・・・マジでか」 美佳はさっさと準備をし始めた。武士は帰ってきてそのままの服で寝ていたので、着ていたTシャツが汗を含んで色が濃くなっている。 「脱いで」 「いやーん。美佳ちゃん、そんな・・・・・・恥ずかしいわー」 まるで乙女のような返しに美佳は呆れた。 「何言ってんの・・・・・・」 「ちょっとした遊びやん・・・・・・」 あまりに呆れられたので、武士もつまらないと渋々Tシャツを脱いだ。 Tシャツの下から現れた肉体は、確かに男の人の身体で、程よく引き締まっている。それを見た瞬間、双子が熱を出した時とは違う状況だということに美佳はようやく気づいた。 彼らが寝込んだのは中学生の時で、まだ成長過程の彼らの身体は男の人と言うよりはまだ少年で、こんなに意識をすることはなかったのだ。 「どしたん?」 武士は固まってる美佳の顔を覗き込んだ。その瞬間、我に返る。 「な、何でもないよ」 美佳は洗面器のお湯に浸けたタオルを絞った。 「背中から拭くね」 美佳は赤くなる顔を隠すように、武士の背後に回る。大きな背中に緊張するが、それを隠して背中を拭き始めた。 「何か悪いなぁ」 「え?」 突然武士がそう呟く。 「何から何までしてもろて。・・・・・・彼女でもないのに」 その言葉が何だか悲しい。それを隠すように、美佳は頭を横に振った。 「ううん。あたしこれでも家事とか好きだから。・・・・・・家にいたらやらないけど」 そう言うと武士は笑った。 「そうなんや。でもホンマ、助かった。美佳ちゃんがおってくれて良かった。ありがとう」 思わぬ言葉に、顔がニヤける。顔が見られなくて良かったと、変に安心した。 「あ。美佳ちゃんって彼氏おったっけ?」 「へ?」 突然の質問に妙に焦る。 「な、何? 急に」 「いやー、彼氏さんおったら悪いなぁって」 何でこんな時にそんな気を使うのだろう? 不思議に思いながらも口を開く。 「大丈夫よ。そんな人いないから」 「えー? そうなん? でも美佳ちゃん、モテるやろ?」 「モテないよ」 実際そうだ。告白なんてされたこともないし、彼氏がいたこともあるが、それは自分から告白したからだ。 「そうなんか? じゃあ男が見る目ないんやな」 「何それ」 思わず美佳は笑う。だけど嬉しい。少なくとも武士は好意的に見てくれているのだから。 「そんなこと言って、お嫁に行けなかったらどうするのよ」 意地悪く聞いてみる。 「そん時は俺がもらったげるよ」 武士はそう言って笑った。 嬉しすぎる言葉に、何だか泣きだしそうになってしまった。例え冗談だとしても、例え熱に浮かされてるとしても、嬉しい。 「そんなこと言って、武士くんの方が先に結婚してたりして」 口をついて出た言葉はかわいくないものだった。どうしてこうなんだろう? 自分が嫌になる。 しかし武士は気にせず、苦笑した。 「どうやろなー」 こんな会話ばかり続けていても、変なことを口走りそうなので、美佳は話題を変えることにした。 「ねぇ、武士くん、あの写真って・・・・・・」 武士の腕を拭きながら、棚の上の写真立てやコルクボードを指差す。 「あぁ、あれは俺の宝物」 「宝物?」 美佳は思わず聞き返した。 「俺さ、アキ・・・・・・俺助けてくれた親友、義彰って言うんやけど。アキが亡くなってから、『一期一会』って言葉がすごい身に沁みてな。今日は会えたけど、明日は会えんかもしれん。もしかしたら一生会うことないかもしれんって思うようになってな。それから今まで会った人を忘れんように、写真に撮ってんねん」 「それでよく写真撮ってたんだ?」 美佳の問いに、武士は頷いた。 いつもどこからかデジカメを取り出し、皆の写真を撮る武士を少し不思議に思っていたが、その謎が解けた気がする。 「ねぇ・・・・・・あの端っこにある写真に写っているのって、義彰さん?」 美佳の言葉に、武士は写真を見やる。眼鏡のレンズ越しに見えた写真には、確かに義彰が写っていた。 「そう」 「義彰さんって、どんな人だったの?」 美佳はそう聞きながら、タオルをお湯に浸し、洗う。 「アキは・・・・・・不思議な奴やった」 「不思議?」 聞き返した言葉に、武士は頷いた。 「どんなにムシャクシャしとっても、イライラしとっても、アキが現れたら、そんな感情いつの間にかなくなってた。あいつが俺の精神安定剤みたいな感じやった」 「精神安定剤・・・・・・」 そこまで大きな存在だったとは、考えもしなかった。 