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彼女が、死んだ。
あまりにも突然すぎるその死に、爽一郎には心にぽっかりと大きな穴が開いているような感覚だけが残った。 婚約者だった麻子は、爽一郎の幼馴染でもあった。二歳年上の彼女を姉のように慕っていた。 高校生の頃、和菓子屋の社長である父に麻子との婚約が決められた。 恋愛に疎かった爽一郎は、下手に知らない人間と婚約するよりも遙かに良いことのように思えた。 初めは恋心なんて皆無だった。だけど、いつしか麻子に惹かれていた。 それなのに、彼女は死んでしまった。 爽一郎は一人、いつも彼女と来ていた海にやってきた。 いつもと変わらない風景。ただ違うのは、隣に彼女がいないだけ。 このまま堕ちていくだけなら、朽ちて海の底に沈んでしまいたい。そうすれば、深海魚の餌にでもなれるのに。 「海の中にも雪が降るって知ってた?」 不意に彼女の声が蘇る。それは婚約者になる前、海を見つめていた彼女が突然そう聞いてきた。 「マリンスノーって言ってね。元はプランクトンの死骸とかなんだけど。まるで雪が降ってるように見えるからマリンスノーって言うんだって」 そう言った彼女の横顔が今でも忘れられない。 「素敵よね。美しく死ねるなんて」 「美しい?」 思わず聞き返すと、彼女はフッと笑った。 「だって、死んでも美しく舞いながら、深海魚の餌になれるのよ。その死は無駄じゃないってことでしょ?」 彼女は結構、いやかなり変わっていた。その時はあまり気に留めていなかったが、きっと彼女は【死】というものをあの頃から考えていたのかもしれない。 砂浜に寝転がる。目の前に広がる群青色の空が、遠くに見えた。 彼女はまるで空気のようだ。隣にいるのが当たり前だったのに、いなくなるとこんなに息苦しくなるんだから。 うまく息ができない。すべての感覚が鈍くなっていく。 今、目の前に広がっている闇は、目を閉じているからなのか、物理的に暗いのかすら分からない。 海の波の音でさえも遠くなっていく。 絶望の淵に立たされた今、もがいてもどうにもならない。このまま抜け殻になってしまえば、いつか波がさらって行ってくれるだろうか? 想い出が重すぎる。こんなに苦しいなんて、思わなかった。 どうしてもっと大切にしなかったのだろう? どうしてもっと近くにいなかったのだろう? 後悔だけが爽一郎を襲う。爽一郎は両手で顔を覆った。いつの間にか溢れ出した涙は指の隙間から零れ、顔を伝い砂浜へと流れる。 胸が苦しくて、息ができない。どうすればこの深い闇から抜け出せるのだろう? いや、いっそのこと、このまま波にさらわれて海に沈んでしまえれば、どんなにいいだろう? 温かかった思い出が頭から離れない。忘れてしまえればどんなに楽だろう? 止めどなく溢れ出す涙は、火照った頬を冷やしながら、砂に溶けて行った。 どれくらいの時間経ったのだろう? 満潮になってきたのか、遠くにあった波が足元で揺れている。 「兄貴。いつまでここにいるつもりだ?」 目を開けると、弟の修二郎が顔を覗き込んでいた。 「いい加減戻らないと、海に沈むぞ」 修二郎はそう言いながら手を差し出した。 「・・・・・・沈みたい」 「何バカなこと言ってんだよ。兄貴らしくない」 修二郎が顔を歪める。 「麻姉が亡くなって落ち込むのは分かるけどさ。麻姉はそんな兄貴、見たくないと思うぞ」 そんなことを言われても、今のこの気持ちをどう処理していいのか分からない。 爽一郎が起き上がろうとしないので、修二郎は差し出していた手を引っ込め、爽一郎の隣に腰を下ろした。 「ホントはさ、口止めされてたんだけど・・・・・・」 修二郎がポツリとそう言い、何かを決意したように、口を開いた。 「麻姉、心臓を患ってたらしいんだ」 「え?」 思わぬ言葉に爽一郎は自分の耳を疑った。 「たまたま麻姉とおじさんと話してんのを聞いちゃってさ。もう婚約も決まってたし、俺、どうしたらいいのか分からなくてさ。麻姉に言わないのかって聞いたら、『自分で言うから言わないで』って言われたんだ」 思いもよらない事実に、爽一郎はガバッと起き上がった。 「何で・・・・・・!」 なぜ言ってくれなかったのだろう? 「言いだせなかったんだよ。ちょうど兄貴が仕事始めたばっかでいっぱいいっぱいになってた時だから」 爽一郎は両手の拳をギュッと握った。自分の不甲斐無さが心底嫌になる。 もし彼女の異変に何か気づいていれば、何か変わったのだろうか? 「でも・・・・・・でも麻子は事故で死んだんだ。今、それを知ったところで・・・・・・」 何も変わらない。 「麻姉にはよかったんじゃないかな?」 「え? どういうことだ?」 修二郎の言葉の意味が分からず、思わず聞き返す。 「病気で苦しんで死ぬよりは・・・・・・。麻姉は車線に飛び出した子供を助けて、代わりに轢かれたんだろ? 麻姉の死は、無駄じゃない。少なくとも俺は、そう思うけど・・・・・・」 『素敵よね。美しく死ねるなんて』 『だって、死んでも美しく舞いながら、深海魚の餌になれるのよ。その死は無駄じゃないってことでしょ?』 修二郎の言葉に、彼女の声が蘇る。マリンスノーの話をしていた時の、彼女が言った言葉。 ぎゅうっと胸が締め付けられる。自然と握っていた拳に力が入った。 「兄貴・・・・・・」 修二郎が心配そうに爽一郎を見つめている。爽一郎は俯いたまま口を開いた。 「いつか・・・・・・いつか麻子のこと忘れる日が、来るのかなぁ?」 その声が涙で震えていることに、修二郎は気づく。 「忘れなくていいんじゃないかな?」 思わぬ返答に、爽一郎は俯いていた顔を上げた。 「いつか、きっと、現われてくれるよ。兄貴のことも、麻姉のことも、総てを包み込んでくれる人が・・・・・・」 本当にそうだろうか? こんなにも苦しいのに、息をするのさえ辛いのに。 その様子を見た修二郎が、爽一郎の背中をポンっと叩いた。 「大丈夫だよ。きっと、麻姉が兄貴のこと見守ってくれてるからさ」 その時、海から優しい風が二人の頬を撫でた。潮の香りが鼻に通る。 まるで麻子が何かを伝えているような不思議な感覚がした。 「麻・・・・・・子?」 名前を呟くと、何故かすぐそこで彼女が笑っている気がする。 「帰ろうか。兄貴」 「ああ。そうだな」 二人はゆっくりと立ち上がり、海を後にした。 そして爽一郎が一人の少女との出会いを果たすのは、もう少し後のお話。 inspired:マリンスノウ/スキマスイッチ
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