タオルを絞り、今度は武士と向かい合う。 「あ、美佳ちゃんに似てたかも」 「え? あたしに?」 目の前の満面の笑顔と言葉に、美佳は驚いた。 「うん。雰囲気とか、美佳ちゃんに似とるかも」 そう言われて、嬉しいような恥ずかしような複雑な気分になる。 「あたしの雰囲気って・・・・・・?」 少々緊張しながら手を伸ばす。男性だということを意識せずにはいられない喉仏がゆっくり動いた。 「明るいとことか、友達思いなとことか」 「それ、別にあたしじゃなくてもたくさんいるんじゃない?」 また口をついて出てしまう、可愛くない言葉。どうしてもっと素直になれないんだろう。 美佳は武士の顔が見れずにいた。しばらくの沈黙の後、武士が口を開く。 「美佳ちゃんさ、もし葵ちゃんが誰かに殺されそうっていう現場におったら、どうする?」 「助けるよ。迷わずに」 美佳は自分でも驚くほどの即答をした。 「自分が、死ぬかもしれんくっても?」 武士の質問に、美佳は頷いた。 「何で・・・・・・?」 呟くような声に、美佳は顔を上げる。 「葵は今まですごく苦労してきた。両親が亡くなって、双子の弟育てて、働いて・・・・・・。自分のやりたいことも、自分の気持ちさえも押し殺して今まで生きてきた。そんな葵がせっかく掴んだ幸せを、誰かに壊させたくない。葵は幸せにならなきゃいけないの。絶対に」 段々と目線が下がり、タオルを思わず握りしめた。すると大きな手が美佳の頭を優しく撫でた。驚いて顔を上げると、武士は辛そうに笑った。 「うん。やっぱりアキに似とるわ」 「武士くん・・・・・・」 その笑顔の意味が、美佳には分からない。 「なぁ、美佳ちゃん。抱きしめてもええ?」 「え?」 その言葉に動揺するが、武士の泣きだしそうな顔に折れる。 「いいよ。・・・・・・今日だけ、ね」 「おおきに」 そう言うと、武士は美佳を引き寄せ、抱きしめた。 武士の大きな体が美佳を包み込む。美佳は心臓が破裂しそうだったが、緊張する手を伸ばし、武士の背中を撫でた。 美佳の温かい手が、武士を安心させる。思ったよりも華奢で細い体は、力を入れれば折れてしまいそうだったが、不思議なほど安心できた。 翌日。すっかり熱が引いた武士は、仕事に復帰した。 「ご迷惑かけましたー」 スタジオに顔を出した武士は、何だか妙にすっきりした顔をしていた。 「俺らより、美佳ちゃんにお礼言わなな」 龍二が苦笑する。 「美佳、熱出てるって」 電話を切った亮が平然とそう言った。 「へ?」 「何で美佳ちゃんが?」 予想もしなかった言葉に武士も慎吾も驚いた。 「お前、美佳ちゃんに移して復活したな?」 透が意地悪く言う。 「・・・・・・何したんや? お前」 龍二に恐ろしい形相で睨まれ、武士は震えた。 「な、何もしてへんよ! ・・・・・・あ」 思い当たる節を見つけ、思わず言葉が漏れる。 「『あ』ってなんや! お前まさか・・・・・・」 龍二が立ち上がり、武士に詰め寄った。 「ホンマ何もしてへんって!」 確かにいい雰囲気にはなった。けど手は出していない。大体、熱を出しているのにそんな体力があるはず・・・・・・。 「熱出しとんやから、何もできんやろ」 自分の考えていたことを透があっさりと言ってくれた。 「それもそうか」 龍二は何とも簡単に納得した。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は透が黒い笑みを浮かべている。 「でも、何もしてないのに、そんな簡単に移るわけないよなぁ?」 時々透は透視能力があるんじゃないのかと思ってしまう。 「確かに。何があったのか、聞かせてもらうか」 今まで参加していなかった慎吾が、これまた意地悪く笑っている。 「何もないってー!」 武士の叫び声が空しく響いた。 「美佳、大丈夫?」 葵が心配そうな顔で、ベッドに横たわる美佳を覗きこんだ。 夕方、葵は仕事帰りに美佳の家に寄った。部屋に入ると、早めの夕食(と言ってもお粥)を食べ、薬を飲んで横になったところだった。 「大丈夫。お医者さんにお薬もらったし」 美佳はベッド脇のサイドテーブルに置いてある薬を指差した。それを見て葵はいくらか安心した。 「あ、今朝亮くんから電話あってね。武士くん、熱下がってスタジオに来たって」 「そっか。よかった」 葵の言葉にホッとする。 「でも美佳が熱出したんじゃ、世話ないね」 葵はそう言って笑った。 「ホントにね」 自分でも可笑しくて笑える。 「熱は?」 「んー。今朝よりは下がったと思うよ」 やはり体のだるさが違うので、何となく分かる。 「ならいいけど。あんまり続くようなら、もう一度お医者さん診てもらいなよ?」 「うん」 そんな会話をしてると、部屋のドアがノックされる。葵が返事して、ドアを開けた。 「あれ? 亮くん」 ドアの外にいた人物に驚いた。よく見ると、亮の後ろにもう一人いる。 「こいつがどうしても見舞いに来たいって言うから」 「そっか。どうぞ」 葵は亮の後ろの人物を招き入れた。彼と入れ替わるように、葵はドアの外に出る。 「じゃあ、美佳。あたし帰るね」 「え?」 驚いて、思わず起き上がった。寝そべっていた美佳の位置からは、ドアは見えない。起き上がった美佳は部屋に入って来た人物に驚いた。 「武士くん!」 「よう」 武士は苦笑いを浮かべて、挨拶をする。 「何で・・・・・・」 その時、自分がパジャマだということに気づき、急いで布団で隠した。 「俺の風邪、移してもーたみたいやから」 そう言いながら、武士は美佳に近づく。手には大きい果物かごがあった。 「これ、お見舞い。って言うても病人がこんなに食えんか」 いつもと同じ笑顔で笑う。昨日のことなどなかったかのようだ。果物かごを横に置き、ベッドの傍に座った。 「武士くんは・・・・・・もう治ったの?」 「おう。めっちゃ元気んなったで! 昨日美佳ちゃんが作ってくれたお粥のおかげかな?」 そんな嬉しいことを言われると、ニヤけてしまうではないか。 「よかった。風邪、治って」 「ごめんな」 突然謝られ、美佳は驚いた。 「俺の風邪、移したみたいで」 「違っ! これは・・・・・・移されたんじゃなくて。帰りに雨が降ったのよ。だから・・・・・・」 慌ててそう言うと、武士は柔らかく笑った。 「ほらほら。病人なんやから、寝そべって」 武士はベッドの上に座っている美佳を寝かせ、布団をかけた。 「ねぇ、もし義彰さんが生きてたら、今頃どうしてた?」 突然の質問に、武士は驚く。少し唸りながら考えた。 「うーん。どうしとったかなぁ? でも・・・・・・何かしら音楽はやっとったと思うで」 「義彰さんと?」 聞かれ、武士は笑った。 「どうやろー。あいつもドラマーやったからな。でもやっぱり音楽やってたと思うで」 「そっか」 美佳はその言葉を聞いて、少し安心した。どうして安心したのかは自分でもよく分からない。 「義彰さんは、幸せだっただろうね」 「へ?」 突然の美佳の呟きに、武士は驚いた。 「だって武士くんと一緒に過ごせて、武士くんの命を救って、武士くんを更生させたんだもん」 そう言われても、武士自身そんな風には思えない。 「でも・・・・・・俺がおらんかったら、あいつは死なんでもよかった・・・・・・」 「違うよ」 泣きだしそうな武士の頬に、美佳は右手を伸ばし優しく触れた。 「義彰さんは、離れようと思えば、いつだって武士くんから離れることできた。でもそれをしなかったのは、武士くんのこと、本当に大切に思っていたからだよ」 「そう・・・・・・かな?」 武士が呟くように訊くと、美佳はゆっくり頷いた。 「きっと、今も見守ってくれてるよ・・・・・・」 そう言いながら、美佳はゆっくりと目を閉じた。どうやら薬が効いてきたらしい。 左頬に触れていた手が力なく落ちた。 武士はその手を布団に入れ、もう一度掛け布団を首までかける。 「敵わんなー。美佳ちゃんには」 武士はそう言って、寝入った美佳を優しく見つめた。 帰り道、ふと空を見上げると、さっきまで晴れていた空が灰色に染まったいた。 「ヤバいな」 そう言いながら、ヘルメットを被る。バイクのエンジンをかけ、走り始めた。 雨の日は嫌いだった。あの事件を思い出してしまうから。 『義彰さんは、幸せだっただろうね』 美佳の言葉が頭に響く。 今となってはその真偽を確かめる術もない。 だけど、どんな時もずっと傍にいてくれた。当時の自分がどん底だと思っていたあの頃も、実は義彰のおかげでギリギリでもどん底には堕ちてはいなかった。 「ごめんな、アキ」 謝ったって、彼はもう帰ってこない。分かっているが、謝らずにはいられない。 『そういう時は『おおきに』って言うんやで』 ふと義彰の顔が浮かんだ。 「おおきに。アキ」 降り始めた雨に、そう呟きながら、武士はバイクを走らせた。 |